一月の出来事・⑤
二人をその部屋に残して、六人は廊下を戻り始めた。
真冬の季節風がまともに吹きつける外に比べたら暖かいが、エコなどという言葉をドコへほったらかしにしたかというぐらいに、暖房が入っていた先程の部屋から出ると、さすがに肌寒かった。
「ちょ、ちょっと」
「こうしてると暖かいじゃん。ん? それとも、なにか問題でも?」
恵美子に腕を組まれて由美子は目を白黒させた。同じ女同士だからこそ、うらやましさを感じる柔らかい膨らみが服越しに彼女の肌を圧してきた。
「それとも王子は男の子の誰かとの方がいい?」
「馬鹿言わないでよ」
おねだりするような表情で訊ねられて、脊髄反射で答えてしまった。しかし恵美子はその程度で止まらなかった。
「やっぱり、郷見くんの方がいい?」
「コジロー」
そこでなぜ天敵である男子の名前が出てくるのかと言いたげに、由美子が同級生を睨み付けていると、前を行くノブヨが由彦の右腕に抱きついた。
「じゃあイインチョはあたしと腕を…」
「なんで組まなければならん」
ふいっと上から自分の右腕を抜き去り、歩を速めてしまった。
「あ、ちぇ。じゃあ、キミはいかが?」
ちょうど反対側にいた正美に、臆面もなく訊いた。
「え? え?」
さすがに『学園のマドンナ』ほどではないが、ノブヨだってそこそこイけている顔の造作をしていた。しかも体育会系のノリで印象も明るいし、いきなり恋人になんていう高望みをしなくても、話をしていて楽しそうだった。
それに思春期の男子が、年頃の女子に腕を組まないと誘われたら、十中八九ドギマギするわけで…。
年齢=彼女いない歴の正美が鼻の下を伸ばしたとして、誰が責められようというのだろうか。
「権藤くん」
「は、はい!」
背後から聞こえてきた声に、正美は背筋を伸ばした。
恐る恐る振り返ると、最後尾を腕を組みながら歩いている二人の内、背の高い方からドス黒いオーラが立ちのぼっているのが見えた気がした。
「やだなあエミコちゃん。他校の生徒に手を出すほど男に飢えてなんていないからぁ」
明るく助け船を出したノブヨであったが、その声も大分背中に冷や汗をかいた声であった。
「交流会といっても、節度が必要よね」
地獄の底で氷漬けになっているというサタンすら裸足で逃げ出すような声であった。
「は、はは」
訳の分からない様子で、正美は乾いた笑いを漏らすしかなかった。
「ふん」
それを詰まらなそうに見ていた空楽は鼻を一つ鳴らすと、廊下の天窓越しに、真っ青な空を見上げた。
「どうした?」
そんな恋のさや当てのような事が、自分の背後で起きているとは判っていないのか、由彦が素っ頓狂な声を上げた。
「?」
どうやらこちらに向けて問いかけたわけでは無さそうだ。見れば本校舎に入ったすぐの教科教室の入口で、白い制服姿の色男が、扉に設けられた窓から室内を心配そうな顔で覗き込んでいるようであった。
誰かと思えば、さきほど渡り廊下ですれ違った化学部部長の三浦康介であった。
「ああ野原か」
振り返ったその顔は真っ白と言っていいほど青ざめており、頬の端が神経質にピクピクと痙攣していた。何事か、やっかい事が起きたようだ。
「ミヤオの様子が変なんだ」
「柳田くんが?」
訝しげに眉を顰めた由彦に、ブ厚い防音らしいドアにある覗き窓を譲った。
内部は隔離実験ができるような大学の生化学実験室と同じようなガラス張りの実験施設が並んでいる部屋であった。
最初、恋人同士で痴話ゲンカでもして、そこに閉じこもっている程度だろうと覗いてみると、そうではなかった。
ビニールの床に倒れた二本の足だけが見えた。爪先が上で、履いた上履きには『柳田美也緒』と彼女の名前がしっかり書いてあった。残念ながら脛より上は、窓の影になってしまって伺うことはできなかった。
その足はピクリとも動かなかった。この寒い冬に床へ直に寝ているのであれば、風邪をひいてしまうのではないだろうか。
「柳田くん。風邪をひくぞ」
由彦がレバー式のドアノブを掴んだ。ガキンと金属音がして全く動かない。
「カギは?」
康介を振り返ると、彼は肩をすくめて扉の向こうを指差した。
「?」
もう一回覗くと、大きめのキープレートのつけられたカギが、美也緒の足近くに転がっているのが見えた。
「他に無いのか?」
「隔離実験室のカギは、いつも事務室で借りているんだ。事務所に聞けば予備があるかもしれない」
「急いだ方がいいな」
しばし姿を消していた空楽が、二人の間に首を突っ込んだ。
「なぜだい?」
「彼女の容体が気になる」
そう言って空楽は廊下の一方を親指で指差した。指が向いた先には同じドアがあり、今は正美がそこから室内を覗き込んでいた。同じ部屋の反対側の入口である。
「ようたい?」
由彦の質問へ見れば判るとばかりに、空楽はそちらの方のドアに由彦を連れて行った。
窓からは室内が見えた。
その部屋には窓が一切設けられていなかった。廊下側にあたる手前の様子は、やはり扉の影になって見えないが、部屋の反対側はよく見えた。壁に沿って実験机が設えてあり、肘をかける程度の余裕を残して、その天板へガラスの壁がおりてきていた。
ガラス壁には適当な間隔で、円いゴム製の蓋が填められた作業孔が二つずつ用意されていた。その穴から手だけを入れてガラス壁の向こうで実験することにより、実験者がマスクや防塵服など特殊な服を身につけなくても、クリーンな条件で実験器具を操作できるという寸法だ。ガラス壁の向こうには当然、試験管やシャーレなど、化学研究と聞いて連想できる物が揃っていた。
これだけの設備があれば大気中の雑菌などが混入することや、逆に大気中に拡散するとやっかいな薬品などから実験者を守ることができる。
大学の生化学研究所なみの実験施設だが、この学校の生徒である由彦には、別段不思議な景色ではない。
シャーレを使って簡単なカビのコロニー作成など、化学部の部員だけでなく、一般生徒も授業で少しは使う機会があるのだ。
「?」
「よく見ろ」
空楽にうながされて、もう一度室内を覗き込んだ。
「左だ」
空楽の言葉通りに視線を動かしていった。
「下側のガラス」
「?」
「何かが反射して映っているだろう」
「!」
輪郭などはっきりと映っていなかったが、床に誰かが倒れており、しかも頭部と思わしきあたりには真っ赤な水たまりができているように見えた。その量は尋常ではなく、室内はただならぬ状況になっていると思われた。
「三浦! はやくカギを取ってくるんだ!」
「だからカギは部屋の中で…」
「事務室にあるかもしれないんだろ! はやく!」
「あ、う、わ、わかった」
康介が廊下を駆け出したのを見送ると、由彦は空楽と正美を見おろした。
「もしかしたら体当たりで壊せるかもしれない」
「やってみよう」
「え、コレを…」
乗り気な空楽の横で正美が怯んだ声を出した。なにしろ学校の教室に使ってある扉というより、軍艦の弾薬庫に使用しているような印象のドアなのだ。隔離実験に使用しているヤバイ細菌などが、たとえガラス壁の向こうから漏れ出したとしても、この扉で室内に食い止めて、校内に広まらないための処置だ。たかが高校によく設置したものである。これも科学教育重点校の指定のおかげであろうか。
もちろんそんな頑丈そうなドアであるから、高校生が三人がかりで体当たりしても、ビクともしなかった。
「やっぱりスリッパじゃダメだ」
「履き替えよう」
渡り廊下への出口はすぐそこである。パタパタと足音を立てて三人は下駄箱に飛びついた。
「そうだ!」
男子三人が苦労している後ろでノブヨが声を上げた。
「シマコさん!」
「?」
「シマコさんなら合いカギ持ってるんじゃないかな」
その声の音節が鼓膜に届いた瞬間に、由美子は恵美子を振り切って、後ろも見ずに走り出した。彼女は足が少々不自由だがまったく走れないという程ではない。ビッコをひいた格好が悪い姿だし、速さだって幼児よりはマシという速度ながらも、一番最初に反応したことで、後から走り出したノブヨなんかよりも早く、先程の部屋に戻ることができた。そのまま緊急事態なのでノックも省略してバーンと飛び込んだ。
「○▲◆×??!!」
部屋の中央では、縞子と日登美が正面から抱きしめあっていた。
動揺した由美子が解読不能の悲鳴のような物を上げて、慌ててソッポを向いた。
その間にノブヨも駆け込んできた。
「シマコさん!」
「どうしたんだね」
妙に落ち着いた声に振り向いてみれば、ちょうど縞子の腰が車椅子に下ろされるところだった。たしかに片足の無い縞子を、座っていた場所から車椅子へ安全に移すには、前から抱きしめるようにして支えてやるのが、もっとも効率がよくて力が込めやすい方法であろう。
どうやら由美子の早合点であったようである。
しかし、それにしては背中の曲がった日登美の首へ、腕をまわした縞子の表情は、まるで想い人に抱きしめられている麗人のように艶っぽかった。
その女性を感じさせる表情が、彼女の網膜に焼き付いてしまったかのように離れなかった。
「なんかヤバい! 隔離実験室でミヤオ先輩が倒れているらしくて!」
「ほほう」
現状を知らない縞子は余裕たっぷりだった。
「はやく助けてやるといい。彼女も、まあ色々大変そうだからな」
「それがカギが開かなくて」
「かぎ?」
「そう! カギ!」
「ふむ」
縞子は、車椅子のハンドルを握った日登美と顔を見合わせた。
「合いカギならココにあるが」
そう言って制服のスカートに提げたカラビナを外した。そこには大小様々なカギが鈴なりにかけられていた。
ジャラジャラと音をさせながら顔の前に上げ、そのうち一本を摘み上げた。
「これだな」
「貸して」
返事を待たずにノブヨがそのカギを掴んだ。カラビナから外していないので、全部が縞子の手の中から持って行かれてしまった。カギを手に入れたノブヨは、もと来た方向へ飛び出した。
「我々も行こうか」
縞子が声をかけると、後ろでハンドルを握っている日登美が車椅子を押し始めた。由美子は二人が通り易いように扉を押さえてやった。
「ああ、施錠は無理か」
由美子の手で閉められた扉を振り返って縞子が残念そうに言った。
「カギ束を持って行かれてしまったからね」
言い訳のように言うと、前をむき直した。それを合図に、日登美が早足程度の速度で車椅子を押し始めた。
三人が隔離実験室の前に着くと、ちょうどノブヨが解錠に成功したところらしい。力一杯に彼女が扉を押し開けたところだった。
「入るな!」
全員が振り返るほどの怒鳴り声を縞子は発した。だが、その忠告は少し遅く、廊下で解錠を待っていた五人全員が二、三歩室内に踏み込んでしまった。
「!?」
室内を確認した恵美子とノブヨが口に手を当てて悲鳴を押し殺し、由彦と正美はその場で棒立ちになった。
五人の足元に美也緒が横たわっていた。手足は弛緩して投げ出したように伸ばされており、瞼は半開きで、意思のないまま天井を見上げていた。
その不気味な無表情を見せている顔のすぐ脇には、試験管などの実験器具を机上で固定するためによく使用される、卓上用のクランプがついたスタンドが転がっていた。
しかしそんな細部を確認している者はいなかった。手入れが行き届いていない彼女のショートカットは左側だけ特に乱されており、そこには醜い傷が口を開いていたからだ。
傷から床へ冗談のように血と体液、そして脳漿の一部と思われる透明な体液までもが漏れ出していた。
ほとんどの者が初めて経験する『出来たての死体』がそこにあった。高校生たちがその衝撃で硬直しても仕方のないことだった。