猫のいない猫わらい
猫のいない猫わらい
そして ひと見の像殖
一
初めにわらひありき
わらひは猫とともにありき
猫わらひたればすなはち猫なきににたり
わらひ一にわらひ 猫是に隱る
猫なきはあめつちあることの初發にして
わらひはあもちちがハハヽなり
一 + 一
わらひは一+一のこころなり
一 ○
「ニ」といふネは上げず、子をとる。一に一をおくため、わらひもてわれなくさせる。
われ(ら)はなく、
わら(れ)はむ口のみぞ。
わらふ口、空の穴とわれ、
地―圖さかしまに、有無ところをかえる。
空は圖にあらはれて匂ひうつれば、
いろさめて地のうちにミかくる。
ミなくすればみえず、ネがくる。
ネゑはまんとゑまば、
あなや
地―圖が穴、くふ口とらえるなり。
陰畫の世界、明暗反轉、
わらふ口くふ圖混成して、寂兮ネがなく寥兮かたちなくなるところ、
猫わらひかへりて、ニタリ。
ネひそみミ笑じてニタリとは、舊の一の復するには非ず、かれを無において起こる新たなる一のしるしなり。
猫なき猫わらひは一の世界をまろかして、二分して二を得ることなく、二を得るようにして新たな世界に進み出る。己れを隱すことによつて己れを保ち、而して己れを殖やす。
一 一
二は三を生ず。
一 ○ ○
三は萬物を咲ず。萬物零を負うて而して一を抱く。
一 ○ 一
死は不毛ならず。毫と雖も笑ず可し。
一 一 ○
無は非在ならず。非在は透明なる均一なり。無は有とが別ありて、かたみにゆらぎ、おかし、支え持つ。
生はかならず、前の生よりきたり、前の死をうける。後の生を開き、後の死に継ぐ。死のない生はないが、始源の生は無数の死を経てなお現在この生として健在である。遺伝子は不滅であり、情報は無盡燈である。
燈は超然一貫とした生であり、死はこれに奉仕し、つぎつぎ火種をついでゆく忠僕である。死は生を絶やすものではなく、生に活を入れるものである。死は同時に、始源の生ととなりあわせた無生物からの伝言で、生の独走を牽制する。死は見えない姿で萬古より盡未来際まで通じ、現われた姿で時間を消化するわたもちの生をかぎり、とことわの臥し所に慰撫する。死は、一方の手で後代への橋を渡して聖なるいのち火を連繋し、他方の手で余炎を抱きとって生の始源の安寧まで連れかえる。
有はかならず無ととなりあわす。無は有の運動の場であり、有の名をしるし義をあらわす本である。
おもうに、有無相生じる以前は静かな透明である。透明には、光も陰もなく、静かさには動ぎがない。あるはじまりが静かさを乱し、透明を破る。有無相生じるに場がゆらぎ、時が光を動かす。有が無にきりこまれ、かたちをあらわすと、互い互いが位置においてずれ、もはや均一ではなくなる。そして、此處に互いの間の関係というものが生じざるを得ない。この関係というものは、有の間で無が演じるものである。無は有を明かるませ、これをしるす。有を照らす光、有を記述する言葉、有を訴える声、有を動かす力、これらはみな無の働きである。
しかし、無は未生の透明世界にまではその働きをおよぼせない。おそらく神は、どんな言葉によっても記述はかなわないだろう。
一 一 一
有無相生じる以前をおもい、神という。神の世界に有無の別はない。なににかげはなく、光はない。なにに名はなく、存在というものはない。
なにとなにとの間はなく、場所はない。観察できないゆえになにひとつ決定できない。観察すればともかくなにかの種子をはじくこの世界と違って、われわれの視線はおそらくどこまでも透明ななかで行きあたるところを得ないだろう。すなわちこれは知りうることではなく、かたりうることではない。かりにおもうことである。
かりにおもって、有無相生じる以前の神は、有無相生じたるこの世界にあっては、秘である。われわれからは隠れていて姿をあらわさないが、ないということもできない。一切の記述はかなわない。有無相生じたる世界にあって神を秘というのは、有無相生じる以前の神が秘となる契機こそ天地創造の初発ということである。神をわれわれに似せて考えれば、秘となる契機は神と言とのおおいなる衝突にちがいない。神と言とは絶対的に一致し得る対のもので、ただそっくり裏がえり、かたみにわかれてあったものが、ともに一つに重なっておのれを閉ぢて新たな次元――万物創造に道をひらく。この時、単なる接触やとりこみ、部分的一致では意味を持たない。完全な合体が完全な創造に通じるのは、その瞬間、完全にきえて、総てがなりかわり、完全に生じるからだ。世界のあらわれは、神と言のかくれである。神の秘たることが世界の現前である。
そして、そうした世界の中心にわれわれはいるかのようにみえる。われわれは一つの発光体として世界を照射する。言葉という光を放射し、われわれは太陽のごとく宇宙の一つの系の中心の場を確保する。「わたし」という主体からなげられた光は世界と相互作用し、再び「わたし」にかえってくる。「わたし」はまだその総てを一時に解読できないが、解読したなら「わたし」は世界を持つことになろう。「わたし」も含めた万人の知の探求の積み重ねが、いつか一切の解読による世界の所有を可能にする――だが、その試みは徒事にちがいない。この世界のどこにも中心という特権的な位置はないのだ。われわれの言葉だけが特権的に、世界を騒がせずに、まるで催眠にかけたように、洗い浚いその機密を抜き取ってこられるはずがあるだろうか。言葉の波長はきわめて限定された領域のもので、しかもそれが持つエネルギーは対象をおし歪める。言葉は纔かにその散乱を抱きとって、中枢の経済的な分類箱に専制的な型づけを行なうだけだ。その時に響く不協和音がおもいのノイズとして蓄積される。
実は、われわれから出た光は、そもそもおもいの過剰によるものではなかったか。本能からはみだし、その上にかぶさって自然と自己とを遮断してしまったおもいは、明晰な光の放射にしか自然と自己との関係回復を期待できなかったのかもしれない。しかし、言葉が伝えるのはつねにずれを伴う写像にすぎず、自然の分節化された残骸が逆に制度的自然として開示される時、おもいは抑圧にひしがれる。この光明は、おもいにとっては、解釈をなす光明であってはならず、創造する光明としてエネルギーが活きねばならないはずなのだ。
われの内なる自然から溢れ出たおもいは、直接外なる自然と反応できない。外に向かって放つ言葉のかえりを待って、その言葉と反応することが期待されるだけだ。そして反応できる言葉とは、獲物を追うまなざしで対象に迫り、これをきずつけ、剥ぎとった皮だけを持ち帰る猟犬のそれではない。まして、戦利品を分捕った勢いから逆に居丈高な振舞で丸腰の主人を恐れ入らせ、自らかしらだってとりしきるようなそれでは更にない。まさにおもいが反応をねがうことのできる言葉とは、そのような血にまみれさせた相手の残骸 ――肝腎の魂には逃げられてしまっている――ではなく、どんなものと触れてもつねにかわらぬもの――永遠の命のようなものを伝えて寄越す言葉なのだ。そうした言葉はきっと、かたちがきまらず行き場も定められぬおもいの核に、まるで錠に鍵が差し込まれるようにぴったりはまって、あかずの間とみえた心の奥をみごとに開いてみせるだろう。此處に開かれたのは創造の扉であり、新しい世界の部屋がまばゆい光明とともに姿をあらわす。これが完全な創造なら、新しい世界はその前の世界から独立して自足しており、その世界にあるものは、扉の存在もその向こうがわにある世界も一切しらない。鍵と錠は完全にきえはてている。万一、鍵がその新しい世界のなかにぽんとなげだされていて、依然として存在のかたちをかえていないとしたなら、実はその部屋は既に誰かがつくった拵えものの部屋であり、これまでの世界となんらかわるところがない、虚しいものであるだろう。
観察すればかならず対象をおかさずにいないわれわれの言葉が、相手と触れ合いながら相手をそこねることなく往って復ることが可能である時、それはもうかたられる言葉ではないだろう。その言葉も、それを待つおもいも、主体がきめた持ち場から自由になって、どちらが鍵、どちらが錠ということなく、ただ相互に裏がえった位置にあるだけのまるでそっくりなものであって、だからこそ完全に一致して、対消滅するかわり創造のエネルギーをうみだす。
「かたりえないことについては、沈黙しなければならない。」
言葉もおもいも消え去った極みに 神秘 がひらく。
一 ○ ○ ○
沈黙――しかし、それでは通じないというおもいが、再びかたる病を惹き起こす。われわれの前には空白のカミがある。それが透明ではないために、われわれはその名をかたり、その体をあらわそうとする。かたられるかぎりはまことではない。かたりえないものとなれば、神秘き世界に到る。かたられたカミの総てはきえ、神秘を開示する。本初の神の要請はここに果たされよう。ところがヒトは饒舌だ。一旦かたりだしたら、かれはこれをやめやしない。
かれは言葉の背後にある闇をみない。発音には無数の配列が可能であるのに、そのうちかぎられた数しか言葉は存在しない。自然の万物と対応するには極めて不十分な数であるにもかかわらず、経済的な理由からこのことは容認されている。言葉は決して神の摂理をあらわすような御大層御立派なものではなく、絶えず増殖し、貧困化し、スラムにあふれるが、多くは死語としてその数を調節される。此處にも経済的な原則が働く。
言葉くらいおなじようなものがたくさん人々の間に流通してゆくものは、ほかにはただカネの例があるばかりだ。そもそもは、カネもコトバもともに神の要請として象徴的に扱われた。これほどに濫費されるとは考えられもしないものだったろう。昔は、世界のなかの多くが光り輝く金とも交換できず、尊い言葉でも言い表わせぬ、そういう闇のものが多くあることが承知されていた。だからこそ、おのれの財産をなげうつような贈与が重視され、神懸かりの狂気からもれる言葉が支配力を持った。これら象徴的なものが、光と闇の転換の境界に働くからである。しかし、くりかえしくりかえし働くあいだに、カネもコトバも人の頭脳を逆に制御するようになり、終に自ら物神となりをかえてしまった。世界には昔とかわらずカネで買えないもの、コトバで言い表わせないものがあるはずなのに、目を紛らすように、カネで支配でき、コトバで指示できるよろづの商品があふれかえっている。今や言の葉は、狐か狸の妖術で小判そっくりにかえられてしまった。そして、虚しく濫費される。
言葉は濫費され、物はあふれかえり、情報はめくるめくが、結局そのつけはおもいにまわされる。言葉はしかし、物や情報にはりつくばかりでおもいには向けられず、おもいは言葉から疎外される。言葉の急な進行は、おもいをも道連れにするが、しかし実のところはもう連れではなく、おもいのほうから縋りついているのだ。言葉がフェティシズムの刻印を濫発すると、おもいはその輝き、あるいは巧みな囁きに騙されて釣り込まれる。もしくはめまぐるしい言葉の飛び交いにかきまわされて泡をふく。終に、丸めこまれ、掬いとられたおもいは、幻想を養う培地となるだけだ。
永遠の命と共鳴しあう、かたられぬ言葉はもう見失われている。型押しされた言葉が多くの人間から一様なかたられ方をして世界をおおう。この世界に言い表わされぬものは数多く、言葉はそれにこそ到達せねばならぬのに、ネオンが夜空に対してなしたように、無数の星がわれわれの眼から見失われてしまった。もう、おもいと言葉の稀にみる幸福な一致は望みがたい。
だが、絶望きわまればドンデンがえしにこそ策はあろう。試みるべきは、この世に通用する有用そうなコトバにくさい息を吹きかけることだ。言葉にくっついた、価値という電気仕掛けの磁石のしっぽがかきあつめてきた様々ながらくたを、回路のスイッチを切って、総て無用の物となし、ほうりなげてしまえ。言葉からありがたみを疎外し、おもいからフェティシズムを疎外せよ。受容より排除を。俗な時間の只中に聖なる時間を呼び込め。
――この時「わたし」はきえている。まわりの者と同化している。視線が排除する対象だけに向けられているために。往々それは暴力と同視できる。もっとも暴力は、作用の方向が一様に向いてそこに力がためられるが、此處では相手のくづれを自らの無防備な相好のくづれによって補償し、力を拡散させる。この丸腰の警戒感のない表情は相手のおちこんだ立場のなさを救済する。わらいの底にこの共感がなければただ暴力があるだけだ。だが、これは効果にすぎず、本意ではなく、そもそもわらいは「わたし」を無関係にするはずだ。「わたし」そのものも解体するのである。まわりの者に同化するといっても、主体はどこにも存在しない。
これがお定まりの陳套な儀礼に堕さないためには、人に触発されてではなく、人に先駆け、自ら俗のなかに裂け目を見出し、この聖なる瞬間を呼び込むこと。この時うまく「わたし」からずれて、解体し、遍在するおのれを見ること。そして終に、なにものにもお構いなく、ただ気を散じ、総てを一掃する果てに自らも吹き消してしまうこと。
一 ○ ○ 一
おのれの正体も危うくする息のフルヘは、フリフリブルブル、手形化された世界を揺すぶり、裏書きを飛ばし、記号を曖昧にする。そうして、世界そのものをぶれスさせ、異化してしまう。世界がブレると、幾重もの平行世界が明らかになって、またその分軽く薄っぺらになる。つまり、世界は書かれたものに似てきて、読まれることを欲するようになる。
わらわなければ世界を読むことは難しい。読むことは新たに書くための鍵である。しかし、実は読んだことを消すことこそが本当の鍵を握ることである。書くためにはスペースが必要だし、存在が消された空虚の穴には鍵穴もできるだろう。鍵穴を見出して初めて鍵は用に立つ。読んで、更にこれを消す、そのためにわらいは、まづ世界に向けて、つぎにおのれ自身に向かって、もっともっと大きく口を開放し、息を震わせなければならない。(わらいにともなう口の痙攣は、増殖した世界に対応して穴を幾重にもするし、その引き攣れた震えは、穴にはまりこんだものをその都度振りおとし、消し去るのに格好である。)
わらう間にぎょうさんなものがきえる。世界に見出されたずれが、あごのずれ、息のぶれに伝染する間、世界がわれ、エゴがわれ、息がわれている隙におちこむものがたくさんある。世界はぶれただけ確かに増殖はしているのだが、どれも薄っぺらになったので、寧ろ全体が軽くなっている。世界がぶれるのも、ぶれた世界が軽いのも、それらを束ね、一つにしていた主体のおもしが、わらいの風に吹き飛ばされ、わらいの渦にのみこまれたのだということだ。主体がなくなれば、世界がどのようであるかという規制はない。融通無礙變化自在勝手自儘である。額面がきえた世界は総てが総てと交感可能であり、万物照応の実相が明らかとなる。
一 ○ 一 ○
世界は爆発的に増殖する。大いなる噴き出し。増殖は同時に衝突を招く。衝突すればやはり二つながらきえる。大いなる噴き出しの口は、大いなる消没の穴。衝突し消し合うはかならず対のもの。ならば総て一切がきえはててなにも残らぬはずなのに、創造は果たされた。対のものの一方のみ完全にきえ、同時に他方も対としてきえるはずが、なおなにか残ったのである。その不思議こそ創造の秘鑰であろうか。
一 ○ 一 一
ネズミ算もここまで。その増殖とは、口が生んだ子を錯乱した眼が認知した結果にすぎない。本当は、見えたものはその都度きえているはずなのに、つぎからつぎ、あらわれるものだけきりなくかぞえあげるせいだ。ひとわらいすれば、ケタケタときえてしまう。
そして、今度こそ「二」というネをあげよう。吾輩がかくれていた間にふえた世界は、吾輩が正体をあらわすことで片側はきえる。が、しかしやはり確実にふえて豊かになっていることがわかる。
一 二
猫臥してまろび寝し、起きてまりまろがす。わらってきえて、鶏子のごとく世界を渾沌す。
きえる猫はいづれも歯を剥き出しにする。それはある場合はわらいの表情であり、ある場合は貪婪な本能の激した表出である。かたやイングランドのチェシャー猫、こなたアイルランドのキルケニー猫。
偖て、かの有名なチェシャー猫はイギリスにだけいたのではない。チェシャー猫は、十九世紀大英帝国最盛期に人間嫌いの数学講師ドジスン氏のもとに現われて以来一躍盛名を馳せたが、実はその二百年近く前、ところはおなじユーラシアでも東の涯、日本において逸早く姿をあらわしているのである。西鶴伝えるところの、大坂天満七つの化物のうちの一つ、池田町のわらい猫というのがそれである。
日本とイギリス――極東と泰西と、一見これは極めて隔たりある取り合わせだが、よくみればおたがいなかなかによく似たところがある。ともに大陸より海を隔てた島国である。もともと縄文人やケルト人という先住民族がいたが、海をわたってやってきた弥生人やノルマン人に征服されて今日に至っている。尤も、それ以降は大陸の諸国が他民族に征服されても海に四方をかこまれたこの両国だけは他国の支配に服したことがない。また、大陸には皇帝を戴く大国がながく存在し、両国もそれにならって天皇や国王が君臨する体制をきづいたが、大陸における皇帝が滅び去った後もなお王制を維持存続させている。だが、こういう類似点以上に、チェシャー猫登場の時代背景には共通点があった。
チェシャー猫があらわれた十九世紀イギリスは、ヴィクトリア女王治世下の黄金時代にあって未曾有の繁栄を謳歌していた。勿論、人間どもがどんなに繁栄していようと猫の知ったことではない。ところが、人間の繁栄するところ、併せてねずみの繁殖も相伴うもの。「世界の工場」と呼ばれたランカシャーとマージー川を挟んで隣接するチェシャー州には名産のチーズがあったからなおさらである。
一方、それより前に姿を見せた日本はというと、頃は元禄、徳川の幕藩体制整って天下泰平の真っ盛り、経済も隆盛、町人を中心とした文化も一つの頂点に達していた。なかでも大坂は天下の台所として殷賑を極め、京、江戸とならぶ三都の一つにかぞえられるほどであったが、この大坂にもねずみを魅惑するものがあった。堂島川にたちならぶ米蔵はまさに福の神の使いが数多く訪れていた。
その福の神の使いは銀舎利を召し上がるわけだが、猫はそれを食ってネを上げて黄金かがやく大判小判を招き寄せる。ねずみの食う俵物の米こそ、寝子すなわち揚屋町にかよふ遊女の謂であって、これが後のイギリスではチーズになりをかえてねずみをおびきよせるのである。この寝子のために嫁が君が泣きをみる図をひっくりかえせば猫がわらうという塩梅になろう。尤も、猫以上にわらいが止まらなかったのが大坂あきんどで、これだけ金銀の縁をもって富をかき集めたわけだから、まことに西鶴の言うとおり、それらわらい猫も含めた化物よりなおおそろしいのは人間という話にもなる。これだけわらいが止まらないくらい商売繁昌なら猫だってわらってみえるのが人情かもしれないが、おなじ化物には泣き坊主やさかさま女などがいるのだから、わらい猫と云われるものもちょっと人々のうかれわらいとはわらいのたちが違うはずである。人とおなじにしてもらっては気がわるかろう。
偖て、この池田町の猫がはたして既にチェシャー猫とおなじ類のわらいを心得ていたかは明らかではないが、ねずみの好物を自ら騙ってそこに紛れるあたりはチェシャー猫の筋のものにちがいない。身を紛らすのがきえることと完全に同義かというとそうは言いきれぬふしもあろうけれども、少なくとも十九世紀チェシャー猫に至っては、全ききえる猫とはなったのである。
チェシャー猫は「チェシャー猫のように」わらう猫である。そして、わらったままきえる猫である。きえる最後にわらいだけ残す。その残ったわらいが〈猫のいない猫わらい〉である。もはや猫はいないが、わらいだけ最後に保って空虚な穴がそこにある。実体が忽然と消滅する、すなわち空虚が忽然と出現する。しかし、咄嗟に出現した空虚の存在は、それ自体自己矛盾的な不安定さをかかえこんでいる。つまるところ、空虚も消滅しないわけにいかない。空虚が忽然と消滅する、すなわち実体が忽然と出現する。最後のわらいがきえた後に、言葉だけではない本物のチーズがあらわれる。
逆にチーズがなんの前触れもなく忽然と消滅したなら、今度はそこにできた空虚な穴からわらう口が生まれ、わらう猫があらわれてくるだろう。
「無から(アテイオ・)の(エク)創造」という言葉がある。神ならぬ身には誰にも能うことではない。いかなる錬金術師もそれはかなわぬわざであった。しかし、チェシャー猫は言葉とわらう空虚な口とをもっていかにも易々となしとげているようにみえる。
創造の鍵は第一には言葉である。チェシャー猫が「チーズ」という言葉をものするのでなければ、いかに巧みに自分の姿を消すことができても、後に首尾よくチーズが出現する保証はない。無論、言葉そのものが存在の喚起力を持っており、われわれが現象世界において認知する存在のおおくは、原初の渾沌から意味づけによって言葉がきりだして、畫定し、物として創り定めた結果におっていることはあらためて言うまでもない。
ある意味で、「チーズ」という発語によってチーズは存在の現前の間際まで高められていると言えるかもしれない。しかし、この段階ではまだ、発語された内容のチーズは発語者の内部意識の産物にすぎない。唯この段階でも、発語された言葉が他の者の内部意識を共振させて、あたかも言葉に応じた一種の存在がたちあらわれるかのようなある現象が生じるのを相互に認め合う場合もある。それでも、それは普遍的なものではない。まして、猫の発した言葉ではまずそうした現象の生じる余地はない。
しかも、発語者は神のように「チーズあれ」とは言えない。言える言葉は唯「チーズ」だけである。つまり、「チーズ」は外に向かって発語できるが、「あれ」はあくまでおのれの内部のおもいなのである。なぜなら、終局的にチーズが存在としてあらわれた時、もはやそれで「ある」わけだから、「あれ」というものは余計になるのである。すなわちそれはあくまでおもいとして言葉を支えればよいわけである。
そして、〈あれ〉というおもいが完全に満たされてもうおもいの必要がない時こそ、おもいが支えた言葉が実質をとって生きる時なのである。これはおもいと言葉とが次元が相違することを示している。おもいも言葉もともに発語者の主観関係物によってその存在の在り方が規定されるのを免れないが、発語によって外に向かって解放される言葉とあくまで発語者のうちにとどまるおもいとはおのずから次元が異なってくる。おもいは発語者自身の存在と運命をともにするが、言葉はかならずしもそうではない。言葉は発語者によって生み出され、そのおもいに支えられて生きるが、別の意味で言えばその枠内でしか生きられない。「チーズ」と発語されても、それは誰かが発した「言葉」であり、ある文脈での意味を負った言葉にすぎない。
ところが、その言葉が発語された瞬間、発語者自身がその存在を消し、主観による一切の規定がきえ、完全に外部へ解放された時、〈あれ〉というおもいに支持された言葉が本当に純客観的存在となる可能性もある。ただし、発語者自身が完全にきえうるのは、おもいも完全にきえるということであり、すなわちそれは、おもいが完全に満たされているということと同義である。つまり、〈あれ〉というおもいが十全に遂げられているわけであり、その時点で言葉が完全な実質になっているのである。なったと同時に遂げられたおもいはきえ、約束どおり発語者自身もきえて、言葉の実質的存在としての現前を保証するのである。もし、おもいが完全には満たされないままに発語者自身がきえ去ろうとしても、それは瞬間的完全的にはなされえないのは無論のことであって、発語者の主観によって規定される次元から存在の現前としての次元へ飛躍することはできない。
それでも、そうした完全な消滅というのはなかなか容易ではない。きえるためにはきえる穴が要る。次元をきりかえるには次元がゼロの特異点をくぐらなければならない。おのれの中心をつらぬく穴をわらいの虚ろな穴にしなければならない。わらいは意味を震わせ、異化し、転倒させる。そのはてに総てを軽くする。そしてわらいの口の虚ろな穴は、古い意味世界を呑み込んで解体消化するブラックホールとなる。また同時にそれは産道のトンネルともなるのである。その虚ろな口は今度はホワイトホールとなって、一旦きえ去った世界が新しい息吹を吹き込まれてわかわかしくまったく新たな存在として蘇り弾き出されてくるのである。
おのれを完全に消し、おのれにかわるものを生み出すためには、おのれのうちにこうしたわらいの空虚な穴を開かなければならない。またわらいの融通無礙さは、逆方向の存在の消滅、おのれの復活といったことも、まるで戸口を開閉し、敷居の上を行き来するように、双方向の自由な転換を可能にする。だから、きえるといっても実のところ秘めると言ったほうが適切かもしれない。
ともかくこうしてチェシャー猫はチーズと言うことによってわらい、わらったままきえる。きえる瞬間、忽然と生まれた空虚が忽然ときえ、忽然とチーズが生じる。このチーズにはもう言葉のかげはない。だから、ねずみが食べに寄ってくる。ところがそれに実際かじりつこうとしたなら、ねずみにとって大悲劇である。その行為が次元転換の引き金になる。
たちまちチェシャー猫のわらいが復活する。物のチーズは言葉の「チーズ」にかえる。それとともに、ねずみもチェシャー猫の腹中におさまって現実世界からきえる。
* * *
1
もうもどってこないとおもっていたねずみがふたたびこちらへやってきた時には、今度こそなかなおりするいい機会だわ、とアリスはおもいました。それにながいおはなし(テール)のつづきだってうかがわなくちゃいけないわ。だって、このまえはねずみさんたら、はなしっぽなしのまま行っちゃって、どうしてかなしいしっぽ(テール)なのか、アリスにはちっともわかんないままなんですもの。
けれども、ねずみはアリスのところへ来るまでに立ち止まってしまったのでした。そして、鼻をくんくんいわせてから横手の壁にとりつきました。その時、プゥーンとつよいにおいがアリスのほうにもただよってきました。
あら、チーズのにおいだわ。
そうおもった時でした。
とつぜん、ねずみのとりついた壁がきえて、そこにおおきな一つの穴が出現したのです。それは、壁がチーズだとすればチーズにはよくある空気の抜けたくぼみの穴の一つだったのかもしれませんが、しかし、それにしてもおおきな穴でした。そして、その穴にアリスのおともだちのねずみがのみこまれていくように見えました。
と見るまもなく穴は閉まり出し、口がだんだんすぼまってゆきました。それにともなって、ねずみのすがたも穴のおくにどんどんかくれてゆきます。
もうどうすることもできません。永遠のおわかれでした。とうとうなかなおりのごあいさつもなにもできずじまいになりました。せめて最後まで見え残っていたねずみさんのあのながいシッポに対してだけでもおなごりをおしみたかったんだけれども……、とアリスはとても心残りにおもいました。ほんとうに、アリスが声をかける時間もなかったほどわづかな間に、穴は全部しまってしまって、ねずみのすがたも頭のてっぺんからシッポの先まで、きれいさっぱりきえてなくなったのです。こんなことはだれに想像できたでしょう。おともだちがこれほどあっけなく目の前からいなくなってしまうなんて。はじめは信じられない気持ちの強かったアリスも、そのうちほんとうにかなしくなってきました。
「かなしいシッポ(テール)、ってほんとね。こんなおハナシ(テール)ならしてくれないでもよかったのに……」
そうしてアリスが泣きべそをかきそうになっていると、近くでだれかがわらっているのがわかりました。
こんなときにわらうなんて……。
アリスはとっても腹がたちました。もうなみだいっぱいでしたが、顔をあげて手でぬぐうと、心ない相手をおもいっきりにらみつけてやりました。わらっていたのはおおきな猫の顔でした。ちょうどねずみがきえた壁のところです。
「あっ、チェシャーねこちゃん!」
アリスは心底からびっくりしてさけびました。
「まあ、あなたなの、ねずみさんたべたのは」
チェシャー猫はわらいながらそれを認めました。その時はもうチェシャー猫は――ひょっとしたらアリスのほうが――ふつうの大きさにかえっていました。
こんなときにわらうなんて、みそこなったわ、チェシャーねこちゃん。
おなじネコでもうちのダイナなら――でも、ダイナだってねずみをとったときはごきげんよさそうなかおをする――だけど、わらいはしないわ。
そうよ、わらいはしないわ、ゼッタイ。
「あなたはおハナシのわかるいいネコだとおもっていたのに、ほんとうはおハナシのつづきをたべてしまうわるいネコだったのね」
アリスがため息をつきながらがっかりしたように言うと、チェシャー猫がいちぇしゃーしゃーとした顔でこう答えます。
「おや、おハナシっていうからにはしっぽがないきまりなのをごぞんじなかった? まあ、きまりなんてふしぎの国にはどうでもいいことだし、あなたとわたしのもとの国では話としっぽはおなじだというきまりもありますけれどね」
「そんなきまりなんて、どっちもきいたこともないわ」
アリスはさっそく反論しました。
「だから今きいたのですよ。でも、あなたはもうおハナシになっているから、自分のことは気がつかないようだけれども」
それがどういう意味かアリスにはわかりませんでした。あたしがはなしをしているから自分のことが気がつかないなんて言ったけれども、おかしいわ。わかるためにはなしをしているのに、はなしをしているからわからないっていうのは反対だわ。チェシャーねこったらへんなことばかり言うこと。あ、へんなことといったら、ねずみさんのことがあったわ。そうだ、これはちゃんときいておかなければいけないわ。
「チェシャーねこちゃん。あたし、あなたにおききしときたいおはなしがあるの」
「おや、なんです? おハナシのこと?」
「ううん。ちがうちがう」
お話といってまたわけのわからないきまりとかおかしな理由とか出てきたらたまらないとおもって、すぐに打ち消しました。
「あのねえ……」
そう言いかけてアリスははたと困ってしまいました。
チェシャー猫はわるい猫だからちゃんと言ってやらなきゃとおもっていたのですが、でもそのわらいをうかべた表情を見ているととっても気のいい猫なわけですから、一体どこがわるい猫なんだろうかともう一度考えてみないといけなくなったのです。
ほんとにチェシャーねこはなにがいけなかったのかしら。そりゃあねずみさんをたべたのがいけなかったんだけれども、でもネコがネズミをたべるのはしかたがないことだわ。いくらねずみさんがあたしのおともだちだからといったって、チェシャーねこはごぞんじないはずだもの。自分はかくれてて急にぱっくり口をあけてたべちゃったのがいけなかったのかしら。でも、ねずみさんがにげるところをおいかけてさんざんこわいおもいをさせてからつかまえてたべちゃうのもザンコクだわ。あたしがねずみさんだったら、そんなたべられかたゼッタイにいや。まだチェシャーねこがしたようにしらないあいだにパクリとされるほうがいいかもしれない。いいかもといったってやっぱりよくないわ、たべられちゃうなんて。でも、あたしはねずみさんじゃないんだし、それにチェシャーねこだっておともだちなんだから、すこし大目にみてあげたっていいわ。
そうおもってしまうとなにも言うことがなくなってしまうようでした。
そうしたら今、あのねえと言って話しかけたことはどうなってしまうんでしょう。
あら、はなしがしっぽどころかあたまのところでちょんぎれちゃう。まあ、たいへん。チェシャーねこならこう言うかもしれないわ――
「おや、あなたこそ自分のおハナシをあたまからたべちゃったんじゃない?」
アリスが心のなかでおもったことをチェシャー猫がそのまま口に出して言いました。アリスがあのねえと言ったまま少しも続きを言わなかったので、チェシャー猫だって待ちくたびれたのかもしれません。
アリスはチェシャー猫が言いそうだとおもったことをちょうどおなじタイミングでかれが言ったので、ドキリとしました。そして、自分がお話を頭から食べたと、いかにも残酷な人みたいに言われた――でもその半分はアリスが自分でおもったのですけれども――ようなので、あわてて否認しました。
「いいえ、まだよ。まだおハナシがあるんだわ。だから、あたし、おハナシをたべちゃってなんかいないんだから、いいこと、そんなことしないんだから、そこのところわかってよ。おハナシはこれから言うんだから、ちょっとまって」
「あ、そう。話頭を転じてあげようかとおもったけれども、まだ続くんだったら、わたしもあなたの話のコシを折らないようにしなくてはいけませんね」
チェシャー猫はそう言うと、またゆったりとわらいを顔にうかべます。
アリスは今度こそなにか言わなきゃとおもいながら、一方でこんなことをおもっていました。
――どうしておはなしにあたまとかしっぽとかあるのかしら。はなしのコシとも言ったわ。しっぽがあるんだったら、おしりやこしもあるんだろうな。あ、そうだ、もともとはねずみさんのながいしっぽ、じゃなかった、ながくてかなしいおはなし、あれ、やっぱりかなしいしっぽかな、あら、まあどっちだかわかんないけれども、とにかくどっちもいっしょにたべちゃったのよ、チェシャーねこは。だからこんなにおはなしがややこしくなったんだわ。そうよ、いけなかったのはそういうことだわ。
アリスはようやくなんと言えばいいのかわかったのでした。
「あのねえ、チェシャーねこちゃん、どうしてさっきながいおハナシとかなしいシッポをいっしょにたべちゃったの?」
アリスはようよう話を続けられて得意げになってききました。
「いいえ、おハナシとシッポは一緒に食べられるもんじゃありません。なんといってもおハナシと言うからにはシッポなしでなければおかしいですからね。それとも単純に話のしっぽをなくしたっていうことですか?」
せっかくの得意げな質問もチェシャー猫にかんたんに訂正されてしまいました。
アリスはチェシャー猫の言う言葉の意味がこんがらがってよくつかめませんでしたが、もうこれ以上考えこむのはごめんだわとおもいました。こちらの頭はこんがらがっているのに、「単純に」と言われたのは心外だし、食べたことをなくしたと言い換えしているのはごまかしのような気もするのでしたが、素直にその訂正にしたがっておくほうが今は楽なので、そういうことにしました。
「ええ、そういうことよ」
「なるほど、わかりました。どうして話のしっぽをなくしたか。それは第一に、おハナシとはシッポがないと言いながら、もう一方で話としっぽはおなじ発音だからなんです。だから、話のしっぽと言うと、しっぽのしっぽとか話の話と言ってるのとおなじことになって、わけがわかりません。そんなややこしいものは頭からなくしてしまうに越したことはないわけです。第二にはね、わたしは話しっぽなしのままが好きなんです。もしもね、話がしっぽまであるとするでしょう、そうしたら話にちゃんと締めくくりがつくわけですから、ちっとも話にならない話にならないでしょ。それならおもしろくないし、わらえやしません。わらえなくなれば、わたしはきえることもできませんからねえ」
「あら、それじゃあちっともふしぎじゃなくなっちゃう。あなたこそあたしが出会ったなかで一番のふしぎの持ち主だとおもってたんだのに」
アリスは残念なふうに言いました。
「わかってくれたみたいね」
チェシャー猫は満足した表情をうかべながら、更に言葉を続けることには、
「だからわたしは開口一番を大事にして、いつもしっぽからきえるんです。よくしっぽをきえたままにしているので、その時はマンクス猫という別のなまえで呼ばれることもありますよ。ともかく、しっぽがなくてそれに続く胴体もなければ、御存じのように首を斬られることもありませんから。それにひきかえねずみどんは、あたまに胴体に、おまけにながいシッポまで持っているものだから、しばしばかなしいケツ尾になってしまうんでしょう。あなたはシッポを持っていないからたいへん結構なことです。わたしが話のシッポをあたまからなくしてしまったといって、なにもあなたまで、ないシッポのことをおしむこともないとおもいますけれどもねえ」
シッポを持ってないのは結構なことだと言われて、アリスはおしりに手をやりながら、そうかもしれないとなんとなくおもいました。そして、シッポのない自分がシッポのことをおしむこともないと言うのも、なるほどもっともだとおもいました。でも、やっぱり首をかしげないわけにいきません。
チェシャーねこの言うことはそりゃあもっともかもしれないけれども、だけどやってることはちっとももっともなことだとは言えないわ。おおきなチーズにばけて、だましたねずみさんをたべちゃったり、ひとがかなしいときににやにやわらったりするんだから。
ねずみのことをおもいだしてアリスはこう言いました。
「あなたがなんと言ったって、あたし、あのねずみさんとなかなおりしなければいけなかったんだわ。だって、このまんまじゃあたし、あのねずみさんにたいしてにくまれ口ばかりきいていたわるい子になっちゃうんだもの、もちろんそんなつもりで言ったんじゃなかったんだけれども。それをあたしのおともだちのあなたがぺろりとたべちゃうなんて、ますますあたし、ねずみさんにもうしわけなくなってしまうわ」
アリスは口をとがらせて言いました。
「口はいつもかなしいシッポに憎まれるものですよ。なぜって、おハナシをつくるのは口ですからね。それに口がなきゃねずみどんだって食べられる心配がない。かなしいケツ尾にならないわけです。なかなおりしようたって無理というもんでしょう」
「まあ、そんなに口としっぽとがなかがわるいなんてしらなかったわ」
アリスは妙に感心したように言いました。
「そりゃあなたがシッポをお持ちじゃないからです。口の達者な人間はどうしたってシッポを持てませんよ。シャッポはかぶってもね。それだけに全身シッポのような蛇をとてもこわがるのです」
「じゃああなたはへびをこわがらないの?」
「蛇をあんなにこわがるのは人間かカエルぐらいのものですよ。ほら、カエルだってシッポがないでしょ?」
「ええ。だけどカエルは――あら、カエルも口がたっしゃね、ほんと、あの田んぼでの大ガッショウといったら。それにお口もすっごくおおきいし」
「でしょ?」
ほんとにチェシャー猫の言うことはもっともなことばかりだとおもいました。でもアリスはすぐ警戒して、この口がくせものなんだわ、とおもったのでした。だって、ねずみさんをたべてしまったのはあの口なんですから。それもぺろりと。いくらもっともらしいこと言ったってそれはジジツなんだから。
事実――ふいにアリスのあたまのなかについさっきねずみが食べられてしまった時の光景がまざまざとよみがえってきました。アリスはぞっとして物が言えなくなりました。
それはなにもないところにいきなり口があらわれたのでした。それもねずみが大好物のチーズにありついたところでした。自分だって、もしなにか好きな物に手を出してそれを食べようとしたところ、急にぽっかりおおきな口がそこにあいて、反対に自分が食べられてしまうとしたら――それを想像しようとしただけでアリスはおそろしくて息が詰まる感じがしました。
――やっぱりひどいことだわ。
なにがひどいことをしているかっていうと、それは口だとおもいました。チェシャー猫の口です。チェシャー猫はおともだちのふしぎの猫だとおもっても、そのなんとでも言う口だけはいけないような気がしました。ふつうのネコの口じゃないわ。ネコならネコらしくしてくれればかわいいのに。まあ、わらうだけならいいけど、ほかのわけのわかんないことはなしにしてほしいわ。わけがわかんないことがよくあるんだったら、おともだちでもあたしがたべられてしまうこともあるかもしれないってわけかも。ああ、こわい。
そうおもうと、チェシャー猫のにやにやした口と一緒にいるのが耐えられなくなってきそうでした。
チェシャー猫のほうもそんなアリスの気配を察したのか、からだがだんだんうすくなってきて、「じゃ、カエルが出てきたところでわたしもそろそろかえるとしましょうか」と言うと、顔もしだいにきえかかってきました。最後はあのわらう口だけが残って、それもおしまいにきえてしまいます。そしてその口は今度はアリスのうしろにあらわれて、アリスをパクリとのみこんでしまうかもしれません。アリスはあわててさけびました。
「まって、チェシャーねこちゃん!」
「どうしたんです?」
チェシャー猫がきえかかった顔をもとにもどしてききかえしました。
「ねえ、あなたはこれからどこへ行くの?」
「え、わたしがどこへ行くですって? そりゃああなたがわたしをどこへ行かせたいか、その行かせたいところしだいですよ。で、あなたはどこへ行かせたいんです、このわたしを?」
なんだか前にきいたような言葉でチェシャー猫は答えました。
「どこへ行かせたいかっていっても、べつにあたし……」
アリスはちょっと心のうちを見透かされたようで、口ごもってしまいました。
「別になければどこへ行ってもおなじですね。御心配にはおよばないようです」
「あの、べつにあなたのしんぱいをしているわけじゃなくて……」
アリスはおもわず正直に言ってしまいました。
「なるほど、それはよかった。わたしだって心配してもらう身では気軽にわらえなくなりますからねえ」
「ええ、そうね。あのー、でもちょっとご注文だけさせていただいてよろしいかしら」
チェシャー猫はどこへでも行くような言い方だったので、不安になってアリスはおねがいするようにこう言いました。
「御注文? 結構ですとも」
「つまりね、あなたが行くの、どこであってもいいんだけど、でもただね、あのー、あたしについてこないように、あの、してほしいんだけど……」
そんなこと言えばよけい駄目かもしれないとおもいながらも、アリスは正直にこうとしか言えませんでした。
「そりゃおやすい御用ですがね。でも、わたしがねずみを食べたからといって、あなたまでこわがらなくてもいいとおもうんだけれどなあ。ただ自分よりもおおきなチーズに手を出しさえしなければ絶対安全太鼓判というのに…」
チェシャー猫はとても残念そうな口調で言いました。今はもうからだがしっぽの先まですっかりあらわれています。
「それであなたはどこへ行くんですか」
「それが……」
実はアリスにはなんの当てもないのでした。
「……わからないの。あのー、あたし、どこへ行けばいいのかしら?」
とうとうチェシャー猫に相談してしまいました。
「どこへ行きたいのか、行きたいところしだい――というけれど、あなたはわたしと反対の方向のほうがよろしいんでしょう?」
「え、ええ」
「それじゃ、お望みどおり、そうしてさしあげましょう」
アリスはチェシャー猫のこの言葉を、おともだちのよしみで素直に信じました。そして、やっぱりチェシャー猫は親切ないいネコだとおもいました。
「ありがとう、チェシャーねこちゃん。それで、あたしはどちらへ?」
「わたしと反対のところと言えば、結局キルケニー猫のところしかありません」
2
「キルケニーねこ?」
アリスはまた新しいしりあいができるのだと、ちょっと楽しみな気を起こしました。とくに、ねこのおともだちなら大カンゲイだわ――チェシャー猫でこわいおもいを感じているくせにもう別個のことみたいにアリスはおもっているようなのでした。
つい今しがたとうってかわってうきうきしたアリスの様子でしたが、そんなことは気にとめるふうもなくチェシャー猫はうなづいて補足しました。
「そうです。早い話が終末猫です」
「しゅうまつねこ? しゅうまつって土よう日のことでしょ? 土よう日のねこならとってもたのしみ。すぐおともだちになれそうな気がするわ」
随分と現金にものを言うアリスでしたが、チェシャー猫のほうも結局自分の言ったことが早い話にならなかったようなので、ちょっと首をかしげてしまいました。
ところで、道は一本しかなかったので、アリスはチェシャー猫と反対の方向を指さして「こっち?」とたずねてみました。するとチェシャー猫はうなづきかえしたので、アリスは、「それじゃ行くわね、チェシャーねこちゃん」と言って、続けて「さようなら。お元気でね」と言おうとしましたが、不意にチェシャー猫のきえることをおもいだして――そう言えばこの前だって今だって、チェシャー猫は登場の時も退場の時もいつもひょっくりひょっくらあらわれたりきえたりなのですから、今度だっておわかれのあいさつをしたらそこでスーッときえてしまうにちがいありません、そしてそれは今のアリスにはスーッと背筋が寒くなることなのです――急に口を噤みました。さようならを言おうとおもっていったん振り上げた手も振らずにそのままにして、でも一応は精一杯笑みを繕ってからいきなり後ろを向いて一目散にその場をかけ去ってしまいました。後ろに残ったアリスの手はステップの拍子に合わせてわずかに左右に振られながらも振りみ振らずみのごとく、おわかれの合図ともいやいやともつかず、必死に走るアリスの後を一生懸命ついてゆきます。そういうアリスとは対照的にチェシャー猫はいたっておちつきはらった様子でひとり後に残ってこう言いました。
「あなたはとんでもない誤解をしているようだけど、まあ行ってごらんになったらわかることですから。わたしのようにしっぽから先にきえて最後に口の部分がわらいと一緒に残っているんじゃなくて、初めに頭からどんどんきえていって果てはしっぽだけお終いまで残っている猫というものがどういうものか、とくと御覧になってみるのもよいでしょう。わたしはないものをあるものにして生み出し、それで自足する創世記の猫。そこからあなたは一気にかれらの黙示録世界へと踏みこまれるわけだ。つまり、アルファにしてオメガなるものをたちまちのうちに目撃されることになります。はたしてその意味がおわかりになるでしょうか。わかってもわからなくても、世界はひとめぐりし、あなたはかわるし、そこになにか生まれる。その時にまたわたしが立ち会いましょうか。それでは、その時まで。きっとその時にはもう、いくらあなただってわたしのことをこわがったりはしないとおもいますからねえ」
チェシャー猫は、アリスがおわかれのあいさつもそこそこにまるで逃げるようなわかれ方をしたことについてなんともおもっていませんでした。アリスのこわがるところも無理ないような気がしたからです。おわかれの際、かれがわらいながらきえ、最後にわらう口だけが残る光景は、以前はなんでもないことかもしれなかったけれども、今のアリスにはどうも問題があるようなのはかれにもわかっていました。
世界に不思議の穴が隠れていて、それがいつ開いたり閉ぢたりするかわからないことは、うさぎ穴にとびこんで不思議の国までやってきたアリスならほかの誰よりも理解しやすいはずです。実際アリスも、初めの時はあまりびっくりもこわがりもしていなかったのです。けれども、そうした穴から物が生まれたりなくなったりする現場を直接目撃することは少女でなくてもやはり衝撃の強いものにちがいなかったのでしょう。
おそろしいと言えば、キルケニー猫のこともあります。キルケニー猫がどんなにおそろしい猫か――実際、終末猫というほどですからね、アリスがどうとりちがえているにしろ ――チェシャー猫は知りつくしていましたが、これからアリスの行く先についてちっとも不安がるところもなかったのです。それは結局キルケニー猫についても今しがたのネズミに対してとおなじように、アリスはあくまで対話することのない傍観者にしかならないことを見通していたからです。だからチェシャー猫は安心してわらいました。「チーズ」と言ったようにも見えました。そして、シッポの先から徐々にきえていって、最後にわらう口一つをしばらく残してからやがてスッポりきえてなくなりました。
あとに一つ、穴のあいたチーズ。
3
アリスはちょっと不安になってきました。それはキルケニー猫の家になかなか行き着かなかったからです。このまえは、チェシャー猫とわかれてすぐ三月うさぎの家をみつけることができたのに。でも道はこの道一本しかありませんし、チェシャー猫がいないほうにやってきたのですから、道をまちがっているわけはないとおもいます。相手の家がただとおいところにあると考えるよりほかありません。
そーだわ、とアリスはおもいました。チェシャーねこと反対のねこちゃんならご近所どーしであるはずがないわ。それに、これだけ道のりがとぉーいようにおもえるのも、あたらしいねこちゃんに会うのが待ちどぉーしいからかもしれない。あたし、ネコがとってもすきだもの。それともずぅーっと歩きどぉーしだからかしら。そーね、歩きどぉーしだからいやでもとぉーくなっちゃうんだわ。それじゃちょっと休ぅーけーしてみよーか。でも、じぃーっとしてたら今度は待ちどぉーしいわ。やだ、どっちにしても、とぉーいことにかわりないみたい。はやくおともだちどぉーしになりたい……あら、なにもかもとぉーいってことになっちゃう。ここは「とぉーい」のお国かしら。ほんと、チェシャァーねこと会うところはいつもへんなところばっかり。そりゃあ、あのねこ自体が一番のふしぎなんだから、とーぜんのことかもしれないけれど。ところで、今度会うねこちゃんはどーなのかしら。やっぱりとってもふしぎなネコなのかしら。
たしか土よー日のネコといったわ。それじゃあたのしいネコにちがいないわ。土よー日ってとってもたのしみなことがおぉーいんですもの。どこかあそびに行くのもいーな。ゆぅーえんちとかね。ゆぅーえんちにはミッキィーマウスとかたのしいおともだちがいーっぱいいるわ。あ、今度のねこちゃん、チェシャァーねこと反対のネコといったから、ひょっとするとねずみとなかよしのネコかもしれない。土よー日のネコなんだからきっとそーにちがいないわ。そーよ、ミッキィーマウスともなかよしのネコなんだわ。わぁー、それならいよいよ待ちどぉーしいってわけだわ。
(十九世紀生まれのアリスがどうしてミッキーマウスを知っているのかって? それはそうですけれど、ここはなんといっても不思議の国ですし、アリスだって二十世紀にはちゃんとウォルト・ディズニーの世界になかま入りしているのですから、ミッキーマウスのことを知っていてもわるくはないでしょう。)
さて、ひとしきりひとりごとを言うと、アリスはふとまわりの様子を見わたしてみました。するとあまりの様子のかわりようにびっくりしてしまいました。
なんだか光がとっても少なくなってきているようなのです。といって、その分くらさがふえたかというとそうでもない感じがします。いつのまにか夜になったような雰囲気でもありません。けれども、光がないっていうのはやっぱりくらいってことにちがいないわ、とアリスはおもいました。
どうしてこんなにくらいんだろう。そこで「穴」というイメージがアリスの頭のなかにうかびました。もっとも、アリスはチェシャー猫が後にひとり残って言った話をきいていないし、終末猫の意味もとりちがえているので、穴といっても、黙示録にある『深い淵の穴』を連想したはずはありません。それでも、たしかにおそろしいことにちがいなかったのです。
穴のなか、ということは……。アリスはおもわずぞっとしました。心臓が止まってしまいそうなくらいに。全身の血の気がスーッと引いてゆくような気味わるさをおぼえました。今さっき見た穴はチェシャー猫の口でした。「穴のなか」ということは、「口のなか」ということかもしれません。
いつたべられちゃったんだろう。またあたし、あのなみだの池のときみたいにねずみさんといっしょになるのね。でも今度はおなかのなかだわ。おなかのなかのなかなおり――なあんてしゃれてるわけにはいかないわ。なんてったってたべられちゃったんですもの。
それでも半信半疑、ともかく歩き続けようとしましたが、そのうちだんだん歩くことさえむつかしくなっているのに気がつかないわけにゆかなくなりました。光が本当になくなってきていて、自分の手もからだもぼんやりとしか見えないようになってしまっているのです。影はというと、これはもうすっかりなくなっています。といって、暗闇がとりまいてくるといった気配もなく、おかしなことに闇さえぼんやりとあやしくなっているのでしたが。
「やっぱりあたし、たべられたみたい。自分のからだもなくなってゆくようだわ。やだ、おともだちさがしのまえに自分さがしをしなくちゃいけないみたい」
いまにもなみだがこぼれおちそうになりました。
「いっそ、このなみだが池のようにおおきくひろがって、またねずみさんと出会えるきっかけになればいい。そうすればほかにもドードーさんとかオウムさんとかワシのこどもとかと会えるかもしれない」
そうおもってアリスはおもいっきり泣こうとしましたが、よく考えてみると自分のからだがなくなりそうなのに、いまさら誰に出会えるというのでしょう。
「なんていぢわるなチェシャーねこなんだろう。おともだちのあたしまでたべちゃうなんて。ひどいわ。よっぽどおなかがすいていたにしても、おともだちまでたべるなんてあっていいことじゃないわ。ほんとにあのネコ、あたしをだましてたべちゃったのかしら」
まさか本当に自分がねずみとおなじ身の上になるなんて信じられないことではありましたが、でもそうとしかおもえなくなってどうにもかなしみをおさえきれなくなりました。今にもなくなりそうな自分のからだからなみだが不思議なことにとめどなくあふれこぼれそうになりました。
その時アリスははっとおもいなおして自分にこう言いきかせました。
「いけないわ。自分のからだがなくなりそうでも、なみだがあるってことはまだ自分のからだがあるってことなんだから。なみだまでなくしてしまったら、自分のからだもほんとうになくなってしまうかもしれない。なみださん、おねがいだからにげていかないでね。どんなにかなしくったってあたし、がんばるから」
そう言いながら、それは言葉についてもおなじことだとおもいました。
もうしゃべれない――歯をきっとかみしめながら、最後の言葉が口から出るのをくっとおさえて、アリスはそれを深くのみこみました。
それからアリスはなみだがこぼれおちないように上を向いて歩こうとおもいたちました。 ――ひとりぼっちの夜。でもその時、アリスは空に太陽を見つけてびっくりしました。
――やっぱりここはおもてなのかしら。
けれどもその太陽は毛織りの荒布のように黒いのでした。不思議な上に気味わるい光景でしたが、逆にアリスはほっとした気持ちで心が一杯でした。もちろんチェシャー猫が信じられたうれしさもあります。
そうするうち、天が巻物を巻くようにひいてゆくのが見えました。するとおなじように、地面がアリスの足下からするすると動いて、三分の一くらいどこかへ行ってしまったような感じがしました。
どうしてみんなにげてゆくの? ――アリスはそう言いたくてももう言葉を言うことはできないのです。ふたたびとてもかなしい気持ちにつきおとされました。
――なみださん、あなたもきっとにげたいのでしょ、みんなといっしょに。もういいのよ。にげたかったらおにげなさい。あなたたちったら、さっきからにげたくてうずうずしてるみたいなんだもの。もう止めないわ。さあ、おにげなさい。
「なみださん、さよなら」
あれだけおしんでいた言葉も、この時ばかりはなみだの道連れにしてあげました。
下を向いてひとしきりなみだを出してしまうと、そのアリスのかわいた目に、不思議なことになにか新しいものが見えてきたのでした。
「あ、ネコ」
アリスはおもわず叫びました。
4
それがアリスはもうそのなまえをわすれて、とんだかんちがいから土曜日の猫とだけおぼえているかもしれないが――キルケニー猫の一匹だった。それからすぐそのそばに、もう一匹が姿を現わした。もはや天も地もなくなっているので、かれらがどこに現われたかというのは言えないが、まもなく闘争の様相を呈したので、場所を言うとすれば戦場と言うしかなかった。その言葉が此處に場をともにする無垢な少女に似つかわしくないのであれば、天球・地球・子宮上のどこといっても話はおなじである。
そうして其處に闘いが始まった――
それは神の天使たちと悪魔の龍との闘いではなく、相似の二匹の猫の、剥き出しの歯の、捕食を巡る凄まじい劇闘であった。
彼等は共に餓えていた。獲物を仕留めるという手順もなしに真正面に物があれば唯一直線にそれにかぶりつくという美事な餓え方だった。そして、一旦頭に噛みつけば、最早物にした獲物は一刻の猶予も措かず即時その場で一切合財食い盡くす、彼等の精神は初発からそういう胴慾な胃袋に存したというのが適当な具合であった。かるが故に彼等は、互いの頭にかぶりつくことにおいて相討ちとなり、その頭部は忽ちの内に食われ果てても、その儘驀地相手の胃袋まで突き進み、それも一挙に消化し盡くして了ったのであった。
その挙げ句の顛末は、食い千切られた尻尾二本であった。これは到底有り得可からざる事ながら、彼等の餓えに駆り立てられた異常な迄の胴慾さ、総身是胃袋であり牙と化す猛烈な気迫と勢いがこの理の限界を超え破った。そしてこれは、双方共一歩も譲ることなく美事に相討ちし果てた結果なのである。或いはこれを、異常に燃え上がり激した魂同士の真正面からの衝突により終に大爆発を生じたと見て、彼等の肉体の消滅を説き明かしても強ち間違いとは言い切れぬかもしれない。
しかしともあれ、後に二本の尻尾が残った。此處にもし二本の尻尾とも残らなかったとすれば、アリスの身は一体どうなったであろうか。それほど完全な大爆発がアリスの身近く起こったのなら、とてもそのかよわい身が無事に全うできた筈はない。そしてそれでは神の救いはないことになってしまう。此處はキルケニー猫の肉体の消滅というよりも彼等の尻尾の残存にこそ力点がおかれねばならない。同時にそれはアリスの肉体にも希望の徴が宿ることにもなるのであった。
ところでこの二本の尻尾、これがまた怪しい雲行きを生じさせる。胴慾の性とはよくよく恐ろしいもので、この尻尾たちにも受け継がれ、魂を生じている。そして息を吹きかえしたようにまた活動を再開する。即ち、尻尾の夫々がお互いに相手を食い合おうと向かって行く。しかし、噛み付く武器も消化する器官もないから、唯互いが互いを追いかけあう堂々巡りに終始する。追いかけて追いかけて、くっついてもまだ飽くことなく追い求め、まわりまわる。
これが宇宙蛇ウロボロス誕生の経緯である。これは対立宇宙の和解であり、太初への回帰、つまり循環の体系の始動であり、時間の開始である。またこれは、世界を孕み、誕生させる両性具有の親である。
偖て、二本の尻尾はウロボロスとなってからもなおなお激しく回転を続け、あまりの速度と激しさに時として尾の先が離れ、その完全な円環に透き間を生じた瞬間、その遠心力のついた尾の先からどんどん宇宙の卵が飛ばされ、一気に散らばる。それも一刹那で、忽ち尾の先は他の先によって啣えなおされ、再び完全な円環に整う。しかし、また猛烈な回転にいつか尾の先が離れ、宇宙卵を飛ばし、また須臾にして完璧な円に復することを繰りかえす。他方、アリスの身にも變化の兆がある。衣装など総て消し飛んで、身一つ真裸のアリスが其處にいる。だが、かの女は二匹の猫たちとは対照的に微動だにしない。かたまったようにじっとその場に蹲っている。何か孕んでいるが、まだ何一つ生み出してはいない。
一頻り身より宇宙卵を振るい飛ばしてますます身軽になり、回転の速度を増したウロボロスは、全体が完全に一つに連なって、どこから始まりどこに終わるともない円環に仕上がった。どこにも透き間を生じる繋ぎ目も見いだせない。最早宇宙卵を放出することはなくなった。だが今度は、円環の内部の空虚にエネルギーが満ち、膨脹収縮が開始される。それは次第に不規則になり、ある律動に似てくる。――わらいの起こりである。それからウロボロスの輪は其處に残影をおいて下方に降りる。そして其處でもおなじように膨脹収縮を続ける。此處ではかたち自体がもっと不規則に變化して蠕動を起こす。――胃袋の動きにちがいない。其處まで行くと、その二つの円とそれを結ぶ管のまわりに宇宙卵から生み出されたものの一部が回転しながらかたまり、あるまとまった外形をかたちづくる。 ――チェシャー猫が再び姿を現わす。
では、アリスは――
5
アリスは、チェシャー猫のわらうのとは逆にくるしむ様子だった。その様子は頭に見えた。頭は重いようだった。とうとう耐えきれず下に垂れてきた。そして、終に蹲る足元に付いた。脚は頭をかかえこむように伸び、頭は尻に付き、こうしてアリスのからだは球体となった。
しかし、それでもまだ頭は頭であり、尻は尻であった。アリスには口が啣える尻尾、初めと終わりが一致するための錠と鍵の、その一方が缺けていた。
尻尾がない分、アリスは頭と尻の均衡を缺いていた。頭の力は尻を圧倒した。頭は尻がなくした尻尾の力まで秘めているようだった。エネルギーは専ら頭に集中した。ものを生み出すエネルギーも頭に上り詰めた。
だが、頭には出口がなかった。この時、欠伸をして緊張をほぐし、力を雲散させる余裕はアリスにはなかった。エネルギーのながれは滞り、回転による放出は妨げられた。しかし、創造の要請はおおきかった。そしてそれは、エネルギーを閉じ込める障壁となったアリスの頭を突き上げ、そのかたちをかえてしまうことになった。
此處にアリスの頭に一本の角が生じた。角は向かい合ったアリスの尻に穴を穿った。これで出口と入り口が整った。ウロボロスのように終わりを継ぐ初めが相成った。エネルギーは奔流して角から穴へとアリスのからだを循環し、そのなかで様々なものが生み出されていった。まことに、角を生じて龍にかようかたちで、アリスは宇宙蛇ウロボロスに通じた。
6
しかし、遺憾にもアリスはよく天地をまろかしえなかった。逆頭がわざわいして、よくかきなされぬうち知において明からみを生じ、物は著く際立てされ、いちいちにわかたれ、かたちに凝り、閉じた。光まで七色にわけてしまった。身を十分秘めきる間のなかったアリスは龍身にそれを吸収し、そのかげに隠れた。
アリスは、キルケニー猫の大衝突以来盲目だった。そして今も、最早光を生み出しているとはいえ、虹の胴のみ残して頭も尾も秘めてしまったので、本来目も秘められてしまったはずであった。だが、半身において諸物と共存し、物との縁に一部を繋がれてしまったアリスは、その虹の穹窿形のからだ自体、半分開いた目であり、そのまんなかに睛があることを知った。
7
それはまなざしをなげかける目だった。それは存在に対して超越的なまなざしだった。十分超越的であるためには、半分しか開いていない目でよいわけはない。アリスは目の全体を回復しようとした。そのために龍のからだを持ち上げにかかった。
が、持ち上げたつもりのからだは下半分なにも見えなかった。頭も尾も現われてこなかった。虹のからだだけ宙に浮いて、後は全くきえていた。
一旦秘めたものはもう二度と現われない。もしそれが現われるなら、今現われているものは総てきえるほかない。
アリスはやむなく虹の半円で途切れている両端を自力で延長し、それで目の円環をかたちづくろうとした。最早本来の頭を失い、その両目もともども取り戻しえなくなった以上、どうしてもこの目を完全にものにしないわけにいかなかった。それは慥かにその部分は無理に繋ぎ繋ぎした物で、本来的ななめらかさを缺いていたが、しかしかりにも目という以上、半分缺けたものをして良しとはできない。そしてアリスはこの作業を完成に近づけた。
虹でとりかこむ部分がだんだん円に近づけば近づく程、内部の空は諸物の光を一心に集めて艶やかにかがやきを増し、アリス自身もどんどん明晰になるおもいがした。そうなれば愈缺けるところなく円い目が完成することが期待された。目が完全に円くなる時、世界の総てがその目のなかに捕らえられる。大円鏡智のごとき完璧の叡知と至高存在としての栄光の得られることが恰も当然の帰結であるかのようだ。そのように、目のかたちが次第に全きものに仕上げられてゆくにつれてその明澄さは弥増しに増す。
愈待たれるその時が近づいてきた。当初の虹の半円形は、ちょうど孤高の山が湖水によってその気高い稜線を倒にうつしかえされたように、綺麗な半円の弧がその下部に纔かの途切れを残して描き出されていた。そして今、虹の優弧の美しい両端は同一軌道を互いに逆の方から着実に歩みを刻んで、その出会いはもう目睫に迫ろうとしている。まさに開眼の瞬間である。
慥かに目ほど魂を顕すものはない。木や鋳物の象りも目が開くことによって仏の魂が吹き込まれるのだ。しかし、不生不滅不垢不浄こそ仏の魂ならば、目が一つ開くことでそこに現ずる魂というのも底が知れる。開いたものは閉ぢるものであり、開くことも閉ぢることもおなじ仏の心であろう。したがって、目はいつかはくもり、いつかはわれる鏡であって、決して永遠の真理を映し出す常住不變の鏡ではない。目は開いた時からくもりを生み、われ罅を生じているのだ。況して空に架けて継ぎ足しした目が金剛不壊の宝鏡となる筈がない。
まさしくそのとおりだった。虹の切り離された二つの端の出会いは須らく果たされ、美事に円く目のかたちは整って世界の統一、真理の顕現茲に遂げられたかに見えたが、その自己完結の栄えある瞬間にきらめいた閃光こそ、目の天地を走る亀裂の稲妻なのであった。
そのようにアリスの目、いやアリス自身は、忽ちに二つにわかれてしまった。――もうアリスは存在せず、存在するのは血に染まった赤い(アードム・)土のアダムとリリス、男と女という二体の人間にほかならない。
8
此處に分裂して相成った二体は共々存在の抑もから自身のうちに缺如をかかえこんだ。夫々再結合を欲したが、亀裂の稲妻が鋭く二体を切り裂いていたので、お互いが完全に接合することはその鋭利な切り口のゆえに困難を極めた。
ところで、二体のうち一方にはアリスの性が受け継がれていた。すなわち産む性である。産む性には穴がなければならず、穴とは缺如そのものであれば、リリスがかかえこんだ缺如の一部はそのまま穴になりかわった。そうしてリリスはイヴにかわった。
リリスがイヴになっても、女と男は結合の虚しい試みを繰りかえした。唯イヴの場合、結合は部分的には成功した(といってもごくかぎられた部分ではあったが)。それはイヴの穴がアダムの缺如を吸収したからである。
こうした愛撫――アダムとイヴの一体感の回復は、あの失われた目をかれらにとりもどさせた。(成女は目らを喚起する。)かれらは目を開き、善悪を知る分別を身につけた。睛の果実はその証據である。しかし、それはまた缺如の認識と回復への慾望とを弥が上にも高めるだけだった。しかも、二人の果たし得た結合は一時的部分的なものにすぎず、目自体が極めて矮小なものであったから、当然その目に世界を納めることもかなわなかった。そのかわり、かれらにとっては当面の全体性を約束するもの――失われたかたわれ――互いの像――がその林檎のなかに納められた。こうして、目と目のまぐわい、かたみに相手の目に宿る自分の像をおのが目でとらえひきこむこと、つまり愛撫そして結合の意味がまず目によってとらえられることになった。
が同時に、その目の分別は、相手の目が示すおのが像は他者によって引き裂かれた自分のかたわれであることもおのれに認識させる。その認識がつくる距離感は愛撫もよそよそしいものにしてしまう。更にそうしたおのれの像は、まぐわいを交わす相手ならぬ一般他者においても、そのまなざしのなかにとらえられてしまっているのだ。こうして、多くの他人の目によって自分の像は分裂される。今更目を瞑っても、目の奥に焼き付いたその認識はきえない。その間にも他人の目によるまなざしを受けて自分の像はどんどん分裂される。一方瞼をおろせば、自分の目に宿る相手の像――もとのかたわれであろうと期待する相手――を失う。
まぐわいはかなわない。もう目を閉じても、虚しいだけだ。縱えおのれがまぐわいにおいて、そして他の無数のまなざしによってどんどん断ち裁かれ、おのが像が諸處に鏤められるにしても、われわれは唯分別の林檎の苦い味に耐えてそれを自分で消化してゆくしかない。
9
――鏡と性交は、人間の数をふやすがゆえに忌まわしいものだ
(ボルヘス「トレーン、ウクバル、オルビス・テルティウス」)
アリスの鏡はわれた。
われて、われつづけ、われわれの時代には増殖した鏡の破片で溢れている。われわれの眼窩にあるのはアリスの鏡の末裔である。そして、われわれはまぐわいをもって更に新しい破片を産み殖やす。無数に分裂した鏡の破片は宇宙をも増殖させる。忌まわしくも宇宙は破片の網目に絡めとられながらその目の一つになるであろう。
どのようにしてわれわれはわれわれの宇宙から網目の呪縛を解くことができるであろうか。