向かい花火
庭の木に蝉が止まっていた。近くを通ると、見計らったように盛大な求愛の歌を奏で始める。
鬱陶しい夏の風物詩。この猛暑と相まって、人々を不機嫌にさせるには十分な環境だった。
しかしそれは、今の鴻太にとってどうでもいいことだった。鼻歌を響かせながら真横を通り、蝉が耳障りな鳴き声を上げ飛び立つのを後方で聞き取ったあと、自宅の玄関に到着する。
「ただいま~」
「お帰りなさい」
鴻太はやけに浮かれた声で、扉を開き放つ。
冷房の効いた部屋のひんやりとした空気を、露出した二の腕や胸元で感じ取りながら靴を脱ぐ。するとすぐに返事が返ってきた。
上の空で聞き届け床に上がると、その挨拶を返した鴻太の母が廊下の前に姿を現す。
鴻太がリュックサックを外しながら見る母の表情は、少し困惑顔だった。
「鴻太? 何かあったの?」
「いや別にっ。そんなに僕の顔おかしかった?」
「嬉しそうな声してたから、楽しみなことでもできたのかなって思ったのよ。まぁ明日から夏休みなんだもの、浮かれるのは当然よね」
母はそう言いながら台所へ去っていった。
スタスタと歩く母に対して、鴻太は足が止まり心臓がバクバク鳴っていた。
「怪しまれてない……よね」
母の見立て通り鴻太は普段より落ち着きをなくしていた。母の勘の鋭さに若干怯えながらも、本題が見抜かれなかったことに安堵の声を漏らす。
今日は、夏休み前の終業日。
そして。
鴻太が一世一代の告白をし、何とかデートの約束を取り付けた夏祭りの当日だった。
だから騒ぎまくる蝉の鳴き声も気にならなかったし、冷房の効いた家に入っても頬の高揚が収まらなかった。感情に余裕がなかったのだ。
鴻太はそのことまで勘づかれないうちに二階の自分の部屋へ上がり、昨日の記憶をベッドの上で思い出した。
「なぁお前ら、明日の祭りどうする?」
「俺は暇だけど……」
「ごめん。俺、彼女と行くんだ」
「くぅ~~~~うっ! このリア充めが」
クラスの男子達が明日の夏祭りについて話している。
彼女と行く発言をした男子にホールドを決めつつ、周りの男子がリア充やらの言葉を浴びせる中、鴻太はとても落ち着かない様子で教室を行ったり来たりしていた。
それに目を付けた男子が鴻太に同じような質問をした。
「それで鴻太はどうするんだ。お相手がいなんなら俺が代わりになってやってもいいぜ」
鴻太はビクッと跳ねあがった後、しどろもどろで口を開く。
「それはその、まだ決まってないというか。これから決まるっていうか……」
鴻太の迂闊な発言と態度は、その手の話に飢えている男子達の目を見開かせるには十分だった。
いやらし気な笑みを浮かべ、鴻太にすり寄ってくる。
肩に腕を回された。
「おいっ、それでお相手は誰なんだよ」
「ええええええええっ! なんでわかったの!」
「ばかっ。声ででけえって」
自分としてはうまく隠し通せたはずなのに、お前のことは分かっていると言いたげな視線と言葉を向けられ、鴻太は素っ頓狂な叫びをあげてしまった。
「で、ばらされたくなかったら正直に言うことだな」
「卑怯なっ……!」
「鴻太が夏祭りに女子の誰かを誘う、って声を張り上げるまで3・2・い――」
「わ、わわ分かったよ!」
そこで鴻太は周りを取り囲む男子達の顔を窺う。
ニシシと下品な笑顔で見下ろされるのを見て、鴻太は悟った。嵌められたのだと。
正直に言うと言ってしまった手前、引くことはできない。
視線をチラつかせながら、小声で呟く。
「……せ」
「ん? 聞こえないなぁ」
「だ、だから……いせ、って!」
「大きな声で」
「愛瀬ッ!」
教室が静まり返った。鴻太は自分が今までした言動を思い起し、顔を青ざめさせる。
「ぼ、僕はバカかッ」
その言葉がクラスメイトの予想に確信をもたらした。
この状況、いままで会話していた内容は全てクラス中に知れ渡っていると考えていい。当然、鴻太が思い続けていた愛瀬、本人にも。
今思えば、男子が言いふらすぞ、と脅してきた言葉もまったく遠慮なかった。
もはや告っているのと同義だ。
鴻太が現実逃避に回想をしていると、知らずの内に彼女までの空間から人が退いていた。愛瀬の姿がダイレクトに見える。鴻太はドキッとしつつも覚悟を決め、こんな状況に仕立て上げてくれた男子達に恨みと少しばかりの感謝を送り、距離を詰めていった。
学年一のお嬢様と噂される同級生、桜田愛瀬。
純粋な笑顔でどんな時でもクラスに華やかさをもたらしている、憧れのような存在に鴻太は気付けば見蕩れていた。うねりを知らない茶色の髪は、太陽に透けると金に輝いて見える。かと思えば、真剣な顔つきに顔の彼女は心が引き込まれるぐらいに落ち着いて見える。
そんな彼女を目で追うのに必死だった。
この数ヶ月の内に名前で呼び合えるくらいには親しくなっていた。けれど、いざとなると自信が消え失せてしまう。
地味で内気な自分には全くもって似つかわしくない。そんな考えが常に浮かんでいる。
高嶺の花のような存在だった。
そんな彼女に鴻太は今告白しようとしている。
開口一番、鴻太は頭を下げ、叫んだ。
「僕と、夏祭りに行ってください」
意識は現実へと引き戻される。
数分の内に起きた出来事。たったこれだけ。されど極限まで緊張していた鴻太にとって無限に等しい時間だった。
返事を貰うまでのたった一瞬が限りなく長かったのを覚えている。心臓の早鐘に支配されていたあの時間。解放されて床にへたり込んだ鴻太に「楽しみにする」と言ってくれた笑顔。
鴻太は一生忘れることがないだろう。
愛瀬のためだったら何だってできる気がした。
鴻太はベットに腰を掛けたまま、時計を見やる。時刻は一時半を回ったばかりだった。
下からいい匂いが漂ってきたのをきっかけに、鴻太は立ち上がる。
昼食をとり、自分自身への戒めに両手で頬を叩く。
そんな時だった。
制服にあるスマホから着信音が鳴ったのは。
「ねえなんで! 私は今日用事があるの。別荘に行くのなんて明日からでもいいじゃない」
「だめです。愛瀬さま」
ここは市街地内の豪邸。大きな鉄門がある玄関には『桜田』の文字があった。
高級車が用意された庭で、女子高生と執事の服装をした老人が言い争っている。事実、老人の方は本物の執事なのだろう。
「お父様からのご伝達です。守らないわけにはいきません」
「だから、今日だけ、今日だけでいいから」
いつになく必死な愛瀬の様子を見て老人は唸っていた。
このままでは埒が明かないと判断し、彼女に尋ねる。
「何故ここまで今日に固執するのです? 何か理由でもございましょうか」
その質問をされた愛瀬はギクッと体を固まらせる。
傍から見ても分かるぐらいなのだから、長年執事を務めている老人にはもはや筒抜けだった。
「もしその理由とやらが胸を張って言えることなら、このわたくしが言い伝えておきましょう。ですが、そうでないのなら……」
「もうわかった! 行けばいいんでしょう! 行けばっ」
躍起になって黒塗りの高級車に乗り込む。気が変わらぬうちにと、執事が間を置くことなく運転席に滑り込む。そして車を発進させた。
「……」
車内は無言だった。
車は住宅街を駆け抜け、気が付けば周りを自然が囲んでいた。前日の雨によりぬかるんだ地面だったが、その影響を感じさせず、ただ見慣れた景色が流れていく。
自然の緑を眺めて、愛瀬はその興奮を落ち着かせていった。
気持ちが静まると同時に、今日一緒に夏祭りに行く予定だった少年への申し訳なさが際立ってくる。
(鴻太くんには申し訳ないことをしちゃったな……)
なんて自分勝手な行動をしでかしたのだろうか。執事に乗せられたとはいえ落ち着いてさえいればまだ粘れたかもしれない。
最低限のお詫びとして、本当は待ち合わせに使う予定だったスマホのメッセージ機能を使い、行けなくなった旨を伝える。
そしてすぐに電源を切った。
返信はどうなったとしても、自分の胸を締め付けることに変わりがないと思ったからだ。
自分の生まれた境遇を恨みつつ、愛瀬は変わり映えしない景色を眺め続けた。
(もう七時か。夏祭りはとっくに始まっているんだろうなぁ)
愛瀬は別荘の窓から顔を乗り出し、夕陽が消えた藍の空を仰いでいた。ついさっきまで明るかった空には、現在進行で星の煌きが増えていく。その数は既に、住宅街で見れる最大数を越していた。それもそのはず、ここは人里から遠く離れ周りを木々に囲まれている孤立した場所なのだから。
昔はここが好きだった。人と物に溢れた都会とは大きく違い、そこは神秘的な雰囲気に包まれていた。
フカフカな芝の絨毯を無邪気な笑顔で走り回わる。足を取られて転んでしまっても痛くなかった。緑のクッションが優しく受け止めてくれる。当時の愛瀬にとってそこ間違いなく、お気に入りの場所だった。
でも今は違う。
退屈だった。辺りは小さい頃に探索しつくしてしまった。時間が鈍り、自然に囚われているような錯覚さえ覚える。
都会からやって来た人はきっとこう言うのだろう。
――自然が美しい
愛瀬に言わせてみれば、この景色を構成する要素は木と草と土でしかない。
そう思うと急に、光に包まれていたはずの思い出が、冷めたものに思えてきた。
森がざわめく。ここから脱け出せない囚われの身を嘲笑うかのように、草木が夏風に揺らいだ。
森の上空は眩しいほどの輝きに覆われているが、自分と同じ目線に戻してみれば、先の見えない深淵がどこまでも広がっている。それが全方位を囲んでいた。
ああ、鳥になれたらここから脱け出すことができるのだろうか。
闇に沈んだ森林の真上を颯爽と羽ばたき、光に向かって突き進んでいく。
愛瀬は甲斐もなく、そんなあり得ない幻想を見てしまっていた
「はぁ~」
愛瀬が何度とも知れぬため息を吐く。
そんな時だった。
森にあるはずのない人の気配を感じたのは。
「え」
愛瀬には確かに聞こえた。彼を息遣いを。
「まさか……」
それはもう死ぬ寸前なんかじゃないかと疑うほど荒らげた彼の息切れが。
「ほんとうに……」
愛瀬は細いのどから震え混じりの呟きを零す。
森の奥から現れたのは、泥で汚れた甚平を身に羽織り、肩で息をする鴻太の姿。右目を眇め、こちらを見ている。時間をかけ息を整えると、ゆっくりと足を踏み出していく。
愛瀬は窓から身を乗り出し、彼の到着を待った。
愛瀬は目の前にいる鴻太を涙ぐんだ目で見つめる。
今、待ち望んだ存在がこの場にいることに実感がない。ふと目を離した瞬間に掻き消えてしまいそうな気さえする。鴻太は鴻太で気恥ずかしそうに目線を下げている。
でも愛瀬には、無茶をしてここまで来た鴻太に言っておかなければいけないことがあった。
「もぉ……ばかなんだからぁ」
頬についた泥を拭ってやる。手を添えた頬は汗で濡れていた。相当無理をしたに違いない。
「ごめん。いやだったかな」
目の前で泣き出した愛瀬を見て、気まずそうに目を逸らしながら呟く。
「ううん……嬉しかったの」
「愛瀬さま! 侵入者です。急いでお逃げください!」
そんな時だった。背後から老人の緊迫を持った声が警鐘を鳴らしたのは。
ドタバタと遠慮のない足音が急速に近づいて来る。
愛瀬の判断は早かった。
「鴻太!」
「え」
頬に触れていた手は下へ滑り、自然と鴻太の手を取る。
鴻太があっと声を上げた時にはもう窓から飛び出していた。驚きの表情をする鴻太の眼前を赤い浴衣の袖が舞う。
華麗に着地した愛瀬は背中から顔を覗かせて、指を前に差しながら見開いたまま固まっている鴻太に微笑みかける。
「いこうっ」
愛瀬の言葉に突き動かされ、静止していた足が動き出す。一歩二歩と建物から離れるにつれて、歩調が早くなる。気付くと自分から走り出しだしていた。
興奮が止まらない。頬が緩む。笑いが漏れる。楽しい気分が押し寄せてくる。
悪いことをしたという背徳感が、興奮をより上まで連れて行った。
鴻太も愛瀬も走り出さずにはいられなかった。
「でもいいのかな。家を抜け出して」
鴻太が気分の高揚を隠せていない声色で、申し訳程度に問いただす。
愛瀬は息を乱らせながらも、芯の通った声で笑顔を向ける。
「男の子が家に押し寄せた時点で、そう大差ないよ」
「ちがいない」
少しも悪気をみせない愛瀬の悪戯な笑みに、鴻太にも笑いが溢れていた。
満点の星空の下、二人の行き先は決まっていた。
夏祭りへと。
微かに聞こえる蝉の声。自然が奏でる音は高ぶった二人の感情を落ち着かせていった。たった一匹で懸命に鳴き続ける蝉に親近感が沸いてくる。
二人は大木に寄りかかり夜空を見上げていた。
しかし、そこには花火の閃光もなければ音だって響いていない。露天が並んでいるわけでもないし、祭りがつくる人々の活気だって存在しない。満天の星があるばかりだ。
「間に合わなかったね」
ポツリと愛瀬が呟く。
けれどその表情はどこか嬉しそうだった。天使のような相貌に吸い寄せられる鴻太の視線など気にせず、ただ天を見つめている。
「いいさ。また来年がある」
自分だけ彼女の顔を凝視しているのが馬鹿らしくなり、鴻太も同じように上を見た。
すると今度は、愛瀬が鴻太の横顔を眺め笑いかける。
「その時は鴻太が私を守ってくれないとね」
「え? それってどういう」
驚いた顔で隣を見た鴻太は、愛瀬と視線が合い、上ずらせつつもその意味を問いただす。
愛瀬は口に溜まっていた唾を飲み込み、自らの境遇を語り出した。
「私ね。毎年夏のはじめはここに居て、一回も夏祭りに行ったことがないんだ」
それから、毎年寂しい思いをしていたこと、みんなが羨ましかったこと、今年こそは行きたかったこと、来年は行けそうなことを話した。
最後まで黙って聞いていた鴻太は、顔つきを自信にあふれるものに変え、力強く宣言する。
寂しそうな彼女の顔を見ていると居ても立っても居られなかった。
「僕が絶対に連れていくよ」
「……」
「あ、愛瀬?」
「――鴻太ッ!」
「えっ!?」
顔を俯かせた愛瀬が、鴻太の胸元に倒れ込む。
鴻太はいきなりのことに初めはあたふたしていたが、自分以上に辛い思いをしているであろう彼女のことを思うと、優しく後ろに手を回した。
身長はあまり変わらないはずなのに、彼の体は全身を包みこんでくれそうなほど大きく感じた。人肌の温もりが、愛瀬の募った悲しみを溶かしてくれる。そして真逆の感情で満たしていった。情緒不安定な自分に嫌気が差しつつも、今だけはと、己を退けようとしない鴻太に甘え、泣きじゃくり続けた。
「あの……愛瀬?」
「ごめんね鴻太。もう大丈夫だから」
愛瀬は最後に「よし!」と呟くと、鴻太の胸から顔を上げた。汚れた甚平に擦りつけたせいか、その一部が黒くなっている。
鴻太に向ける笑顔には涙の跡は依然として残っていたが、泣く前には感じられなかった心の底からの明るさが、その汚れすらを強みにして滲み出ていた。
「……」
「どうしたの鴻太?」
せっかく気を取り直したのはいいが、逆に停止してしまった鴻太を見て、愛瀬は心配になりながら呼びかける。
目の前で何度も手を振ると、今起きたように目をパチクリさせ、鴻太はようやく反応を示した。
「あ、いや、花火が見れればよかったなって思ってたんだけど、笑っている愛瀬を見たら、とてもそんな気がしなくて」
「なによそれ。鴻太、そんなこと考えていたの、私が泣いているとき!」
「愛瀬のために、間近で花火が見れないかなって、僕なりに考えてたんだよ!」
「私の……ため?」
「う、うん」
鴻太がためらいがちに愛瀬の言葉を肯定したあと、二人の間に笑いの渦が巻き起こった。
恥ずかしさ故か、照れ隠し故か、鴻太も愛瀬も笑わずにはいられない。目の端に涙さえ浮かんでくる。
いまさら姿を現した半月が、二人の下にささやかな燐光を捧げ見守っている。
二人は、そっと手を繋ぐ。
もう花火なんていらなかった。
すっかりお気に入りになった世界で、二人はお互いの顔に花を咲かせて笑いあった。
二人の恋の花火はまだ打ち上がったばかりです。