17. 海 (中編)
『美少女の水着姿は挿絵があってこそ価値がある』
遅まきながら水着回もとい水着界の真実に辿り着いてしまった。
イラストやアニメーションがないのなら、もう語り部である僕の描写力にしか頼れないわけだけれど、いやいやそんな、たかだか平凡な高校2年生、しかもその中でも落ちこぼれである僕の描写力なんて高が知れている。
唯一の取り柄である国語の出番は、こんな辺鄙な田舎の海ではなく、夏休み明けの実力テストや大学受験の時に取っておくべきだろう。
だがまあ、これでも出来得る限りのベストは尽くしたつもりだ。あとは、皆の想像力にお任せする次第である。
どうでもいい語り論を無理矢理打ち切って、僕はひたすらに前だけを見つめていた。
視界いっぱいには、何処までも続いていそうな広大なる海が映っている。
晴天の下、空の青を映した海は、太陽の光を浴びて絢爛な輝きを見せていた。
眺めているだけで夏が感じられ、心を奥底から揺さぶってくれるような神秘の光景。
決して、透明度が極めて高いわけではない。
エメラルドグリーンなんて夢もまた夢、テレビで紹介されるような珊瑚礁と成す絶景でもない。
ーーーそれでも、不思議と目の前のビーチは僕に感動を与えてくれていた。
「……綺麗だなあ」
自然とそんな感想が口をついて出た、その時だった。
「何が綺麗なんですか?」
座っている僕のすぐ横から声が投げかけられた。
いくらか幼さを感じさせる、高くて舌足らずな声だ。
驚きに振り向くと、そこには1人の女の子が立っていた。
見た目から判断するに、小学校高学年くらいだろうか。可愛らしいピンクの水着を着ており、額には同じ色の水中ゴーグルをつけている。
「………」
「………」
数秒の沈黙。
何も言えない僕に対し、少女はキョトンと首を傾けると、
「何が綺麗なんですか?」
と、再度訊いてきた。
……。
…………。
…………………え?
状況が理解できず、たっぷり20秒くらい少女と見つめ合ったまま固まる僕。
疑問形ということは、独り言ではなく誰かに話しかけたのだろう。
誰に話しかけたのだろうかと周囲を見回してみるも、僕の周りには少女を除けば人っ子1人いない。
いつものことである、なんて自嘲はさて置くとして、では彼女は一体誰に話しかけたのだろうか………ん、待てよ?
人っ子1人いない。
そう、僕が周りにいないと思ったのは人だーーー人だけだ。
人外ーーー動物や植物のことは無視している。
「……そうか」
そこまで思考を巡らせたところで、僕は思い当たる。
海の生き物と言えば真っ先に思い浮かぶのは魚だ。
しかし、ここは海からは大分離れた砂浜。
波も届かないこの場所で、海中を悠々と泳ぐお魚さんたちに声を届かせることは不可能ーーーーゆえに、魚は候補から除外する。
だがしかし、砂浜なら?
僕と彼女がいる、この砂浜で考えたらどうだろう。
砂浜に棲む生物と言えば、生物の科目も壊滅的な僕で思いつく限りでは、カニやヤドカリあたり。
ああ、あとは貝なんかもあるな。
もしかしたらこの少女は、これらの小生物に話しかけたのかもしれない。
そう思って周囲にカニや貝がないかを調べてみるも、その姿は何処にも見当たらず、ただ綺麗な白砂が広がっているだけだ。
「そんな、まさか………」
憶測がことごとく潰され、袋小路に追い込まれていく。
何か他に可能性はないか。
彼女が話しかけた対象の可能性は。
何か、何か、何かーーーーーーーーーー。
「………あの」
「ごめん、ちょっと静かに。今考えてるから」
すぐ近くで聞こえた女の子の声を遮り、必死に頭を働かせる。
かつてないほど脳味噌をフル回転させーーーーそして。
「………あった」
約2分後、ようやく可能性を見つけた。
人間、追い詰められれば追い詰められるほど真価を発揮する時がある。
「でも、そんなことがあり得るのか……?」
だがしかし、自分で思いついておきながら、未だに僕は自説を信じることができないでいた。
それはそうだろう。
僕が思考の海を泳ぎ回って辿り着いた答えは、常識の範囲外のことなのだから。
きっかけは、先程の人外というワードだ。
しかし、一口に人外とは言っても、それは何も動物や植物のことを指すだけではない。
人外ーーーー人から外れた存在。
この世のものではない存在。
つまりーーーーー幽霊や妖怪の類である。
世間では、オカルトと一括りに揶揄されることもある、あの類。
考えてみれば、ここは海。
海ならば、むしろそういう怪談話の十八番だ。
少々暗い話になるけれど、世の中には入水自殺という方法で自ら命を絶ってしまう人もいると聞く。
そういう人たちが現世に残した未練を果たそうと、幽霊に姿を変えて現れているのかもしれない。
今この瞬間、このビーチで。
幽霊だけじゃない。
妖怪だってそうだーーーー海と言えば。
海に化けて出る妖怪と言えば、僕の知っている限りだと海坊主や船幽霊あたり。
もしかしたら、この少女には、そんなこの世の人間ならざる者が見えているのかもしれない。
見えていて、話しかけたのかもしれない。
ーーー「何が綺麗なんですか?」と。
それが別の世界の住人だとはつゆ知らず。
無邪気に話しかけたのかもしれない。
大人よりも精神的に未発達の子供の方がそういう類とは波長が合いやすく、見えやすいという話もある。
「……まずい」
暑さとは関係なく、頰を嫌な汗が伝った。
もし相手が霊や妖ならば、人間に危害を加えようとすることは否めない。
しかも、この子はすでに声をかけてしまっているのだ。
襲い掛かるとしたら、まずはこの子に違いない。
「君、早く逃げーーーーー」
焦燥感を舌に乗せ、目の前の少女に呼びかけようとしたーーーーちょうどその時。
パチンと。
小さな掌で、盛大に頭を叩かれた。
「………え?」
急にやってきた、でもどこか柔らかい痛みに視線を上げる。
件の少女が不審者を見る目でこっちを睥睨していた。
「私、あなたに話しかけたんですけど」
高いけれど冷めた声で告げる女の子。
その丸い瞳に映るは、幽霊でも妖怪でもなくーーー間抜け面を晒した人間。
つまりは僕だった。
*****
真上まで昇った太陽が、海を明るく照らしている。
同じ色をした青空には、雲は1つも見当たらない。
お昼時を迎えたビーチは、より一層の賑わいの渦中にあった。
朝からさらに海を訪れる客が増え、真夏のビーチを埋め尽くしている。
普段なら疲労困憊、今すぐにでも帰宅したいという欲求がやってきてもおかしくない状況。
しかし、そんな喧騒の中でも不思議と悪い気はしない。
それは、人々の笑い声に混じって聞こえてくる自然の音が理由だ。
砂浜に押し寄せては引いていく大きな波の音。
海から吹き付ける柔らかな風の音。
そして、息を吸う度に鼻腔をくすぐる潮の香り。
それら全てが、雑踏の中でもどこか心地良い。
「……で、おじさんは何をしてるんですか?」
しかし、出し抜けに聞こえてきたその声は、あまり心地の良いものではなかった。
隣を見る。
幽霊でも妖怪でもなく、紛れもない僕に話しかけてきた少女は体育座りで座っている。
「それにしても、君が話しかけたのが妖怪とかじゃなくて安心したよ」
「妖怪じゃなくても、怪しい人ではありましたけど」
そう言って、意味ありげな視線を送ってくる。
まるで、「お前だ!」とでも言いたげな視線。
さながら怪談話のように。
「ていうか、僕が言うことじゃないけれど、あんまり知らない人に話しかけない方がいいぞ?」
相手が僕だったからこうして無事に済んでいるが、下手したら誘拐事件に発展しかねない。
「まあ、おじさんなら大丈夫って思ったので」
そう言って、少女ははにかんだ笑顔を向けた。
何だろう、僕の普段の振る舞いから滲み出る優しげなオーラでも感じたのだろうか。
「一目見て、『こいつ弱そう』って思いました」
「おい」
「戦闘力4でした」
「雑魚過ぎるだろ、僕」
個人的にはもう少しくらいあると思うが。
少女は、小さな子供には似つかわしくないため息を吐くと、
「今は、話しかけたことをちょっとだけ後悔してます」
と言ってきた。
「おいおい、そいつは心外だな。小学生の女の子にいきなり話しかけられたから、ちょっと舞い上がっちゃっただけなのに」
「訂正します。物凄く後悔してます」
不審者を見る目が心に痛い。
それから逃げるように、視線を前に戻した。
「………」
「………」
それから無言で、2人して海を眺める。
大学生と思しき男女のカップルが、パラソルの下でイチャついているのが目に入った。
彼女がシートの上に寝そべり、彼氏が背中にサンオイルを塗ってあげている。
暫し、その光景を瞬きをせずに目に焼き付ける。
「……で、おじさんは何をしてるんですか?」
サンオイルって何のために塗るんだろうと思っていると、少女が再度同じ質問をした。
「別に、ただ海を見てるだけだよ」
本当は半裸の美女を見ていたのだが、それは黙っておくことにした。
小学生に聞かせるべき事実ではない。
「独りで?」
「まあ、そうだな」
「寂しいですね」
「そう言う君は、迷子かな?」
僕に声をかけてきた少女は独りだった。
僕たちがいる場所は人気がなく、周囲には彼女の保護者らしき人は見当たらない。
かと言って、流石に幼い女の子が独りで海に来たとは思えない。
「違います。一人で砂山を作ってたら、いつのまにかママがいなくなってただけです」
「それを迷子って言うんだよ」
どうやら遊びに夢中になっている間に母親とはぐれてしまったらしい。
まあ、この混雑具合だしな。
下手に母親を捜して動き回るよりは、こうして往来から外れたところでじっとしている方が良いだろう。
母親にも見つかりやすいだろうし。
「そう言うおじさんは、人生の迷子ですか?」
「いきなり何てことを言うんだ」
「独りで海を眺めてる人なんて、人生に迷ってるとしか思えませんが」
「失礼な。僕ほど悩みがない人間なんてこの世にいないぞ。悩みがないのが悩みなくらいだ」
「出会って間もないですけど、おじさんが馬鹿だということがわかりました」
呆れた声で告げる彼女の横顔は、僕の方を向いてはいない。
ただ真っ直ぐ、海だけを見つめている。
「ということは、おじさんは独りでここに来たんですか?」
前を向いたままで少女は問う。
「あのさ、さっきから気になってたんだけど、そのおじさんって言うのやめてくれる?」
確かに小学生からしてみれば高校生はおじさんに見えるのかもしれないけれど、だからといって指摘しないわけにはいかなかった。
少女はハッとした表情で、
「あ、すいません。配慮が足りませんでした」
「わかればいい」
「おじいさんは独りでここに来たんですか?」
「違う、もっと年上扱いして欲しかったんじゃない」
「はあ……まったく、面倒くさい人ですね」
「僕はまだ高2だ。お兄さんと呼べ」
「生憎、私がお兄さんと呼ぶのはあの人だけですので」
「意味深な台詞を吐くな。何かを匂わせるな」
そんないかにもな伏線を張られても、君メインの番外編はないよ。
「で、おじさんは独りでここに来たんですか?」
退屈そうな顔で同じことを訊いてくる彼女に、ついに僕は根負けする。
その頑なさには、あの幼馴染を想起せずにはいられなかった。
「……いや、連れが2人いる」
そう言って、僕は目の前の海岸線に視線を向けた。
「おじさんみたいな馬鹿にも友達がいるんですね。世界はまだまだ広いです」
「君は僕の何を知っているんだ?」
深々と嘆息し、改めて海を眺めた。
話題に上った連れの2人が、波打ち際で戯れている姿が映る。
押し寄せる波に一華が足をさらわれ、派手に転倒した。
その様子を見て、口元に手を当てながら千歳が微笑んでいる。
美少女2人が織りなす、美しい光景。
心なし、跳ねる水飛沫もキラキラ輝いて見える。
清々しい海を背景に、微笑ましい時間がそこにはあった。
「連れって、あの綺麗なお姉さんたちですか?」
僕の視線の先を辿り、隣の少女が尋ねた。
僕は軽く顎を引く。
「へえー………ちなみに、いくら貢いだんですか?」
「確かに分不相応なのは認めるが、別にお金で知り合ったわけじゃねえよ」
「おじさんごときが、あんな美人2人とお友達になれるとは思えないですけど」
「最初から薄々気づいてたけど、君、僕のこと舐めてるよな?」
というか、こいつ本当に小学生かよ。
さっきから人生に迷ってるとか貢いだとか、小学生離れした言動が目立つ。
思えば、初対面の大人の男の頭を躊躇なくぶっ叩く胆力も見せていた。
「何でおじさんは一緒に遊ばないんですか?」
若干凄んでみせた僕を軽く受け流して、少女は質問を続ける。
「別に、遊ぶ気分じゃないだけだよ」
「まあ、おじさんが交ざったら、あの綺麗な雰囲気をぶち壊してしまうかもしれませんからね」
「僕、君に何かした?」
第一印象が悪かったのだろうか、事あるごとに僕を下に見てくる少女。
「別に何もしていませんよ」
「だよな」
「はい。あなたは今までの人生で何もしていません」
「初対面の分際で僕の人生に口を出すな。巷では何をしても怒らない仏の一樹君と呼ばれている僕も、そろそろ限界だぞ」
「それ、馬鹿にされているのでは……?」
『君』呼びを続けてあげている自分を褒めそやしたい気分だ。
いつ『お前』呼びに変わってもおかしくない。
と、そこで少女は、
「あ、私わかっちゃいました。おじさんが海を見て黄昏てた理由」
出し抜けにそんなことを言ってきた。
「いや、別に僕は黄昏てたわけじゃないんだが」
僕の言葉には耳も貸さず、少女は続ける。
「この後、あの2人のどちらかを選ばなければいけないんですね」
「いや、そんなドロドロした間柄じゃねえよ」
「なーんだ、つまらないです」
「ていうか、さっきから勘違いしてるみたいだけれど、そもそもあの2人は友達じゃない」
「ほう。では、あの少女たちとおじさんはどのようなご関係で?」
「字面だけ追うと犯罪臭が凄いな。えーっと」
訊かれて、僕は遠く、波に弄ばれている一華を指差した。
「あの黄色くて小さいのが僕の妹だ」
「へえー、妹さんですか。言われてみれば何処となくおじさんに似てますね。二足歩行なところとか」
「無理して共通点を見つけなくていい」
目鼻立ちが可愛らしい一華と極々平凡な顔つきの僕とでは、容姿はあまり似ているとは言えない。
性格や頭の出来に関しても、社交的で優秀な一華と内向的で落ちこぼれの僕とでは雲泥の差だ。
「では、あの物凄く綺麗な方は?」
言って、少女は前方を見つめた。
その瞳には、海岸に佇む千歳が映っている。
「あいつは………何というか………幼馴染、かな」
自分でもわからない妙な感情に駆られ、歯切れの悪い返しになってしまう。
「幼馴染? それはつまりお友達ということでは?」
首を傾げた少女がそう言うも、いまいち合点がいかない。
「いや……友達、ではないと思うが……」
友達。
わかりやすく、この上ないシンプルな間柄。
しかし、彼女を友達と呼ぶことに抵抗を示す自分がいる。
彼女との関係を、ただの友達だと片付けてしまって良いものなのか悩む自分がいるのだ。
「じゃあ、もしかして彼女さんですか?」
眉根を寄せる僕に、少女が助け舟を出してきた。
その顔に、「ありえない」と書いてあるのは気にしないことにして、
「いや、彼女でもないと思う……」
と、言い淀みながらも言葉を紡いだ。
彼女。
これまた男女の間柄を表すにはわかりやすい呼称。
それでも、僕とあいつの関係は、決して彼氏彼女とは言えないだろう。
ただ幼稚園の頃から知っているだけ。
家が隣同士なだけ。
家族ぐるみの付き合いがあるだけ。
それだけの関係を、恋人とは言えまいーーーでも。
だからと言って、それを友達と呼ぶのも違うのだ。
「だから結局は、幼馴染ーーー昔からの馴染みって言うのが一番だろうな」
「友達でもないし彼女でもない幼馴染、ですか」
「ああ。ごめんな、上手く言えなくて」
「別に構いませんよ。大して期待なんてしてませんでしたし」
「僕の謝罪を返せ」
それからしばらくの間は会話らしい会話もなく、2人揃って海を眺めていた。
田舎の海には目に見えるほどのグラデーションはなく、海岸から水平線まで、群青一色の大海が続いている。
きゃっきゃと騒ぎながら水を掛け合うカップルを虚ろな目で見ていると、唐突に少女が尋ねてきた。
「………つかぬ事をお伺いしますが、おじさんは、その幼馴染さんのことが好きなんですか?」
僕の煮え切らない返答から、何かを感じ取ったのだろうか。
それは往々にして、友達としてだとか憧れの対象として、なんてはぐらかされる質問。
しかし、少女の視線は僕と同じ、イチャつくカップルへと注がれていた。
それを見れば、野暮なことは言うまい。
どの種類の『好き』を訊いてきたのかなんて、決まりきっている。
「…………どうなんだろうな」
だから、数秒考えた後、僕は強がりでも何でもない本音を吐露した。
千歳のことが好きなのか。
その問いへの明確な答を、今の僕は有していない。
僕の曖昧な返事を聞いた少女は、
「これは学校の友達に聞いた話なんですが」
と前置きしてから、
「その人のことが好きかどうか調べるためには、その人が自分以外の異性と楽しそうに話しているところを想像してみるのが良いそうです」
「何だそれ。そんなことで自分の感情がわかるのか?」
今時の小学生の間で流行っているおまじないか何かだろうか。
「生憎、僕はそういうのは信じない性質なんだ」
「そんなこと仰らずに。騙されたと思って、彼女がおじさん以外の異性と話している場面を想像してみてください」
「嫌だよ面倒くさい」
「いいからさっさとやれや。小学生の可愛いお願いじゃろうが」
「急に口悪っ!」
可愛くない小学生がやけに迫ってくるので、暇潰し気分で仕方なく乗っかってあげることにした。
千歳が他の男と……………。
「……………」
目を瞑って想像を膨らませていると、
「はい。では、おじさんは今、それを見てどう思ってますか?」
と、暗闇の中で少女の声がした。
「んー…………特に何も」
特に誤魔化す理由もないので、思ったことをそのまま口にする。
「本当ですか? モヤモヤしたり、嫌な思いになったりしてませんか?」
「いや別に………まあ強いて言うなら、あいつがちゃんと話せる奴がいて良かったとは思ったけれど」
「………そうですか」
もう大丈夫ですと言われたので目を開けると、そこには薄くはにかんだ少女がいた。
その笑顔には、さっきまでの生意気な含み笑いは感じられない。
ただ微笑ましいものを目にしたような、純粋な温かみに満ちている。
「………信頼しているんですね」
いや、疑ってないって言うべきかな、なんて小さい声で呟いた少女に怪訝な顔を向けた直後。
「百音ー! 何処にいるのー!」
近くで、女性の高い声が聞こえた。
見れば、ビーチを行き交う人の群れの中で、30代前半くらいの派手な水着を着た大人の女性が、あたりをキョロキョロ見回しながら大声で叫んでいる。
「あ、ママだ」
少女が驚きに目を見開いて呟く。
どうやらあの人がこの子の母親のようだ。
迷子の娘を捜して、ここまでやってきたのだろう。
「ママー!」
少女が大きな声で呼びかけると、向こうもこちらに気づく。
我が子の姿を認めると、不安そうな表情から一転、安堵が顔いっぱいに広がっていきーーーーそして。
隣に座る僕を視界に入れた途端、砂浜も厭わない猛ダッシュで近づいてきたかと思うと。
「あなた、うちの子に何してるの!」
鬼の形相で怒鳴られ何も言えずに呆然とする僕を置き去りに、少女を抱え上げた母親は、足早にその場を去っていった。
突然過ぎて別れの言葉も言えなかったが、
「………あのガキ」
最後、肩口から覗いたしたり顔を見たら、そんな気も失せてしまった。
そして、母娘が去った直後。
「………ねえ」
すぐ近くから、背筋も凍る冷ややかな声が降ってきた。
「………」
恐る恐る振り返ると、そこにはさっきまで波と戯れていた連れの美少女が2人。
「………言い訳をさせてください」
「本当に通報されそうになっててどうするの」
友達でもないし彼女でもない純白の幼馴染は、心底蔑んだ目で僕を見下ろしていた。