禍福は糾える縄の如し
大変に不幸な男がいた。努力の末ついた就職先はことごとく倒産し、女とは縁がなく、人災天災問わず災害にあっては住処も失いつづける。生を受けて70年、幸福と呼べることは一度もなかった。代わりに、不幸と呼べることはいくらでもあった。
いま、彼は病床で生涯を終えようとしている。
「おじいさん、今日は体は痛くないですか。」
「痛い。でも今までも痛いことなんか何度もあった。今はそれよりはマシだ。」
「そうですか。今日の点滴は痛みを和らげるものです。少し楽になるはずですよ。」
「いつも通りだな。ありがとう。」
男に対し、若い医者の対応はぞんざいだった。慰めの言葉をかけるわけでもなく、痛み止めを点滴するだけだった。もはや、男には回復の見込みはなかった。死ぬまで、痛み止めを撃ち続けることが、医者の職務である。医者にとっては、楽な仕事なのだろう。医者は慰めるでもなく、事務的に職務を遂行していた。
ある日、男はいつも通り回診に来た医者に話しかけた。
「あんた、子供はいるか。」
「プライベートなことは…」
「もう俺は死ぬしかないんだろ。それくらい教えてくれてもいいだろう。」
「………三ヶ月後に生まれる予定です。」
「それは幸せだ。おめでとう。」
「ありがとうございます。」
「俺の人生は最低でな。子供どころか女がいたこともない。幸せなんか一度もなかった。」
「そうですか。」
「でもな、これまで不幸だった分、必ず死ぬまでにそれに見合う大きな幸福があると思ってるんだよ。俺はあと数日で死ぬから、あと数日以内にそれがあると思うと、とても楽しみだ。」
「そうですね。それはとても楽しみでしょう。では、今日も点滴を続けていきましょうね。」
医者は事務的な言葉をかけると、ベッドの上の男から背を向け、病室の外に出て行こうとした。
「ああ、今日だったのか。」
病室のドアに手をかけたとき、男が言った。医者は少し手を止めたが、面倒だと思い、気がつかなかったフリをして病室をあとにした。
それから数時間後。男はベッドの上で急死した。最期は幸せそうな顔だったという。
医者が、妻の主治医から、胎児の死亡の連絡を受けたのは同じ日だった。