第六話 黒竜
前世で、とある国の舞踏会に招かれたことがある。絢爛豪華な会場の中で、着飾った紳士淑女が優雅に踊る様に、ど田舎出身だった俺はすっかり目を奪われた。なんとなくその時の感覚に似ているが、衝撃の大きさは、今この瞬間のほうがずっと上だった。
右手をゆっくりと前に上げ、パルナはその場でふわりと跳ねる。
黄金の髪が羽衣のように揺れた。
長い睫毛で縁取られた蒼い瞳は、両眼とも半分ほど閉じられ、物憂げだが艶のある表情を形作る。
桃色の唇は静かに歌うように、微かな詠唱の動きを見せる。
それら全ての所作が、完成された神事の舞のようだった。
目視できるほどに濃密に練り上げられた闇の波動は、そもそもが奇跡的なまでに整ったその容姿を包みこみ、混沌に支配されたこの空間にあって堕ちた神が如き背徳的な美しさを醸し出していた。
二体の悪魔はおろか、醜怪なスペクターたちまでもがその光景に釘付けに、なることもなくこちら目掛けて怪光線を一斉に発射してきてどわああああああ!
……ふう。少し油断した。こちらはこちらで戦闘中だった。
拾い上げた剣を再強化し周囲のスペクターたちを薙ぎ払いつつ、だがやはりあちらの様子が気になって目が離せない。
無詠唱なのか、先ほどまでの言葉にならない吠え声が詠唱だったのか、牛頭の悪魔が眼前に八つの拳大の黒球を展開する。
闇の魔力が超高密度で圧縮されたそれらは、火花のような音を弾けさせながら、さらに暴威を蓄え膨張していく。
「グワアアア!!」
一つ一つが人の頭ほどの大きさになったところで、牛頭の悪魔が黒いトゲに覆われた腕を無造作に振り抜いた。
爆風を巻き起こしながら、八つの黒球は目にも留まらぬ速度でパルナの周囲に殺到する。
爆音が連続して轟き、漆黒の柱が八つ、五メートルほどの高さまで立ち昇る。すぐにそれは一つになって巨大な暗黒領域を作り出し、全てを閉ざし、閉じ込めた。
莫大な闇のエネルギーが領域の中心目掛けて集約されると、竜巻のような暴風が周囲に吹き荒れ、内部では全てをすり潰す強力な力場が発生した。軋み、砕かれるような音が聞こえる。
最悪の結果を想像してか、結界内の女子生徒が悲鳴を上げる。
「こっちじゃ愚か者」
だが、パルナの声は牛頭の背後から聞こえた。
風系統魔法、輝鳥天翔。超高速の移動と、完全慣性制御を可能にする最上級飛翔魔法。
戦闘においては制空権を一気に掌握できるが、魔法の発動と維持に相当量の魔力を必要とするため、一流の魔導士しか扱うことはできない。
俺はパルナの口の動きでこの魔法を察知していたため、牛頭の魔法を見てもそれほど心配はしていなかった。
ん?そもそも、何で俺が魔王の心配などしなければならないのだ、バカバカしい。
パルナは牛頭に振り返る猶予すら与えず、零距離で無詠唱の炎槍爆獄波を撃ち込んだ。詠唱時ほどの威力は無いが、悪魔の片腕を貫き焼却するには充分だった。
轟音が響き、焼け焦げた匂いが鼻を掠める。
「グモォォォォァァァ!!!!」
怒りの咆哮をあげる牛頭の悪魔。すぐに再生が始まるが、パルナの次の詠唱のほうが先に終わりそうだ。
しかし横合いから、四本の腕による雨のような刺突の乱射が襲った。
パルナは輝鳥天翔による超高速で間合いを取るが、山羊の悪魔はほぼ同等の速度で追い縋る。
パルナの右手から再度、炎の槍が放たれるも、山羊の悪魔が即座に展開した空間の歪みに吸い込まれてしまう。
「〈黒穴〉か。さぞかし名のある魔族だったのじゃろうな」
黒穴、は、よく知らんが何かの闇系統魔法の通称だろう。さっきの牛頭といい、正気を失ってもこれほど高度な魔法を操れるというのは驚異的だ。
山羊の悪魔は刺突の速度を徐々に上げていく。パルナは回避を続けるが、白い肌には切り傷が増え、鮮血が空中に飛び散る。
さらに牛頭の悪魔がパルナの背後を取り、猛然と拳を叩きつけてきた。一発一発にかなりの魔力が込められていることが見て取れる。喰らったが最後、致命傷は免れないだろう。
ひらひらと舞うように飛行しながら二体の悪魔の猛攻を避け続けるパルナだったが、少しずつ動きが鈍くなっていく。
……流石に血を流しすぎだ。まずいかもしれない。
こっちはようやくスペクターの群れが片付いた。
……別に助ける義理はないが、曲がりなりにもこの国の王女ではあるし、魔王とはいえ見知った顔が目の前でやられるのは寝覚が悪いからな。うん、そういうことだ。
さっきから俺の中で膨らみ続ける焦りのようなものは、これで説明がつくに違いない。
よし、まずはあの牛頭に斬り込んで。
と思って踏み出しかけた足を、すんでのところで引っ込める。
危なかった、この感じは……。
「ようやく描き終わったわ。慣れない魔法は難儀じゃのう」
二体の悪魔たちも、自分たちの周囲にパルナの切り傷より流れ出た血が漂い、そしてそれが立体魔法陣を形成していることに気づいたようだったが、もはや手遅れだった。
「さて、遊びは終わりじゃ」
血界が淡い燐光を放ち、辺りに魔力が充満する。二体の悪魔は発生した力場に動きを拘束されているようだ。必死に手足をばたつかせているが、効果はない。
パルナが、詠唱を始める。
【清浄なる水の王 高潔なる火の王 悠久なる地の王 奔放なる風の王 血の冥約に従い 原初の獣を解き放て 汝の名は 混沌】
「【天魔大瀑布】!!」
天魔大瀑布。四大系統全混成魔法。自らの血を媒介に、四大系統の属性を凝縮し圧縮し練り合わせ、反発と対消滅から莫大な破壊エネルギーを発生させる奥義。
血界内で渦巻く破滅の濁流に、悪魔たちはなす術もなく飲み込まれていく。
悲鳴を上げる間もなく四肢は分断され、身体は粉砕され、全ては分解された。
万物を滅する大魔法が収まった後には、地面の抉れた痕のみが残っていた。
「悪魔なんぞに堕ちおって、愚か者どもが」
何を思っているのか、そう独りごちたパルナの横顔は僅かに悲しげだった。
「大丈夫か?」
「誰の心配をしておる。勇者の分際で生意気な」
パルナは俺が駆け寄るのを嫌そうに一瞥する。
「いやいや、かなりの出血なんだが」
「魔法の触媒じゃ。多少大盤振る舞いしたがな」
近くで見てよく分かったが、冗談で済む怪我ではない。人間なら立派に重傷だ。こんな無茶な戦い方をするとは、魔族の感覚が抜けきっていないのか?さっさと処置しないとまずい。
「いいからこっちこい」
「はわ?」
少し乱暴だったかもしれないが、パルナの腕を取ってぐいっと引き寄せると、印を結び詠唱する。
【アル・ウルト・シータ 繋ぎ紡げよ 天の糸】
「【聖印繭糸】」
聖印繭糸。光系統治癒魔法のひとつ。光の糸が対象を包みこみ、傷を治す。
傷の周囲に記録された、本来「在るべき姿」を読み取り魔力で再現・補完するものであり、生き物であれば欠損後数時間、物であっても数分以内であれば元通りにすることが可能である。
ただし、傷があまりに深い場合は周囲から「在るべき姿」が読み取れず失敗する場合もある。
少しのち、光の繭から解放されたパルナは、身体の傷はもちろん、破れたドレスまでもが完璧に修復されていた。
まぁこんなもんだな。怪我のこともあるが、あんなに服がボロボロの状態を騎士連中に見られたら大変だった。
ん?
「なんだ?」
なにやらパルナが呆けたような顔でこちらを見つめている。
少ししてこちらの視線に気づいたのか、
「な、なんでもないわ!」
ぷいっと背を向けてくる。なんなんだ一体。
「いやしかし憎らしいくらいに便利な魔法じゃのう。大魔法を数十発叩き込んだのに、煙の中から無傷でひょっこり出てこられたときは流石にウンザリした覚えがあるが、これがカラクリじゃったか。反則じゃ」
こちらに背を向けたまま、やけに早口でどうでもいいことを口走るパルナ。
「あれは別の魔法だな。こっちのは時間かかるし深い傷には使えない」
「なんじゃと、もっと上位の魔法があるのか!まったくズルいのじゃ卑怯じゃ反則じゃ」
さっきの傷程度なら一瞬で回復してた魔族の肉体の方がよほど反則だったぞ、と俺は呟きかけ、ふと気づく。
いつのまに俺は、彼女が人間に転生したのは本当だ、と納得したのだったか。
最初は半信半疑、いや九割がた嘘だと思っていたはずだが。
闇系統魔法が使えない、という話も、きっと嘘ではないのだろう、と今は思えてしまう。先程の傷を負った少女の姿が、とても儚げに見えたからだろうか。
だが。
俺は、危うく緩みかけた気持ちの糸を、再び強く張り直す。
油断をするわけにはいかない。
たとえ本当に人間になったとして、だからなんだというのだ。相手は魔王。かつて地上を一方的に蹂躙した、魔族の王だ。何を企んでいるのかわかったものではない。再びゲートを開き、地上に侵攻しようと虎視眈々と狙っているのかも知れない。
今回の出来事だって、事実、魔王城が現れる事態となった。知らない風を装っているが、まったくの無関係とは思い難い。
自分が気を抜けば、大勢の人々の命が危険にさらされる。前世での数々の戦いを通して、そのことは身に染みて分かっている。
勇者としてはお役御免になったが、目の前で平和が破られることを見過ごすつもりは無い。
「姫様!」
中年の隊長がどたどたと駆け寄ってきた。
右手の手甲がやけに汚れている。……もしかして剣がないから手甲でスペクターを殴り倒してたのか。
確かに剣以外のものを強化したような手応えがあったが。悪かった、隊長。
「学園内の者たちの避難、確認できる範囲ですが完了致しました!幸い、目立った怪我人もおりませぬ!しかし、この状況は一体なんなのでしょうな」
亜空間との境界あたりに目をやり、隊長は眉を潜めた。
遅れて、全体の半数程度の騎士たちが走ってこちらに向かってくる。残りは生徒たちの警護だろうか。結界は維持したままだから特に心配はないだろう。
「さてな。まずはもとの世界に戻る方法を見つけねば」
パルナがくるりと辺りを見渡しながら返答する。
騎士たちは一様に肩で息をしていたが、表情にはそれほど疲れは見えなかった。次なる任務に、気持ちを整えているようだ。
一旦は落ち着きを見せかけた事態は、だがしかし、これだけで終わってはくれなかった。
不意に、巨大な咆哮が地面を揺さぶるほどの圧力で襲いかかってきた。鼓膜を劈く衝撃に、その場にいる全員が咄嗟に耳を押さえる。
これは、間違いない。先ほど食堂で感じた強力なプレッシャーの持ち主によるものだ。いつのまにかこちらに意識を向けていたようだ。
できれば関わりたくなかったのだが、そうも言ってられないらしい。
「来るぞ!」
俺が叫んだ時には、それはもう来ていた。
超高速で接近してきたそれは、学園の上空で急停止する。
その直後、衝撃波のような暴風が辺り一帯を薙いだ。騎士たちの内、数人が踏ん張り切れず背中から地面に打ち付けられる。
空を包み隠すほどの巨大な身体は、全体が黒く濡れたような輝きを放つ鱗で覆われ、身体の倍はあるであろう黒い翼は、ひとつ羽ばたくごとに、立っていられないほどの突風を巻き起こす。
巨大で鋭利な爪を備えた両手脚は、凶悪なまでの膂力を感じさせ、恐らく牛程度であれば数頭まとめて軽々とつまみあげてしまうだろうと思われた。
長く太い首から生えた爬虫類の頭には、歪曲した二本の巨大な角がそびえ、その眼は赤黒く濁っている。
大人の腕ほどもある牙が乱雑に並べられた、馬車を丸呑みにできそうなほど大きな顎からは、絶えず不気味な瘴気が吐き出されていた。
「……ドラゴン」
誰かが震えるように呟いた。地上に生きる人間たちにとって、滅多に出会うことのない、伝説の生物。一説には異世界の魔物であると言われているが、詳しいことは俺もよく知らない。
ただ人類共通で認識されていること。それは、こいつらに睨まれたら、待ち受けるのは絶望のみ、ということだけであった。
黒いドラゴンは、飛来した時の超高速とはうって変わってゆっくりとした動作で空を旋回し始めた。
だが、視線はあくまで俺たちを捕捉し、絶え間ない猛烈な翼風は、こちらの動きの一切を拘束する。
「これはいかん、姫様!」
中年の隊長以下数名の騎士がパルナを庇うべく何とか歩を進めるが、黒いドラゴンはそれを嘲笑うかのように風圧を強め、押し返す。
これはまずいな、ドラゴンとは想定外だった。
皆を守りながらコレを追い払うのは、骨が折れそうだ。骨が折れるだけで済めば御の字か。
身体がすくんでしまっている騎士も大勢いる。
「パルナ、ちょっと聞け。まずは彼らを後ろへ退がらせて……」
気は乗らないが一旦パルナと協力して、と思い、パルナの方へと振り向いたところで、俺は不可思議な光景を見た。
暴風の中で立つその少女は、手で顔を覆うでもなく、両腕をだらりと下げてただドラゴンを見上げていた。
先ほどまでの覇気は微塵も感じられず、飛んでくる小石や木切れがその白い肌を打っても、少女はまるで気づかない様子だった。
美しい黄金の髪が無造作に吹き上げられると、横に立つ俺の方からその表情がちらりと見えた。
パルナは、信じられないものを見たかような、驚きと焦燥に支配された顔をしていた。
「お主、アビーか?」