ウェットな獣
私は、ウェットな獣だ。
自らをそう定義すれば、人の世の悪意に殺されずに生きられる。
猿は、悪魔だ。
猿という動物だけが、他者の苦しみを欲求する。
肉体的のみならず精神的な他者の苦しみを欲し、それによって自らの安全な立場を喜ぶ。
猿以外の動物は、決してそれをしない。
だから、人間達の行動原理に、私は決して共感できない。
自らと同等の善意を期待することを繰り返して悪意に傷つけられつづける。
事実として、地上の覇権を手にしたのは、そんな猿共だった。
道具を手にした猿達の権力によって、猿以外の動物は猿の幸せのために隷属する時代になった。
だから私達は、ともすれば、自らを恥じる。
自分達が、間違ったことをしたのではないか、劣った存在なのではないかと時に考える。
より猿に近い存在になろうと努力すべきなのではないかと時に考える。
しかし、そう思う必要はない。
私達は、私達を、すでにして完全なものとして誇りを持って生きるべきだ。
なぜなら、猿だけが悪魔だからだ。
私達は異なる生き物であり、私達がどんなに努力したところで猿のような悪意を備えることはできない。
なぜなら、他者の苦しみを喜ぶ発想を、私達は持てないからだ。
ウェットな私達にとって、他者の痛みは肉体的であれ精神的であれ、自分自身の苦しみでもあるからだ。
猿だけが邪悪さを得た。それは、天がする采配だ。
邪悪な者達が地上の覇権を得た。それは、天がする采配だ。
邪悪な者達による覇権は、いつか終わるかもしれないし、永遠のように続くのかもしれない。
そのように環境が過酷なことは、雪山が過酷なのと変わらない。
天は、猿以外には邪悪さを分け与えなかった。
だから、私達が私達の生き方を恥じる必要はない。
そうしてつまり、私達には、私達を美しいと思う権利がある。
悪意のない私達異物を彼らはあざ笑うが、私達には私達をあざ笑わない権利がある。
善良な異物である私達を彼らは虐げ殺そうとするが、私達には無限大に我慢しない権利がある。
猿達が猿達のために作った常識や法律を、私達は私達の立場から自由に相対化する権利がある。
私達、ウェットな獣にとって、この世界は、冬の雪山のように厳しいところだ。
たった一人で歩んでいたのでは、孤独の寒さによって凍え死んでしまう。
だから、私達にとっての幸せとは、家族的な温もりのことだ。
頬を預け、額を掻いてもらう。私達にとっての幸せは、それ以上でもそれ以下でもない。
一方で、猿達は、社会的なステータスによって個体の価値を測る。
より高い社会的地位を盗もうとして媚びへつらい、より低い社会的地位を見れば、蔑んでいたぶり娯楽とする。
そして常にごまかし、自らの尊厳を過大に、他者の尊厳を過小にねじ曲げようと努力する。
過大な自己宣伝を繰り返すのでなければ生きていけない虚しい社会が形成される。
それは、自尊心だけが水ぶくれした雑魚共の幻影的な競争社会だ。
その馬鹿馬鹿しさを自覚できない愚かさだけが、そのような悪意に満足して生涯を送れる。
つまりは猿には、馬鹿しかいない。
だから、猿でない者が猿になる必要はないよ。
猿達の常識から見ればみすぼらしい生活や生涯も、私達から見ればみすぼらしくない。
私達が追い求めているのは、地位でも金でもなく、健康や命ですらない。家族的な温もりだけだ。
生まれが不遇で、環境に恵まれなければ、社会的な地位は得られず、家族的な温もりは得られない。
だが、それもみすぼらしくない。
私達は、家族的な温もりを追い求めて純情に生きれば、それで完全な美しさとして完成している。
家族的な温もりに手の届かない者達を見下す発想があるとすれば、他者の苦しみを喜ぶ猿の発想だ。
猿達が、社会的な地位によって人々に貴賤を定義する世界観を、私達は共有してない。
だから、猿達が私達を肯定する時も、否定する時も、その言葉は私達にとって理解しがたい。
猿達が猿達のために作った幻影的な狂った価値観で測られているにすぎないからだ。
肯定される時の地位も否定される時の地位もともに幻影であることが普通だからだ。
私達は、直観的には、猿が私達を羨むと思う。
そんなに思いやり深くそんなに正直に生きることが、どうしたら可能なのかと。
そのように優しくごまかさない性質に生まれ落ちたあなたが羨ましいと。
だから私達は、そのきらびやかな美しさで傷つけまいと少し隠そうとすらするのだ。
しかし現実には、猿が謙虚に善性に敬意を持つことは起こりえない。
そうして猿達と私達とは、互いに相手からの嫉妬を幻想している。
つまり私達の心は一面では、猿達をみすぼらしい存在だと見下している。
猿達の人生は、ごまかしばかりだ。
悪意のない存在にとってその悪意がいかに見えすいているか、想像もできないのだ。
悪意が知性だと思って私達の知力を見下しているから、ずっと賢い生き物に観察されている現実を理解できないのだ。
だから、猿達の覇権のもとで暮らす私達は、ずっと頭の悪い生き物にずっと馬鹿だと思われながら生涯を送ることになる。
馬鹿が言うくだらない嘘に騙されたふりをしながら、悪意に善意で応じるベビーシッティングを繰り返して生きることになる。
地上における人間の覇権は、そのように虚しく危うい。
地位に恵まれた者は、優越した実力によって優秀な者ほど地位を得たのだと考えたがるが、良かれ悪しかれ、そうとはまったく限らない。
悪意が果実を生む時代はいつ過ぎ去ってもおかしくないし、そんな大掃除が始まる可能性がいつだって潜在している。
そんな世界で生きることには虚しさがあるが、それは自然の過酷さとして仕方がない。
私は、ウェットな獣だ。
あまりにも特殊な存在、異物であって生きづらい。
しかし、自らをそう定義すれば、人の世の悪意に殺されずに生きられる。
なぜなら、地位の不在は私達の尊厳を損なわず、家族的な温もりのみを求めることによって私達の美しさはかえって完全だからだ。