episode66.違う国、違う世界
「なるほど。滅びがなければ、すべてやり直しがきく。互いが価値観でぶつかろうとも、それで損なわれたものを取り戻すことができる。痛みさえもなかったことになり、恐怖や憎悪、苦痛の類さえもきっと自分の力にはなれど、誰かを壊して滅ぼすものにはなりえない」
「おそらくは。私も自分の国でありながらすべてを理解しているわけではありません。それでも、きっと我が国の在り方は主上陛下の慈悲によるものだと、そう願っております」
種族間の差は科学によって平等にされ価値観が違えど臣民を同じように扱う。想像力を必要とする魔法によって一人一人の異なる想像力を神聖帝国の発展に寄与させ誰でも活躍できるようにする。
このように社会主義と資本主義の間にあるようなイデオロギーは神聖皇帝の御心による社会体制に違いない。
あんな神聖皇帝でも、この点に於いて彼女の慈悲によるものだとセレネは思いたい。
この社会体制によって滅び自体を遠ざけている。皆幸せな人生ならそれを放棄することはほぼない。死の救いさえも用意すれば生きることに不安を覚えることもない。
「記憶も消してしまうのでしょうか? 噂で貴国には特定の記憶を消せる魔法があると聞きます」
「場合によっては消すこともできます。我が国では”記憶の川水”と呼ばれる個人情報保護施設がありますが、忘れたい記憶は全てそこに預けて忘却できます」
記憶の川水は本来臣民が理不尽な死を迎えた際、その魂をも復活させるために必要な施設だ。肉体はいくらでも再生できるものの、魂の情報だけはこの施設を使わなければならない。
臣民は万が一のために定期的に魂の情報をこの施設に記録する。戦争で死んだ兵士も、その死亡が確定すれば本土で記録した時点の自分として復活する。いわば、上神種の特性を人工的に発揮できるようにしたものなのだ。
故に、神聖帝国の臣民は滅びが遠い。神聖帝国に於いて死は状態でしかなく、生きることが退屈になった者は一時的な死を選ぶことがある。
もうここまで来ると生きること自体に執念を感じる。おかげで人口管理は大変だ。
「しかし喪失を忘却した存在は、喪失故の成長を得られるのでしょうか? 世界が失われて180年。それでも人類は発展し、成長をしています」
「……そうですね。我が国の者は過去の出来事を忘れているわけではありません。長命種は過去の悲劇を忘れていませんし、なにより我が国の皇族は永遠にその記憶を保持し続けます。我々が成長を止めない限り神聖帝国は成長できるでしょう」
「それは……また、大変な公務ですね……」
羅紗が一瞬同情する心情を見せたが、セレネもなんとなくわかる。臣民が人工的に滅びを迎えないのとは違い、上神種は生き物として滅ぶことができない。それこそ永遠の時間を手にしている分、終わりなき不安に常にさいなまれ続けることだろう。
そしてセレネもきっと――。
「この話はやめにしましょう。それぞれの国に喪失の認識があり、それぞれが違う世界に生きている。ただそれだけのことですから、深堀する必要もありません」
羅紗はそう言うと、水を口に含んだ。
そしてセレネもそれに同意するようにうなずき、再び駒を進ませる。
同じ言語を話していても、神聖帝国と豈皇国は違う国なのだ。なぜそこに国境があるのかといえば、互いが完全に受け入れられないからであって、違う世界に生きている証左に他ならない。だからその違うをわざわざ掘り返して溝を深める必要もないだろう。
皇族同士の話題としては少々不適切だ。
「そういえば、殿下は水しか飲まれませんね」
セレネはボードゲームの局面を考えながら羅紗に別の話題を振る。
「お菓子は苦手なのでしょうか?」
羅紗はセレネが見る限り水しか口に含んでいない。出された茶は呑むふりをしつつ実際は唇を濡らす程度しか飲んでいなかったし、菓子に手を伸ばしてすらいない。なんだかもったいない気がしていた。
それに目の前にいる羅紗はやはり人間には見えない。最初はただの違和感だったのだが、彼と少し生活してみて、どうにもその存在が人間らしくないことに気づいたのだ。生物として必要な機能が足りない気がしてならない。
ここは機密性が高い。ここでなら答えてくれるかもしれない。
「そうですね。本当は本土についてからお話しする予定でしたが、事前にお話しした方が驚きも少なくて済みましょう」
そう言うと羅紗は一度背を正して答えた。
「あなたには私が女性に見えますか? それとも男性に見えますか?」
「……えっと、体系的に女性が近いとは思います」
「はい。この体は確かに女性のものです。しかし本来の私は男性として生を受け、そして今も男性であるのです。この身体は人工的な産物でしかありません。なので水しか飲んではならないのですよ」
言っている意味がよくわからない。女性であるのに、今でも男性である。それは形だけ女性で、中身だけは違うとでもいうのだろうか?
性転換なら普通のことだが、羅紗に関しては何か違う気がする。
「困惑するのもわかります。しかし一つだけお伝えしなければならないのは、我が国において皇族とは敬われるような存在ではなく、国のために生かされている一族でしかないということです。聞いている限り貴国の皇族とは真逆の存在でしょう」
やはり話が見えてこない。豈皇国の皇族に対する認識も驚きだが、それがどう繋がるというのか。
「よくわかりません」
「そうですね。少し遠回しに言ってしまいました。簡単に言ってしまえば、この体は本当の私の体ではないのです。本当の体は今でも本土に安置されています」
「え?」
国のために生かされている。敬れてもいない。
皇族がそのような扱いを受けていること自体信じられない。
「ご病気か何かなのですか?」
「いえ、体は虚弱なことを除けば健康そのものですよ」
体は偽物、そして生かされているだけの存在。
自由が本当にない。
「外に、出してもらえないのですか?」
「そうですね。我が国において、皇族とは奴隷のようなものです。国家の永続を証明する血を残すだけの一族。まあ、ほとんどの国民はその認識さえもありませんが」
どこか自虐的にいう羅紗は寂しそうでもあった。
「だからあなたが羨ましい。自分の体で、外の世界に出られるのですから」
「しかし、なぜそのようなことに?」
「それも、我が国の天帝陛下にお会いなさればわかると思います」
するとそこで艦内に放送が入る。ちょうどこの潜水艦は豈皇国首都ヤマタイのヤマタイ湾に着いたらしい。ここからは隠れながらの上陸となる。
全く違う両国――。
【用語解説】
・レーテー
古代の言葉で忘却や隠匿を意味する言葉。そして後に真実を意味する言葉にもなった。
とある神話に於いてあの世にはいくつも川が流れており、そのうちの一つの名前でもある。この川の水を飲むと完全な忘却を得ることができるとされる。そして死者はこの水を飲まされてから転生するため、前世の記憶を忘却してしまう。
また、水の精霊の名前でもあり、それは忘却の象徴として扱われる。
これに対してムネモシュネ―という名前の川もあり、こちらの水を飲むと全てを記憶し全知となるともされた。
有名な哲学者の本にもレーテーを用いたものがあるなど、近年でも忘れられた概念ではない。
・ヤマタイ
解説するわけではないけど、これ間違った読み方が一般的になって学校で教えられてるんですよね。まあ、ここではそれを使ってます。数千年も経てば言語の発音も変わりはしますが、こればかりは現代人が過去の記述を見て現代人の解釈で呼んだとしか思えません。
まあ、読み方が分からないせいなんですが、それでもこの読み方はちょっと酷いですね。
【解釈について】
神聖帝国では性転換に関しては普通の概念で、生きやすい性別を選ぶことができます。費用としてはこの世界の放射線治療に少々プラスする程度で、生殖機能も備えた性転換が可能となっています。魂について、そして魔法についての理解がかなり進んでいる神聖帝国ならではの考え方なのでセレネが性転換を普通と捉えている原因でもあります。しかし世界的にはそのようなことに力を入れる余裕がほとんどないため、性転換はかなりマイナーな概念になっています。それこそ金持ちか、余裕のある国家の一部くらいでしょう。
一応書いておきますと、羅紗は望んで女性の身体を手に入れたのではなく、豈皇国の存続には必要な処置として女性の身体にされています。国家のために個人を蔑ろにすることはよくあることですが、皇族に対して強いる国はあまりないのではないでしょうか?




