第一話 第一王女
聖王暦二百二十年。人類が魔王軍との戦いに勝利してから十七年。
唯一の大陸とされるドゥーラ大陸の最南部に位置するエルヘブン王国は、年中穏やかな気候に恵まれた、暮らすには快適な国だ。昼過ぎには暖かな陽光が見渡す限りの世界を包みこむ。
そんな天の恵みを全身で享受しながら、エルヘブン王立聖騎士学園の中央庭園にある芝生の上で、俺は無為に時間を潰していた。
「はぁ。なにしてんだろうな、俺」
この呟きも、もはや日課と化している気がする。
平和な日々も、繰り返し続くと平凡になり、退屈になる。ずっと平和を願っていたはずなのに、妙なものだと自分でも思う。
「午後の授業はなんだっけな」
口に出してはみるものの、別になんだっていいのだ。剣技なら最高点、魔法学なら赤点ギリギリ。やる前からわかりきっている。何の変化も刺激もない。今日の夕飯は肉か魚か、のほうが俺にはよほど意味のある話だった。
寝転がっていた姿勢から少しだけ上体を起こし、周りを見渡す。そこかしこで、生徒たちが輪を作り楽しそうに会話をしている。
やはり、特に最終学年の三年目ともなると、一人でいる方が珍しいようだ。
そういえば、友人の作り方などすっかり忘れてしまった。入学したばかりの時はそれなりに話す相手もいた気がするが、段々とどちらともなく離れていった。
反省点などいくらでも思いつくが、結局のところ、正体を隠しているくせに心許せる仲間が欲しいだなんて、虫のいい話だったのかもしれない。
卒業した先でなら、見つけられるだろうか。
状況が変わらない以上、あまり期待は出来なさそうだ。
「考えるのも面倒になってきた。……少し寝るか」
専門家の手で整備された美しい庭園は、見ていると気持ちが安らぎ、丁寧に養生されたふわふわの芝生は昼寝にはもってこいである。腕を枕にして目を閉じると、俺はすぐに夢の世界へと落ちていった。
……どれくらい眠ったのだろうか。俺は、周りをバタバタと駆けていく生徒たちの足音や声で目が覚めた。いつもなら、午後の授業のため各教室へと散らばっていくのだが、今日は様子が違った。皆、同じ方向へと急いでいる。
あの方角は、大ホールだろうか?
「おや。君はたしか、リンネ・クライフォードくんですね。君は行かないのですか?」
不意に、だが穏やかに声がかけられる。
「学長。今日、なにかありましたっけ?」
エルヘブン王立聖騎士学園の設立以来ずっと学長を務めているというガヤン・マクラーレン先生は、やや礼を失した俺の返事にも怒ることなく、綺麗に整えられた白い顎髭を撫でながら丁寧に回答してくれた。
「今日は我が国の第一王女様が視察にいらっしゃる日ですよ。生徒は皆、大ホールに集合です」
「ああ、そうでしたね」
「あまり興味がなさそうですね。きっとかの勇者アデルも、一国の姫などには興味を持たないんでしょうね」
ガヤン先生はそう言って笑った。
流石は自他共に認める勇者マニアだ。なにかにつけて勇者を絡めてくる。
確かに興味は持たなかったかもしれないな。持つ暇がなかった、というか。
「他の生徒たちは、今日が余程楽しみだったようですね。我先にと大ホールに駆けて行きましたよ」
「王女の初お披露目、ですもんね。噂の容姿が気になるんでしょうよ」
「神がかり的な美しさだ、という噂ですね。今回の初公務まではほとんど王宮から外出されなかったそうですから、皆が浮き足立つのも分かります」
噂というものはいつの世も、とにかく尾ひれがついて実体から乖離する。別に俺だって姫の容姿に興味がないわけではない。ただ、神がかり的、などという触れ込みは相当に誇張されているのが常だ。
「私は、姫の魔法への造詣の深さに興味がありますね。王国一の賢者と名高いネメレウス伯が、なんと姫に弟子入りを願い出たという話ですよ」
容姿が神がかったお姫様で、魔法もマスターレベルか。もはや何でもありだな。さらに聖人のような人柄で、と付け加えれば、立派な三文小説の登場人物だ。実は世界を裏から牛耳る大悪魔で、とかなら読んでみたい気もする。
「さあ、リンネくんも行きましょう。遅刻したら護衛の方達に締め出されてしまうかも知れませんよ」
そう言って歩き出すガヤン先生の後を追って、俺はのそのそと学園の端に設置された大ホールへと向かった。
エルヘブン王国第一王女、パルナ・フィーネ・エルヘブンか。この退屈な日常に、ちょっとは刺激を与えてくれるような人物であることを期待しよう。
俺が着いた時には、もうほぼ全ての生徒が集合しており、大ホールは満員だった。透明かつ高い天井のおかげで閉塞感こそないが、興奮した生徒たちの熱気と密度とが相まって内部はかなり暑い。魔石による設置型空調魔法が動いているようだがまるで間に合っていないようだ。
「静粛に!」
騒つく空間に教師の声が響く。少し上ずって聞こえたのは、教師も緊張しているからだろう。
「これより、王女殿下に御言葉を賜る。皆、失礼のないように。では、殿下」
椅子は無く、起立した状態の生徒たちは、これから登壇するであろう人物を少しでも近くで見ようと、徐々に整列を崩しながら前に詰めていった。
俺はその波に乗ることなく、最後列からさらに後ろに離れたところで、ぼんやりと前方を眺めていた。
「さて、どんな人物だろうかね」
……そんな斜に構えた呟きを、直後に俺は恥ずかしく思うことになる。
大ホールの奥に築かれた、大人の背丈ほどの高さがあるステージの袖から、一人の人物が姿を現した。
ひゅっと息を飲む音が聞こえた。それは、周囲の生徒からのものだったか、それとも自分のものだったか。
それはまさに、圧倒的であった。
ステージ上部からの灯りを受け、眩いばかりに輝く黄金の髪と、宝石のような、曇りのない蒼い瞳。
身に纏う、優雅だが身体の動きを制限しないように作られた薄紫色のドレスから覗く、白く透き通る肌。
背こそ特別高くはないが、ドレス上からでも分かる絶妙な身体のライン。
左右対称の完璧な造形に、気品と威厳を醸し出す表情は、およそ人とは思えないほどの神々しい美しさを讃えていた。
先ほどまで騒がしかった生徒たちは、皆息をするのも忘れるほど、その人物の美貌に心囚われている様子だった。
かく言う俺も、ステージからほとんど目が離せなかった。正直、こんなに綺麗な人には地上ではお目にかかったことがない。実に神がかり的である。
以前、各地で絶世の美女と謳われる女性と何人も会ったが、批判を覚悟で言おう。月とスッポニアである。ちなみにスッポニアとは大陸各地で見かける、甲羅を持った食用の動物である。
訪れた静謐な雰囲気の中、壇上の中央に立った少女が口を開いた。
「妾が、第一王女パルナ・フィーネ・エルヘブンじゃ」
見た目とギャップのある、割と尊大な言葉遣いに一瞬面食らった者もいたようだが、大多数はまるで天啓でも受けたかのように神妙な面持ちでステージ上を凝視し続けていた。
その様子に満足したかのように、神の造形に天使のような微笑みを追加して、王女は大ホールに集まっている生徒たちを順に見渡していった。
(姫様と目が合っちゃった!)
(おお、姫様がわざわざ俺のことを見てくれたぞ!)
などとあちこちで盛大な勘違いが巻き起こっていたが、王女は気にした様子もなく生徒たちを見渡し続けた。
その間、俺はというと、遅れて最後列となったことを強烈に後悔しつつ、同じく最後列の者たちと共にジリジリと前線を押し上げようと奮闘していた。
なるほど、抗いようのない魅力とはこういうことを言うのだな。実体験を通して理解した。
努力の甲斐あって、王女の姿がより一層はっきり見えるようになってきたところで、ふと俺の脳裏をよぎるものがあった。
「……おや?」
あの王女、どこかで会ったことがある?
いや、地上でこんな美しさに遭遇したことはない。そう、地上では。
地上ではない、どこかで?
俺がモヤがかかったようにハッキリしない記憶を辿っている間、変わらず王女はその天使の微笑みを惜しげもなく振りまいていたのだが。
大ホールの生徒の八割は見渡したかというあたりで、突然王女の動きが、ぴたりと止まった。
ただ一点を、凝視しているようだった。
その視線の先には。
……俺を、見ている?
先ほどまでの周囲の生徒たちさながらの勘違い、ではないようだ。確かに王女は俺を見ていて。
直後、俺は空気にヒビが入るような音を聞いた、気がした。