episode2. 皇女セレネ
新月歴172年12月30日。
珍しく空には雲もなく、澄んだ空気と共に晴れ渡った快晴が広がっている。そして万年雪が降り積もることによって形成された氷床が燦然と輝く陽光を反射させ、目に痛みを与えるほどに輝いている。
外は本当に眩しい。こんな景色が何千キロも続いていると思うと、出歩くことすら躊躇してしまう。
まさに、氷の砂漠だ。
ここは星の極地、メガラニカ大陸の極点。氷点下を下回る極寒の世界。陽はかなり地平線近くまで降りていたが、今度は登ろうと緩やかにその軌道を変えていた。
ここずっと繰り返されてきた現象である。いわゆる白夜というやつだ。つまり一応季節的には夏なのだが、やはりここは寒すぎる。
そんな朝と言っていいのか分からない空が大陸に広がる早朝。一人の少女が目を覚ます。彼女の部屋は薄暗く、体内時計を狂わせないように造られた目に見えない照明は徐々に明るさを取り戻しつつあった。
その様はまるで空間自体が明るくなっていくかのよう。
彼女の名はセレネ・H・ルオンノタル。このメガラニカ大陸全土を領有する神聖ルオンノタル帝国の皇女の一人だ。
「ふあぁ……」
自然と目を覚まし起き上がると彼女はまず伸びをして大きな欠伸を漏らす。そして眠気眼の目を擦ると、呆けたようにベッドの天蓋をなんとなしに見やった。
そのぽけーとした様は全く皇女らしさがない。どこにでもいるような少女そのものだった。
彼女の立場から考えればそんなだらしないところを大衆には決して見せてはならない。それがこの一族に生まれた運命だ。
だがここは彼女の私室。誰の目もない、唯一気の抜ける空間であった。彼女にとって一番落ち着くところでもある。
「殿下。お目覚めでしょうか?」
もう一度欠伸をしたところで部屋の外から声が響く。侍女のスィリア・スィーティだ。
「今起きたところよ。入っていいわ」
「失礼いたします」
その言葉と共に、貴重資源である天然木材を用いた優美な扉が開かれる。そしてそこからスィリアが入室してきた。
彼女は精霊種の女性で、その6枚の結晶のような緑色の翅が美しい。長い耳も特徴的で、その金髪も相まってまさに神代の神語や神話のお伽噺に出てくる妖精のようであった。
加えて彼女の出自は神聖ルオンノタル帝国を構成する自治国の一つであるパーマー王国であり、その第14王女であったりする。それゆえに礼儀作法など侍女としての嗜みはよく心得ており、その振る舞いはとても優美だ。
そんな彼女はセレネの前まで来ると鷹揚に礼をした。
「おはようございます。殿下」
「おはよう。今日の予定はどんなものだったかしら?」
予定を問うとスィリアは指に嵌めた指輪に触れると何もない空中に画面を徐に表示させた。それをセレネに見せながら答えてくれる。
「本日の予定は午前中が勉学、午後は魔法の訓練と礼儀作法ですね。それから夕食までは特になく、その夕食は主上陛下との会食です。その後は何事もなければ自由時間となります」
「ああ、今日が陛下との謁見日だったわね。うぅ、緊張する……」
その会食のことを考えただけでも身体に緊張が奔ってしまう。そんなセレネを宥めるようにスィリアは柔和な笑みを浮かべた。
「大丈夫ですよ。公式な謁見ではないのですから、気楽にしていれば良いと思います」
「まあ、そうね……」
主上陛下とは神聖ルオンノタル帝国の国家元首であり、神聖皇帝とも呼ばれるこの国の支配者だ。そして初代皇帝にして建国当初から172年君臨し続けるセレネの祖母でもある。
生存している世界最古の魔女であり、この国のどんな種族よりも強大な力を持つ。それ故に皇帝の座に就いている。神と呼ばれる種族でさえも力で従え、どんな種族も神聖皇帝の前では等しく弱い存在なのだとも言われている。
「どうにか仮病にできないかしら……」
「何を宣っているのですか。一応非公式とはいえ、公務に違いないのですよ?」
「わ、わかってるわ。冗談よ」
セレネも何度か公式な場で陛下に謁見したことがある。その時は幼かったこともあり、その力に充てられ泣きそうになった。何といえばいいのか、オーラとでもいうのだろうか。神聖皇帝には近づいてはいけないと本能が泣き叫んだのだ。
あの時は必死で泣くのを我慢して式典が終わることを切に願っていた。
ある意味トラウマだ。国中が注目する式典の中で半べそを掻く皇女。今でもネットを通じて検索を掛ければその時の映像が出てくるくらいに黒歴史になっている。
久々とはいえ……謁見したくない……。
悠久の時を生きている主上陛下であるからこそあそこまでの力を手にしているのだろう。主上陛下の10分の1も生きていないセレネではその強さを推し量ることなどできない。文字通り肌で感じるほどに色々と次元が違う存在なのだ。
まあ、どんなに足掻こうとも流石に赴くしかないのだが。
「では、まずお召し替えといたしましょう」
「……そうね。お願いするわ」
そうしてセレネは再び軽く伸びをして身嗜みを整えるべく立ち上がった。それでも眠気は消えず目が今にも閉じそうだ。
暫くしてスィリアが服を持ってくると共にセレネの寝衣を脱がしていく。
の、だが……。
「おお、殿下も成長なさいましたね。私感激しちゃいます!」
「ひゃぁぁああああっ!!? ちょっ! 変なとこ触らないでよ! やめなさい! スィリア!」
「もうっ。昔みたいにスィリアお姉ちゃんと言ってくれてもいいんですよ? 別に誰も見ていないですし。私だって妹のような殿下の成長は嬉しいものなんですぅ」
「私はもう大人です! 今すぐ端ない真似を止めなければ追い出しますよ?!」
皇女と侍女という関係と言っても幼い時から共にいると姉妹のように気兼ねなく絡むこともある。血は繋がっていなくとも心の繋がりでは姉妹と思っているくらいには仲が良い。
特に誰もいない場所では互いに気を抜いて話せる。
最近はセレネも大人になってべたべた甘えなくなった一方、スィリアの方が甘えてくることが多いのだが……。
それでも、流石に胸に触ってくるのは問題があるだろう!
淑女として色々問題がある。いや、ヒトとして終わってる気がする。セレネだってもう皇族の中では大人扱いされているのだ。流石に見逃せない。
「ええ? ここ一週間我慢したんですからいいじゃないですかぁ。甘えさせてくださぃ~。嗚呼、髪の触り心地もなんとも……。スリスリ〜」
「むぅ。今だけですよ? それとまた変なところ触ったら理想庭園で吊し上げます」
「おお、怖い怖い。……ああ、こうやって頭撫でてると落ち着きますぅ。いい香り……」
暫くの間セレネはスィリアに人形のように撫で回され、朝食の時間が30分ずれ込んだのだった。
【用語説明】
・万年雪:夏になっても解けずに残り続ける雪のこと。舞台となる神聖ルオンノタル帝国の本土は星の南極に位置し、寒冷化した星の影響も相まって大陸は全て氷床に覆われている。そして降り積もった雪は決して解けることなく、分厚い氷の砂漠は地平線の先まで続いている。しかしとある事情から、この星で唯一自然のままの生態系が息づく地域でもある。
・神語:神話とは歴史の中で為政者の都合によって捻じ曲げられたり、歴史の抗争や事件の中で消失してしまったことが原因でその9割は現代人が勘違いしている物語。その中でも誰かの意志で捻じ曲げられることなくただただ物語として伝えられた歴史を神語という。しかしそれは神話に比べると知名度は圧倒的に低く、その内容に関しても理解が不可能な音が大部分を占め、神話同様に事件や後継者の不在で伝承が途絶えてしまい、本来の意味はもはやほとんど伝わらない。その点で言えば、神話も神語もその9割ほどが本来のものとは異なって伝えられる、大昔の物語。例を挙げれば、日本書紀は神話。古事記は神語をかき集めたもの。しかし時間が経ちすぎていることもあり、少しの違いしかない。
・ユークロニア:本作品におけるユートピアとクロニクルを併せた造語。理想郷とただただ記録する年代記を合わせたそれの意味するところは、暗黒郷的世界に築かれた局所的な理想郷であり、自分の思い描く幸せが記録されながらそれを夢見ることのできる場所。そこに訪れた者は永遠の幸福を須臾の時の中で得、そしてその代償に残りの己の時を捧げて記録と化す。神聖帝国では頻繁ではないものの、多くのヒトビトがその場所に赴き、絶望を捨て去ってきた。そこにはただただ静寂ばかりが満ちている。
・メガラニカ
……。