一月の出来事・④
慌ただしく食事と着替えをコンビニで済ませたワンボックスは、再び街路を走り出した。
幼稚園の角で裏道に入ると、すぐに角を曲がって曲がって、信号のある交差点に出た。
そこを右折すると、今来た道の反対車線となる。
車は道に出たすぐで左に寄せて止まる。そこは屋根のある立派なバス停の手前であった。
バス停名はズバリ『白膏学苑前』であった。
しかし周囲には、それらしい建物が一切見えなかった。
「そこのマンションの角を入ると、白膏学苑の正門となります」
わざわざ運転席から振り返って、岩田がバス停の向こうに見える交差点、大規模マンションと市営住宅の間の道を指差した。
「判ったわ、ありがとう。ここで充分よ」
由美子のねぎらいの言葉に、わずかだが頭を下げてこたえた。
「私はこの後別の用件がございますので、この場所に留まっておられませんが、お車が必要でございますか?」
「いいえ」
即断即決は図書委員会で鍛えられて身についた。
「大丈夫よ」
「何かありましたら、昼夜時間問わずいつでも、いつもの連絡先にお願いいたします」
「成田さんは、いつまでコッチにいるの?」
「成田は一週間ほど滞在の予定でございます」
「わかったわ。運転、ありがとうね」
由美子の合図で空楽がスライドドアを開いた。
やはり寒風が車内に飛び込んできた。首をすくめて先に降りた空楽が、由美子の荷物へ手を伸ばし、正美が降りながら自分の荷物と、恵美子の荷物を肩にかけた。
バス停の所でガードレールが切れているので、男子二人は先にそちらへ歩き出した。
由美子が降りるのを待っていた恵美子が、一秒を惜しんでスライドドアを閉めた。
ワンボックスは、四人が歩道に上がるのを確認してから発車した。
マンションと市営住宅の間に、幅が狭目の道が通じていた。その突き当たりに鉄製の門が存在した。
門柱に鋳造製らしい銘板が掲げられていた。間違いなく白膏学苑とある。
白膏学苑は、北九州市門司区に存在する私立の総合進学校である。
いま由美子たちが着いたのは、正確に言うと『白膏学苑中学高等学校』となる。
他に、敷地は福岡県内に点在しており一カ所に固まっていないが、幼稚園と小学校が複数存在し、同じ学校法人が運営していた。
白膏学苑の正門から左右は、腰程の高さのレンガ壁とそこに植えられた槍のような鉄柵を組み合わせたフェンスが、周囲と敷地を隔てていた。
時計を確認すると、待ち合わせまで少々速い時間であるようだ。約束した出迎えと思われる物も含めて、人影は周囲に存在しなかった。
午後は授業が無いはずなので、一般生徒はすでに下校したのか、校舎内や体育館などで部活動を行っているのだろう。
正門脇にある警備員の詰所まで、由美子を先頭にして近づいて行くと、壮年の警備員は彼女を見て不思議そうな顔になった。
「こちらの図書委員会から交歓会で呼ばれました、東京は清隆学園の藤原です」
「ああ」
由美子の名乗りを聞いて、最初は訝しげな顔になった警備員は、あからさまに安心した様子になった。
「遠いトコちゃ、く来よるね。ワイは生徒ん顔ば、だいたい憶えたっち思っちい、不思議に思ったちゃね。また知らんたい人の制服着ていて、ワイもまだ全部憶えやないんかっち、不安になったけん」
方言を隠そうとしないほど警備員は人好きする態度に変わって内線電話を取り、どこかへ連絡しながら訝しげな態度をとった種明かしをしてくれた。
由美子はハーフコートのボタンをキッチリと留めていなかったので、合わせ目から白膏学苑の制服が見え隠れしていたのだ。コートも下半身全部を覆っているわけではないので、白いプリーツスカートを履いていることも丸わかりだったはずだ。
「いま図書館に電話したばい、しゅぐ迎えの来るちゃ」
正門から校舎まではささやかな車寄せが設けてあった。とうぜん正面から迎えが来ると待っていると、小さな交番のような建物である警備員詰所の裏から、ひょっこり白学ランにマフラーを捲いただけの少年が現れた。
「やあ、お待たせ」
今どき新卒のサラリーマンですらしていないだろう七三分けをして、とても爽やかそうな笑顔で、身長差から一同を見おろしてきた。
「今日は遠いところを来ていただき、誠にありがとうございます」
声と顔から、ノートパソコン越しに紹介された人物、白膏学苑図書委員会委員長の野原由彦だということが判った。
それにしても高身長である。いま居る清隆学園側の人間で一番体格のいい空楽でさえ見上げるような高さだ。二メートルに届いているかもしれない。太さの方は少年として普通程度の肉付きのため、白い制服と相俟って、よけいに視覚効果で高く見えた。礼儀正しい物腰に、健康そうな体という美丈夫であるから、けっこう彼に入れあげている女子は多いのではないだろうかと、簡単に推察された。
「本日はお招きいただきありがとうございます」
由美子が軽く会釈を返した。
「二人、と聞いていたのだけど…」
由彦の目線が四人の間を彷徨った。
「勝手に着いて来てしまって。すいません」
由美子が彼に説明していると、高めの周波数を持った声がどこからかした。
「やあ、ひさしぶり」
由彦の背中に隠れていたかのように、普通の身長をした少女が出てきた。別に他意は無いのだろう、大柄な彼が前に立ってしまうと、普通の女子なら見えなくなってしまうはずだ。
「あ、ノブヨちゃーん」
恵美子が年相応の気軽な声を上げて両手を胸の高さに上げた。
「エミコちゃーん」
ノブヨと呼ばれた方も手を出してきて、二人は親交が篤い証拠に両手の指を絡ませた。
「ふんぬ!」
「せいや!」
そのままレスラーのように力比べが始まったのが普通ではなかった。
「連絡してくれてありがとう」
語尾にハートマークがてんこ盛りでついているような明るい声でノブヨ。
「いやん。だって私とノブヨちゃんの仲じゃない」
こちらも語尾にハートマークがついているような明るさの恵美子。
しかし二人の上腕二頭筋が締められて発するギリギリという音がBGMでは、その明るさも台無しであった。
「武者修行に来たゾ」
「返り討ちにしちゃうんだからネ」
「「やめんか」」
双方ほぼ同時に、それぞれの図書委員長が、それぞれの学友の後頭部へツッコミを入れてやめさせた。
「こ、コジロー?」
あまりの衝撃的な挨拶に、頬骨から銀縁眼鏡を落っこどしかけた正美がキョトンとしたまま訊いた。
「こちらは?」
「紹介するね」
身長差から少々見おろし気味に、恵美子は力比べをした相手を振り返った。
「白膏学苑剣道部の本山さん。いつも大会の上の方でぶつかる強敵よ。この前の全国高校選抜大会でも、会場で一緒になったの」
「本山ノブヨです。よろしくお願いします」
今度は真面目に体の前で手を組むと、丁寧に頭を下げた。
「コジローの強敵…」
清隆側の人間が絶句する。なにせここに居る全員が、恵美子の実力は知っていた。そんな彼女に強敵と言わせるとは、この少女はどれほどの実力者なのか想像できた。
「なるほど、強敵と書いて『とも』と読むパターンだな」
泰然と腕組みをした空楽が、仲良さそうな二人の様子を観察してつぶやいた。
ノブヨと紹介された少女は、背格好では由美子とそんなに変わらないシルエットをしていた。生来の物かあちこち癖毛になっている髪は、肩を少し越した程度の長さにしていた。どうやら普通の方法では癖が隠しきれないと見えて、髪が房ごとにピンピンとアチコチに向けて跳ねていた。
また寒さ対策のため由美子と同じように、白いセーラー服に黒いカーディガンを重ね着していたが、迎えに来ただけの気安さか、コート類は身につけていなかった。
「そりゃあ全国大会で優勝なんてしないんだから、どこかで負けているんだろうけど…」
唖然とした声を漏らしているのは、運動神経が活躍する生活とは縁が薄い正美であった。
「で?」
親しげに時候の挨拶をしていたノブヨが、空楽と正美を見比べた。
吊り目がちな瞳が、好奇心でキラキラと輝いていた。
「どっちが郷見くん?」
「残念でした」
鬼の首を取ったように恵美子が微笑んだ。
「今日は郷見くん来てません。こちらが権藤くん。こっちが不破くん」
「なんだ、シマコさんの彼氏が来るってんで、ウチの図書館じゃ話題になっているのにぃ」
「話題になっているのは君たち『常連』の間だけだ」
図書委員長である由彦が眉を顰めた声を出した。釘を差されたノブヨは明後日の方向を向いて口笛を吹くマネをして誤魔化そうとしていた。常識的な図書委員長に、非常識な常連たち。どこも事情は同じようである。
「藤原委員長に出席していただく会議にはまだ時間があります。その間、我らが図書館を案内いたしましょう」
毎度のことで慣れているのか、ノブヨをほったらかしにして由彦が提案してきた。
「はい。よろしくお願いします」
本好きが高じて図書委員に所属した由美子である。他校の図書施設に興味が沸かないわけがない。
白膏学苑の正面は、先程紹介したように車寄せになっていた。地面は味も素っ気もないコンクリートで固められていた。その車寄せの出入口を狭めるように建っている警備員詰所から脇には、少々広めの植え込みが設けてあった。
校舎の長手方向に沿うように伸びる小さな丘のような場所である。公園や散策路として物足りなく感じるのは、敷地内に雑木林がある清隆学園の視点から見るからであって、充分に自然を感じさせる存在となっているようだ。
さすがに冬のこの時期、下生えは枯れ果てており、植えられてからの年月を誇示するように幹へ苔を纏ったイチョウの木が不規則に並んでいた。
丘には東西に延びる本校舎に沿うように、わざとくねらせた短い遊歩道が設けられていた。
イチョウの間を縫うように歩を進めると、その先に厳つい二階建ての建物が、落葉した枝の間から見えてきた。
「あれが本校の図書館です」
確実に見える距離になってから、先に立つ由彦は建物を指差してから半分振り返り、教えてくれた。
「まるで鹿鳴館だな」
「それを言うなら迎賓館でしょ」
腕組みをして感心した声を漏らした空楽に、正美が横からツッコミを入れた。
白膏学苑図書館は、東京赤坂にある迎賓館と同じネオ・バロック様式の荘厳な建物であったが、その規模は迎賓館と比べてはいけないほどに小さい物だった。厳つい外壁を考慮せず、体積だけで考えるなら大きめの建て売り一戸住宅程度しかなさそうだ。
「やはり名のある建築家の手によるものですか?」
美術部に所属しているせいか造形物一般にも興味がある正美が訊ねると、由彦はすでに答えを用意してあったのか、すぐに説明してくれた。
「正面入口脇に填められた銘板によると、赤坂迎賓館を設計された片山東態先生の、お弟子さんのお弟子さん。つまり孫弟子となる左村井頂角先生が設計されたようです」
「へー」
正美が感心した声を漏らしていると、由彦は半分だけ本校舎を振り返った。
「校舎も左村井先生の設計だったのですが、福岡空襲の時に破壊されてしまったそうです。いまの校舎は、昭和四十年代に、残されていた基礎を利用して建て替えられた物だそうです」
振り返れば高度成長期の画一的かつ無愛想な鉄筋コンクリート五階建ての本校舎が目に入ってくる。建築当時から見て基準が厳しく変更されたためであろう、耐震強度を上げるために外骨格のように見える鉄骨の構造物で補強がなされていた。
「図書館の方は耐震補強されていないみたいだけど」
「校舎は外から支える構造で工事されたのですけど、図書館は外観を考えて中から補強したみたいですよ」
図書館は白膏学苑の敷地から飛び出している形になっているのか、両脇は集合住宅の背中に挟まれていた。敷地を囲んでいる腰までのレンガと鉄柵の組み合わせの塀もそこの所だけ切れていた。
本校舎と図書館の間はコンクリートの三和土が敷いてあり、申し訳程度にスノコが並べてあった。いちおう上履きでの利用を考えてのことだろうが、これでは靴に履き替えてからの方がよさそうだ。
図書館一階には外の明かりを取り込むためか、方角的には北に当たるこちら側に大きめの窓が設えてあった。
この町は南側に山なみが伸び、北側は関門海峡が迫っているという土地にあった。よって採光などを考えると常識とは反対に北側に窓を設けなければならないようだ。
実際に白膏学苑では、校庭は校舎の向こう側に広がっていた。
その細長い平地にJR鹿児島本線や、国道三号線とそのバイパスの国道一九九号線、市街地を挟んで高速道路が東西方向に併走しているのだから、町の発展もそれに沿った形で伸びるのが主流である。
しかし、やはり北向きの窓というのは採光に限界があるようだ。さらに真北には本校舎が建っているため、直射日光が差し込むことは一年を通して無さそうだった。
だが、それでいいのかもしれない。太陽光に含まれる紫外線は蔵書類に優しくないのだ。
大きな窓越しからは館内が窺うことができ、向かって右側は普通の図書館風に本棚が並んでいた。一般書架であろう。土曜日の放課後という条件なので、本を探していると思われる複数の人影が窓越しに確認できた。
反対の左側には座りごこちがよさそうなソファがいくつも並べてあった。そこに座っている利用者のほとんどが雑誌を手に取っていることから、読書コーナーとして利用されているのだろう。
正面には小さな風除室ごしに年季の入った木製のカウンターが見えた。今そこから一人の女子が丁度出てきたところだ。
その女子はノブヨと同じように白セーラーに黒いカーディガンを重ね、足元は黒いストッキングで覆っていた。外の冷気に首をすくめ、借りた本なのか大きなの図版のような草色の冊子を胸の前に両手で抱えていた。
そのまま由美子たち一行を目に入れると、あからさまにギョッとした態度を取った。
元々ココの生徒である由彦やノブヨは当たり前として、由美子もコートを重ねているとはいえ白セーラー姿であった。しかし他の三人は、上を着ているとはいえ清隆学園の制服が基本なのだ。画一化された世界に入り込んできた異物と捉えられても仕方のないことだろう。
その娘は、長い黒髪をワンレン風に顔に垂らしていた。半分以上髪の毛で隠された顔面は驚きのあまりか強ばっていた。
顔面には、会社勤めのオールドミスがようやっと寿退社して、5歳と3歳の息子の子育て真っ最中という風情をした赤色の円いフレーム眼鏡がかけられており、その向こうで赤みがかった茶色の瞳が、怯えているかのように視線を彷徨わせていた。
その女子は防御本能が為せるわざか、身を二つに折るようにして屈むと、六人の脇を小走りに抜けようとした。
「!?」
「あ、ゴメン」
脇を駆け抜けようかという瞬間、ついその女子が着ていた制服の裾を掴んで止めてしまった由美子は、自分でもそうした理由が分からずに、あわてて言い訳のように謝罪の言葉を口にしながら手を離した。
一回だけ身を固くしたその女子は、一言も発せずに頭を下げると、後ろも見ずに本校舎へ走り込んでいった。
「どうしたの? 王子?」
名残惜しそうにその背中を見送っていた由美子に、恵美子が不思議そうに訊いた。
「えっと…」
「郷見くんに対抗して、王子もコッチで彼女を作るつもり?」
それが当たり前のように訊かれて、由美子の両肩が落ちた。
「え…。そういう人なの?」
ノブヨが一歩下がった。
「そンな趣味は持ち合わせていませんっ」
脊髄反射で牙を剥いてしまった。
「別に女の子同士で恋をしてもいいと思うけど」
これは正美。
「安心しろ正美。ヤツは男だ」
と、みんなに聞こえる音量で正美に囁くフリをする空楽の爪先へ、誰かの踵がめり込んだ。
「バカは置いておいて構いませンから」
不安そうに見てくる由彦へ笑顔を返して、由美子は歩を進めた。
「それにしても、女の子多いね」
恵美子がすれ違った女子から前に視線を戻して言った。窓越しに確認できる図書館の利用者たちも、ほとんどが女子生徒である。
「うちは元々女子高だったらしいんです。それが高度成長期に男子も受け入れるようになって、現在に至るとか」
由彦がその疑問に答えてくれた。
「それでもやはり元女子高という伝統のためか、女子生徒の割合が多い方ですね」
「ふーん、そうなんだ」
ちなみに清隆学園の男女比は、ほぼ同数であった。
図書館のごつい枠のガラス扉に挟まれた風除室には、傘立てと足ふきマットが敷いてあって、この建物の特殊な立地を物語っていた。
重そうな見た目とは裏腹に、軽く片手で開いたガラス扉をくぐれば館内である。一行が纏っていた冬の冷気を洗い落とすかのように暖かい空気が吹きつけた。
外から覗いたとおり、右手が開架、左手が読書スペースであった。そして正面には長尺物のビニール床を挟んで木製カウンターが鎮座していた。そこにはノートパソコン越しに挨拶したことがある書記の猿渡美智が席に着いていた。
私語禁止が当然の環境であるから、ふわふわした笑顔のままで頭だけ下げて挨拶をしてきた。清隆学園の一同も会釈を返した。
慣れている様子で由彦は美智に右手だけ上げて挨拶すると、一行を手振りだけでカウンター内部へ誘導した。内部は六畳ほどの広さがあり、右手にエレベータ、左手には階段が備わっていた。
由彦は自然な動作で階段を登ろうとし、思いとどまってUターンをしてエレベータのボタンを押し込んだ。ケージは一階にあったと見えて、すぐに扉が開いた。
エレベータ自体はごく小さな規模で、清隆学園の四人が荷物と一緒に乗ると、それで一杯だった。
「あ」
白膏学苑の者が乗り込めるように詰めようとしたが、由彦はウインクとともに手だけ伸ばし、操作盤のボタンを押して扉を閉めてしまった。
ゆっくりとした動作でケージが上昇して行く。エレベータ自体はとても新しい物のようだ。もしかしたら耐震補強の時に入れ替えたのかもしれない。
すぐに上の階に到着して扉が開かれた。外から見て二階建てであったので、乗っている時間はそれに見合って短い物だった。
ケージから降りるとすぐに、エレベータと向かい合った木製ドアが開いて、由彦とノブヨが入って来た。二人の肩越しに扉の向こうが見えて、そこが階段室と判った。
扉がちゃんと閉まったのを確認してから、由彦は四人に振り返った。
「ようこそ。白膏学苑図書委員会へ」
北側にテラスを具えたその部屋には、由美子たち清隆学園の者たちにもお馴染みの道具が揃っている部屋であった。
階段への扉の前には小さなカウンターがあり、その脇に置かれた事務机には色々な書類が整理されていた。
部屋の真ん中に陣取っているのは巨大な木製のテーブルであった。その見事な大きさといったら、正美ぐらいの体格ならば上で相撲が取れそうなほどであった。テーブルの上には蔵書整理の時に色々と便利に使える文房具類が纏められていた。
壁際の書類棚や掲示板に挟まれた設置型の温風器が室内を程よく暖めており、脇にはちょっとしたお茶が煎れられる流しまで揃っていた。
まさに白膏学苑図書委員会の活動において拠点となる部屋であろうと思われる部屋だった。
「へー」
恵美子が感心した声を漏らしながら室内を見まわした。
「ほう」
床に荷物をおろして身軽になった空楽が、掲示板に張り出されている広告を覗き込みながら感心した声を漏らした。
「これで閉架があれば、ウチと同じだね」
木製テーブルの上に、二人分の荷物を降ろした正美も、周辺を見まわして言った。
「閉架はこっちの扉になります」
由彦がエレベータ脇の扉を押し開いた。途端に向こうの部屋の冷気が流れ込んできた。
そこは窓に厚手のカーテンをかけて暗くした室内に、見上げるような書架が整然と並んでいた。由彦はわざわざ手を伸ばして、壁に設置されているスイッチを入れて、天井から下がっている逆富士型蛍光灯を点けてくれた。
一階の開架書庫と違って、機能優先のスチール製の本棚には、ぎっしりと本が並べられていた。幾分かは溢れて床へ置かれている物まである。
「ほへー」
清隆学園の閉架と違って圧倒的な量である。これも戦前から続く白膏学苑の歴史の一部と言えよう。
「ここに入りきれない分は、校舎の地下倉庫で眠っていますよ」
「そこまで管理は行き届いているんですか?」
由彦の説明に、同じ図書委員長として興味が沸いたのか、由美子が質問をぶつけた。
「もちろん、と言いたいのですが。まあ、何にでも限界があるということで」
由彦は苦笑しながら、こちらの部屋の一角にある端末を指差した。
「いちおう本の題名などはデータ化して登録してあるつもりなんですが…」
「あ、ここは見覚えがある」
恵美子が端末と、その反対側の壁を見比べて声を上げた。IP通信の時に三人の背景になっていた壁と同じであった。白膏学苑側はここから送信していたのだろう。由彦はそんな恵美子を眺めながらも言葉を繋いだ。
「情報が判り次第入力しているのですが、いかせん量が多すぎて、いまだに新たな発見がある始末」
「だって、あそこ迷宮化してるよ」
流しでお茶を煎れていたらしいノブヨが、茶器とスナック菓子をのせたお盆をテーブルに降ろしながら、文句があるように言った。
「年末に行われた第九次地下書庫探検隊は、酷い目にあったんだから」
テーブルを囲む種類豊富な椅子を勧めつつ、みんなに茶器を配りながらノブヨがやれやれといった疲労感のある声を漏らした。
そこがいつも彼が座る特別な席なのか、少し離れた場所に益子焼きの湯飲みが置かれた。他の者の湯飲みは、会議場でよくある物であるから、これは彼の私物なのだろう。「お、すまんな」と一言礼を言ってから「無断であそこに入るからだろ」と座りながら厳しい声が向けられた。ノブヨはお茶目にも小さく舌を出して首をすくめてみせた。
「あ、そうそう」
由美子は床に置かれた自分の荷物から、包装紙に包まれた平たい箱を取りだした。
「みなさんで、お食べ下さい」
「これはご丁寧に」
受け取る瞬間、わざわざ立ち上がった由彦が頭を下げた。
「清隆学園近くで有名なお菓子の『馬サブレー』です」
「ありがたくいただきます」
丁寧に包装紙を剥がして中を確認した由彦は、そのままノブヨへ渡して任せた。彼女はパタパタと軽い足取りで流しの棚の方へ片付けに戻った。
「『武蔵野日誌』じゃないの?」恵美子の質問に「日持ちしないから」と短く答えた。
「探検隊かあ」
先程の、清隆学園では考えられないような話に、正美は顔から銀縁眼鏡をずらしちゃって空楽を振り返った。腕組みをしていた空楽がチラリと目を合わせた。
「おもしろそうだな」
「時たまウチの常連たちで探検隊を組織して潜るんだ。無くなったと思ってた本とか、歴史的な文献なんか発見したりして、遊びだけじゃないんだよ。でも前回はねえ、いつの間にか住み着いていたノラ猫と大格闘するハメになってさ。これがその時の名誉の勲章」
流しから戻ってきながら、自慢げに探検隊の話をしたノブヨは、制服の左袖をちょっと捲り上げた。そこに薄く動物に引っかかれたような痕があった。
「発見って?」
行儀良く座ってから、湯飲みを両手で持って口をつけた恵美子が水を向けた。
「戦前のSFとか、大正デモクラシーの頃らしいチラシのスクラップとか」
「SFはともかくスクラップは興味あるわね」
恵美子が着席していることに気がついた由美子は、彼女の横に座った。反対側には正美が座る。そこが『学園のマドンナ』の隣だからという理由ではなく、テーブルに降ろした自分の荷物に近かったからだ。
「まあ、全くの無駄ではないことは認めてやる」
清隆側に受けがいいようなので、由彦が苦々しい顔のままうなずいた。
「さすがイインチョ。太っ腹」
癖毛を揺らしてノブヨは彼の右肩に両手を置くようにして寄り添った。由彦の方は、あんまりそういう免疫が無いのか、渋い顔のままで振り払った。
「何人ぐらいで探検するの?」
正美が今後の参考とばかりに質問した。
「んーと」
ノブヨは可愛らしげに寄り目になって、天井の石膏ボードを見上げた。
「あたしと、副委員長のカズヨちゃん。それとシマコさんは必ず行くよ。あとは思い立った時にいるメンバーかなぁ。第九次探検隊は七人で行ったよ」
「そう、それ」
お茶で唇を湿らせていた恵美子が素早く反応した。
「?」
「そのシマコさんっていう人を見に来たのよ」
「シマコさんなら…」
ノブヨは壁に掛かっている時計へ目を走らせた。
「今なら科学棟にいるんじゃないかな」
「科学棟?」
清隆学園の四人が顔を見合わせていると、先程から苦い表情が崩れない由彦が、不承不承といった態で説明した。
「ウチの学校は数年前から文科省より科学教育重点校の指定を受けていてね、理数系の実験設備を拡充したんだ。本校舎の化学室なんかを改装しただけでなく、電子顕微鏡まで備えた実験施設がある別棟まで建てて、そこを今では『科学棟』って名前で呼んでいるんだ」
「へー」
正美が感心した声を漏らしている間に、飲みかけのお茶もそのままに恵美子が席を立った。
「じゃあノブヨちゃん。案内してくれる?」
「いいよ」
どこまでも明るい声でノブヨは了承した。その声を聞いてから恵美子は正美を振り返った。
「もちろん権藤くんも行くでしょ?」
「え、僕は…」
「別に留守番でも構わんぞ」
こちらは行く気満々の空楽。彼もすでに立ち上がっていた。
「じゃあ、しゅっぱーつ」
「って! なンでアタシの腕を引っ張ってンのよ!」
椅子に座った状態のまま恵美子に腕を取られた由美子が悲鳴のような声を上げた。
「え? だって郷見くんの本妻として、二号さんは見ておきたいでしょ?」
「誰が本妻じゃ!」
「王子。言葉遣い」
「あ、ゴメ…。そうじゃなくて!」
「行くんでしょ?」
ずいっと恵美子に迫られて、由美子は声を失った。
「じゃあイインチョも一緒に」
ノブヨが気軽に由彦の背中に手を置いた。
そして、清隆学園と白膏学苑の図書委員長が、二人同時に溜息をついた。
由美子がオブザーバーとして参加予定している白膏学苑図書委員会の全体会議までには、まだ充分に時間があるらしいが「善(?)は急げ」と言うことから、六人はすぐさま行動に移すことにした。思えば荷物を置いただけで、コートを脱ぐ時間さえなかった。
階段で一階のカウンター内を通過し(通りすがりに由彦は美智へ行き先を記したメモを渡していた)再び冬の冷気の中へ。
「よう」
北風が背の高い校舎に張り付くように渦を巻いている渡り廊下で、今度は一組の男女と行き会った。
どうやら由彦と知り合いだったらしく、白学ランの上からさらに白衣を着た男子が、気安げな態度で手を上げた。
「おう」
小走りだった由彦は急ブレーキで立ち止まった。その背中に次々と他の五人が追突した程だ。
「ドコ行くの?」
由彦ほどではないが、充分に高身長の部類に入るであろう白衣の男子が、これまた街ですれ違う女子が必ず振り返りそうな微笑みを浮かべて訊いてきた。
染めているわけではなさそうだが明るい色の髪に、あまり陽に焼けていないのに健康そうな肌をしていた。顔の作りは簡単な言葉で表現するならばイケメンという奴だろう。ただ、どことなく爬虫類系の粘着質っぽい印象があるのはマイナス点だった。
それと対照的に、彼と一緒に歩いていた女子はまったく地味な印象の娘だった。髪の毛はショ−トカットで、ガリ勉を印象づけるような眼鏡。背も低めで体型もそんな起伏を感じさせるような物でなかった。
せっかく美形男子と二人歩きをしていた時間を邪魔されて不機嫌になったのか、両手で抱えるように持っていた鞄を胸の位置まで上げて、二人の会話待ちといった風情でそっぽを向いた。
「ドコって、君のところだ」
「ウチに?」
「ああ。この方たちがシマコさんに会いたいって言うから」
そこで由彦は半身を振り返って、清隆学園の四人が彼から見えるようにした。
「だれ?」
恵美子がノブヨに囁き声で確認した。
「化学部部長のミウラ。たらし」
「まあ」
ノブヨが付け加えた情報に恵美子が目を見開いて驚いていると、そんなやり取りが為されているとは気がついていない様子で、とうの化学部部長が近づいてきた。
「ほう、これはこれは」
目尻がはっきり判るほど下がって、その瞳の中に色欲の炎が見えるような気がした。
「東京の清隆学園の方たちだ」
由彦の適当な紹介を聞いているのかいないのか判らない様子で、彼は恵美子の手を掬い上げるように取った。
「白膏学苑化学部部長の三浦康介です。キミのような美人と知り合えるなんて、今日は良い日だな〜」
それから感触を楽しむように右手で恵美子の手の甲を撫でることすらした。爬虫類のような粘着質の目線にもさらされて、恵美子は背筋に悪寒が奔った。鳥肌が立っていたかもしれない。
それでも社交辞令の微笑みを浮かべたのは、日頃の鍛錬の成果だ。
彼と一緒に歩いていた女子はと見ると、とっても面白くなさそうな顔をして恵美子を睨み付けていた。
「ミウラ先輩」
横からノブヨが割って入った。
「なんだ。誰かと思えば『スイケンのモトヤマ』か」
どうやら恵美子しか視界に入っていなかったようだ。首を突っ込んだノブヨに、まるで顔の前を飛ぶ蠅のような目を向けた。
「彼女、あたしのライバルで凄腕なんだから。下手なことをすると再起不能になるぐらいシバかれますよ」
「本山のライバル!?」
あからさまにギョッとして、恵美子の手を離すと同時に飛びすさった。
「ええ。もちろん言うまでもないと思いますが、剣道の有段者なんだから。そこんところヨロシク!」
ノブヨが康介に印象づけるためか、彼の胸を指差した。
「そ、そうなんだ。え、えっとシマコさんなら、いつもの部屋にいるよ。じゃあ、急いでいるから」
そのまま連れの紹介もせずに、そそくさと図書館へと急いで行ってしまった。
「ミヤオ先輩も苦労してんなー」
二人の背中を見送りながらノブヨが感想を漏らした。おそらくミヤオとは同行していた女子の名前であろう。その口調から二人は交際しているが、康介の方が女にだらしない生活を繰り返している事が察せられた。
「なによ、アレ」
撫でられた右手が穢れたとばかりに、横にいた正美の背中に、なにかを擦り付けるような感じで、自分の右手を拭う恵美子。
「ちょ、ちょっと」
本当に汚されてはかなわないとばかりに、ボマージャケットの背中を気にする正美。しかし彼の抗議はまるっきり無視された。
「すまなかったね」
由彦が去りゆく二人を見送ってから頭を下げた。当の色男は同行する女子のご機嫌を取り戻すためか、軽薄な様子で何かを話しかけていた。
「以前は、もっと気持ちの良い奴だったんだが…。なまじっか夏に成功してからというもの、あんな風になってしまって」
「夏に成功?」
清隆学園の四人が異口同音に聞き返した。
「夏に化学部の遺伝子研究班がバチアタリとかいうバイ菌の遺伝子組み換えに成功して、TVとか取材に来てさ。大騒ぎだったんだ」
頭の後ろで手を組んだノブヨが説明してくれた。
「バチアタリ?」
由美子が頭に?マークを大量に生やしていると、由彦が大きな溜息をついて補足してくれた。
「バシラス・アンスラシスだろ」
「そうそう、それ」
ノブヨは手を打って由彦の補足を歓迎した。
「当たらからずも遠からずでしょ」
「いや“バ”しか合ってないし」という恵美子のツッコミも笑顔で「いやほら“ア”も入ってたじゃん」とVサイン。
「あ、思い出した」
ポンと正美が手を打った。
「そういえば夏頃にCNNで『日本の高校生が画期的研究を発表』とかやってた」
「CNNは知らなかったな」
由彦も、まさかそこまで大きな話しになっているとは思わずに、腕組みをして感心した声を漏らした。
「その発表というのはね、本当に画期的だったんだ」
やはり同じ学苑に通う者として鼻が高いのであろう、求めもしないのに由彦が説明してくれた。
「すべての生物に共通する物にDNAの存在があるのは、生物の授業で習ったと思うけど、そのDNAの遺伝情報がたった四つの塩基、すなわちアデニン(A)グアニン(G)シトシン(C)チミン(T)の組み合わせで成り立っていることも習ったかな?」
その問いに、ノブヨ以外がうなずいた。
「康介はその細菌のDNAに、AGCT以外の人工塩基UとVとWの三つを挿入することに成功したんだ」
「えっと、それって…」
由美子は大きく一回目を瞬かせた。
「まったく新しい生命体を創造した、ということですか?」
「そういうことになるね。彼が造った新しい生命にまだ学名などつけられていないが、言うなれば七つの情報素子を持つ人工生命体という事になる」
「それはもう神の領域ではないのか」
黙って聞いていた空楽が、腕組みをして言った。さして大きな声でなかったが、高校生レベルではあり得ないほどの研究内容に、他の清隆学園生が絶句していたので、それは意外に大きくみんなの耳に届いた。
「ま」肩をすくめて多少戯けた顔になった由彦が付け加えた。「まだ世界各国で検証段階だから、本当に成功したかどうか判らないけどね」
その時、一月の風が一陣、渡り廊下を駆け抜けていった。
「ぶるるっ。はやく行こうよ」
ノブヨが大袈裟に自分の体を震わせて、みんなの微笑みを誘った。
「そうだな」
身を翻す由彦に、全員が続こうとした。
「で? 『スイケンのモトヤマ』ってナニ?」
恵美子はノブヨに訊いた。
「いやあ、二人がつき合っているっていうのはホントなんだなぁー」
目に上に手をかざして、康介たちが消えた図書館を遠くに眺めるようにしたノブヨが、白々しい声を出した。
「『スイケンのモトヤマ』ってナニ?」
口調を強めて再度訊いてくる恵美子に、笑顔で振り返るノブヨ。
「あのバイ菌の研究って、ミヤオ先輩の功績を、彼氏である三浦先輩が横取りしたって、もっぱらの噂なんだよ」
「いや、オタクの化学部の内情はいいから。『スイケンのモトヤマ』の話しを…」
「あはははは」
追い詰められたノブヨは、わざとらしい乾いた笑いを上げた。
「ノブヨちゃん!」
しかし、それ以上はノブヨに迫っても乾いた笑いしか返ってこなかった。
恵美子は由彦に視線をずらして、目だけで訊ねた。
由彦はノブヨに歩み寄ると、遠慮無しにゲンコを脳天に落とした。
「いたい〜」
抗議する涙声にも冷たい様子で見おろした。
「誤魔化したい気持ちは分かる。だが、寄りによって我が校の恥と取られるような事を口走ってどうする」
「ご、ごめんなさい…」
「で? 『スイケンのモトヤマ』…」
「君も」由彦は何か不名誉と思っているような態度で前を向いてしまった。「人が嫌がることを、しつこく訊くのはどうかと思うぞ」
捨て台詞を残すと、先に行ってしまった。
「ああ。ごめんね?」
恵美子も指摘されて調子に乗りすぎたことに気がついたのだろう、口元を押さえてノブヨに謝った。
「まあ、ほら。時間も無いことだし、ここじゃ寒いし」
ノブヨに背を押されて、清隆学園の四人は顔を見合わせるのだった。
白膏学苑本校舎は鉄筋コンクリート製の無愛想な建物であった。渡り廊下と繋がっている扉は、冬季の風が吹き込まないように閉められていた。
そこをくぐると機能最優先の廊下に続いており、靴底についた外の汚れに対応するためか、ビニールシートが一枚貼られていた。
脇に大きなダンボール箱が放り出されたように置いてあり、中にはスリッパを放り込んであった。
外靴のまま利用できる図書館と違い、校内は土足禁止である。が、こうして図書館側からやってきた者のために用意されているようだ。これならば忘れ物を取りに戻るときなども、わざわざ昇降口に遠回りしなくても済みそうだ。
全員がスリッパに履き替え、ダンボール横に作り付けられた下駄箱へ靴をあずけた。
生徒が三人並んで歩いたらすれ違うことが難しくなりそうな廊下の両側には、各科の特別教室が揃っているようである。聞けば二階が教職員のスペースとなっており、三階から上が各クラスとなっているそうだ。
スリッパに履き替えた入口から、その暗い一階の廊下へ入って、特別教室一つ分だけ歩くと北側へ別れる分岐点があった。そこを折れると、周囲の様子が明るくなった。
まだ建築されて日が浅い証拠に、壁も天井もあまり汚れていなかった。
その先は、まるで温室のようなガラス張りになっていた。
今度は天井だけでなく壁までガラスでできている渡り廊下が設けられていた。
ガラス越しに校庭の様子が目に入ってきた。いまは丁度ラクロス部が練習をしているようだ。
その真新しい通路を渡ると、これまた新しくてガラス張りの採光面積が多い小さめの建物に行き着いた。
建物と廊下を仕切る安物のアルミ製ドアを開けて入ると、冬の弱い陽差しでも明るさに包まれるような天窓が続く廊下であり、右側にだけ三部屋分ほど扉が設けられていた。
廊下と部屋を区切る壁にも大きなガラス窓が填め込んであり、最初の部屋は広めの化学室といった感じだった。窓越しに、化学室にはお馴染みの流しを抱えた長テーブルと丸椅子が用意されているのが見えた。
その頃からだろうか、どこからか旋律が流れてきていた。
「BGM?」
そこまで環境に配慮しているのかと由美子は廊下の壁面にあるスピーカを見上げた。
「いや、おそらくシマコさんじゃないかな」
ノブヨが振り返った。
「『ポロネーズ』とは珍しい」
曲目が判ったのか、由彦が感想を漏らした。たしかに明るい廊下の先からは、大作曲家が産まれてすぐに亡くなった我が子たちに衝撃を受け作曲したとされる旋律が、途切れることなく流れてきていた。
その横笛の音の中、由彦は足が行き先を憶えているといった風情で、誰もいない手前の部屋の前を通り過ぎて、次の部屋の前へ移動した。
次の部屋は一般的な教室程度の広さであるらしい。ただ大きな窓ガラスには薄緑色のブラインドが下ろされており、室内を窺うことができなかった。
「入るぞ」
いくら慣れた様子とはいえ、エチケットとしてノックしてから由彦は扉を開いた。とたんに聞こえていた曲が止まった。
「いくらなんでも」
色んな物が散らかった室内には、二人の人物がいた。その内の一人が、諭すように口を開いた。
「君と私の間柄とはいえ、返事を確認せずに開けるのは失礼だと思うぞ」
そう口を開いているのは落ち着いた様子の女性だった。もう一人は、先程図書館の前ですれ違ったワンレンに眼鏡をかけた娘であった。
「うわあ」
恵美子が雑然とした室内に感心したような声を漏らした。その部屋は一見すると粗大ゴミ用のゴミ置き場と間違えられそうなぐらいに色んな物が散らかっていた。スチール製のロッカーや事務机は備品だろうが、その上に半ば解体してあるM八二バレット対物ライフルは、模型にしてはリアルすぎた。窓際には空冷らしい自動車のエンジンが丸ごと剥き出しで置いてあるし、冗談のようにミサイルの形をしたオブジェと、放熱器がついたサイトを貼り付けた金属製のチューブが、お互いを支え合うように立てかけてあったり、人体模型と骨格模型がダンスをしているかのように手を取り合っていたりした。
前輪の外れた自転車に、手垢のついた車椅子は床においてある。日本間で言う鴨居の高さではGゲージらしい大型の鉄道模型が敷設してあり、ブラスト音をまき散らすシェイが丸太を俵積みしたゴンドラと、赤いカブースを牽引してゆっくりと信号所を通過していた。
そんなオモチャ箱をひっくり返したような室内の中央だけは奇跡的に片付いていて、譜面代が立てられていた。
その舞台のような位置に立っていたらしい娘は、突然の来客に驚いたのか、銀色に輝く楽器と草色の帳面を鷲掴みにして、もう一人の背中に隠れるように身を縮こませてしまった。
必然的に、室内から声を発した女性に視線が集まることになった。長い髪をバレッタで挟み、あとはただ流れるままにして、制服越しでも判る見事な体の曲線に這わせていた。顔の造詣は間違いなく美女といった風情で、声の質も女性として落ち着いた物だった。
道を私服で歩いていたら学生よりもOLに間違えられるであろう女性だったが、身に着けている物は由美子と同じ白膏学苑の白セーラー服であった。冬季の冷気対策に、今まで会った白膏学苑の女子と同じように、黒いカーディガンを重ねていた。
どこから見ても美女に認定されそうな彼女であったが、残念ながら顔の半分は包帯にくるまれていた。よく見れば両手に填めている白手袋と袖の間から覗く右手首にも巻いてあった。
「???」
清隆学園の面々がそれよりもリアクションに困ったのは、その彼女が、巨大なル〇バにしか見えない装置に座っているからだった。
すると由彦が両腰に手を当てて、呆れた声を出した。
「変に外部の人間に誤解されるような言い方はやめてくれ。それと? 今度は校内を掃除する発明でもしたのか?」
「これか?」
スカートなのに片膝を立てた座り方で、直径一メートルはあろうかという円盤に乗っている彼女は、自分が腰おろしているプラスチック製らしいその黒い物体を、包帯で隠されていない左目で見おろした。
「ただの個人用クラフトだ。便利そうだろ」
たしかに巨大〇ンバにしか見えない黒い円盤は、床から十数センチ浮き上がっているようだ。
ただ不思議なことにエンジン音や駆動音などまったく聞こえてこなかった。ただカンタンが鳴くようなわずかな音を立てて作動していた。
「また変な発明を…」
「変とはなんだ」
淡々とあまり感情の変化がくみ取れない口調で彼女が言い返した。
「あらゆる操作系を無くしたという画期的な乗り物だぞ」
「じゃあ今はどうやって操縦しているんだ?」
頭痛すら感じたらしく、由彦は自分の両方のコメカミを抱え込むように右手を当てた。
「そんなもの決まっている」
腕組みをして堂々と胸を張った彼女は言った。
「こういうものは科学者としての経験と勘、そしてフィーリングだけでどうとでもなる」
「それで、また爆発とか、暴走とかしなければいいがな。君のことだから、ネズミ花火のように回り出すというのもあり得るな」
「大丈夫だ。今回は私の発明ではない」
そこで背中に隠れてしまった、もう一人の少女に振り返った。
「これは彼女からの贈り物だ。で? そちらの方は?」
「あ、そうだった」
相手から水を向けられて由彦は思い出し、道をゆずるように体をずらした。
「こちらは今日の全体会議にオブザーバーとして参加される予定の清隆学園の方たちだ。いま、東京から着いたところだ」
「清隆学園図書委員長の藤原です」
白膏学苑の制服を着ていては判らないと思い、わざわざ凝った言い回しで由美子が自己紹介した。
「こちらの美人が佐々木さん。そっちのムサいのが不破。あとその他一名」
「「ちょっと待て!」」
あまりにも杜撰な紹介に男子二人が声を上げた。
「私は百道だ」
美人ゆえに白セーラー服が全然似合わない彼女が、男子どもの声を無視するかのように名乗った。
「ごらんの通り不自由な体をしているので、座ったまま失礼するよ」
そう言って自分の体を見せるためか、両腕を開いた。
「!?」
由美子の横で恵美子がはっきりと息を呑んだ。
こうして注視してみれば判った。立てている左脚の方にはまったく異常は無いが、こちらへ向けて投げ出している右脚には、軽合金製らしい補助具が填められていた。そしてフレームのみの補助具から覗くそこには、膝から下がなかった。
実用性重視らしい義足の先に、申し訳程度に上履きがぶら下がっていた。
「みんなが何故か『縞子さん』と“さん”づけで呼んでくれるのだが、まあ好きな呼称を使ってくれたまえ」
「そりゃあ年上には丁寧になりますよ」
横からノブヨが訳知り顔の声を上げた。
「年上?」
話しが判らずキョトンとしていると、苦笑のような物を浮かべた縞子が自分の体を見おろして言った。
「事故で少々入院生活が長くなって、大きくなってから高校に入学したからな。じつはもう成人式も終わらせた身なのだ」
どうりで大人びているわけである。清隆学園で『学園のマドンナ』に選出されている恵美子も美しいが、彼女とは違った大人の落ち着いた気高さのような雰囲気は、実際の年齢が他の高校生とかけ離れている事から感じさせる物なのだろう。
彼女を表現するならば美少女という言葉ではなく、間違いなく美女という言葉である。
「いちおう自分ではピチピチの『ジョシコーセー』のつもりなんだが」
「黙れ勤労感謝の日」
由彦が一言でバッサリと黙らせようとした。だがそれで口を閉じる程の人物ではないようで「いちおうまだ二年生だから、由彦と同じ学年になる。以後お見知りおきを」と目礼してきた。
「は、はい」
由美子が代表するかのように、しゃっちょこばって答えた。あまり年齢や学年のことを考慮して行動してこなかったが、よく考えれば周囲は先輩だらけなのではないだろうか?
ふがいない二年生のせいで委員長職を執っているが、由美子を含めて、こちらは全員が一年生である。今までの言動で失礼がなかったか考えると背中に汗が浮き出てきた。
「そちらの彼女は初めて見るが、化学部の新入部員か?」
そんな由美子の緊張を余所に、由彦は慣れた様子で縞子の後ろでゴソゴソやっていた女子に視線を向けた。
「彼女か?」
半分だけ振り返って彼女を確認した縞子は、口を少し開けてちょっと考え事をしてから喋り始めた。
「彼女は音楽部の一年生、九十九砂日登美さんだよ。たまにこうして発明品を持ち込んでくるんだ」
紹介されて日登美が頭をペコペコ下げながら、半分だけ縞子の影から出てきた。フルートを分解して片付けた彼女は、その手でバッグからマスクを取り出すと顔半分を覆うようにかけてしまった。そのおかげで髪型がワンレンであることも手伝って、顔は左目の周辺しか見えなくなってしまった。しかも丁寧に眼鏡の下までマスクを引き上げたので、よけい顔面が隠れてしまった。
「おや?」
縞子が不思議そうな声を出した。
「たったいま風邪をひいたようだ」
「!?」
からかう調子の物言いに、一言すら発せずに彼女の肩を叩いて抗議した。
「まあ人見知りするコだから、許してやってくれたまえ」
強度の猫背であるような曲がった姿勢だった日登美が、さらに体を折るようにして小さくなった。
「ええと縞子さん」
恵美子が言いにくそうに呼びかけた。
「なにかな?」
「私たち清隆学園から来たんですが」
「そう伺ったね」
「郷見弘志くんが気になるとか」
「うん、まあね」
なぜか背後の女子を振り返ってから縞子は少し解れた表情を見せた。
「彼とは同じ病院に入院していて、それで知り合ったのだ。趣味が同じだったこともあって、今でも交流がある。今度、図書委員会で清隆学園と交歓会をすると小耳に挟んだんだが、そりゃ知り合いが通っている学校だもの、興味が沸くのは当たり前じゃないかな」
どうやら白膏学苑で縞子が弘志の名前を出した事によって色めきだった原因は、縞子が弘志に興味があったわけではなく、清隆学園自体に興味があったことの誤解であるようだ。
「付き合っているんですか?」
それでも一応、弾むような声で恵美子が畳みかけるように訊くと、はっきりと苦笑と判る顔をして首を横に振った。
「彼と付き合うなんて、恐れ多いことをサラッと言うね。ねえ、日登美ならどうする」
イタズラ気に振り返ると日登美は再び縞子の肩を叩き、何事かを彼女の耳に囁いた。
マスクで籠もっているし、小声だったので何を喋っているのか、皆目見当がつかなかった。
だが彼女にも確認したということは、日登美も弘志のことを知っているらしい。
だがわずかに見える眼鏡越しの左目が、とても険しい目つきになったところから、彼女の彼に対する評価は、由美子とそう違わない物であるようだ。
「そんな入口で立ち話もなんだし…」と縞子は言いかけて室内を見まわした。いちおう部屋の中心にはスペースがあるにはあるが、六人もの数となると入るだけで精一杯で、座ること出来なさそうだった。
「取り敢えず入ったら?」
陽光がたっぷり注ぐ造りになっているので廊下が特に寒いというほどではなかったが、暖房設備がちゃんとある室内ほどでは無かった。
ほぼ最後尾にいた空楽が扉を閉めにかかると同時に、縞子はファルシオンらしい刀剣と、どこかしらか剥がしてきたような太陽光パネル、さらに液漏れ直前の気配がする小型変圧器なんかが散らかしてある一角を指差した。
「日登美。ええと、そこら辺の山にアルティメット・ゴージャス・ケットルがあるから。それを使えば、細菌や汚泥どころか、核汚染された水でもすぐに飲用可能な綺麗なお湯になるから…」
山を構成しているのは、どう見てもガラクタだけであった。しかもそのどれもが、今年どころか去年から掃除と無縁だったことを思わせるほどホコリまみれだった。
一同がなんとも言えない表情をしていても一向に構わない様子で、縞子はそれとは反対側の『九四式四十五口径四十糎砲揚弾筒作動図面』と表題が書かれた黄ばんだ紙が貼られた壁の方を指差した。
「お茶っ葉は、そっちに埋もれてるヤツがある」
「遠慮する」
由彦が強い口調で断言した。
「ん? いらんのか?」
縞子はちょっと残念そうな顔をした。
「せっかく生物部と栽培部、さらにウチの遺伝子研究班が合同で開発した新商品なんだが…」
「それは、もう誰かが試しに飲んだ物なんだろうな?」
由彦のツッコミにシレッと縞子は答えた。
「いい人体じ…(ゲフンゲフン)飲用試験になると思ったのだが」
「また誰かがハルクになるような事故はやだよ〜」
ノブヨが口を尖らせて非難した。すかさず由彦が訂正した。
「いや、あれは事故じゃなくて事件だろ」
「なんかさ」
うーんと唸りながら両方のコメカミに人差し指を当てて目を閉じていた恵美子が、とても言いにくそうに隣の由美子に囁いた。
「どこかで経験したことにある会話のような…」
「デジャブでしょ」
ぷいっと髪の毛を揺らして明後日の方向を見上げる由美子。
「仕方がない」
由彦が大袈裟に肩を落とすと、大きな溜息をついた。
「本来ならば委員会室を喫茶室代わりに使用することは気が引けるが、図書館で話そう」
「そうか? なにか、そういう風に話を持っていったようで、悪いなあ」
縞子の口調は全然悪びれていなかった。
「あーっと、それともう一つ」
振り返った由彦の巨体に廊下へ押し出される前に、恵美子が手を上げた。
「どうぞ」
どうすると言わんばかりに顔を向けた由彦に構わず、縞子が恵美子の発言を促した。
「『スイケンのモトヤマ』って何ですか?」
「エミコちゃん!」
ノブヨが悲鳴のような声を上げた。それを見て巨大ルン〇の上で縞子は、クスクス笑ってから教えてくれた。
「ノブヨは見てのとおり優しいからね。野に咲く花を愛で、そこに舞う蝶を愛しむような娘なんだ。そのような性格だから、剣を握っても最後の一歩手前で、相手をおもんばかってしまって、トドメが刺せないんだ。でも、それじゃあ勝たなきゃいけない剣道の試合では困るだろ」
「え? そんな事は無いと思いますけど」
試合で対峙したことのある恵美子は、ノブヨへ視線を移して感想を述べた。ちなみにノブヨはまるで幼子のようにホッペを膨らませていた。
「だから、肝心な試合なんかの時は『気合いのはいる特別な飲み物』を口に含むのさ」
「特別な飲み物?」
「それは日本の物か? それとも舶来品か?」
突然、空楽が発言した。それを聞いて縞子に浮かんでいた笑みが大きくなった。
「洋物だな」
人差し指を立てて言葉を続けた。
「正確に言うならアメリカはケンタッキー州ルイビルの伝統的な銘柄に限定される」
「ほほう。ブラウン=フォーマン社で医療用としてかつて販売していた品か」
どうやら空楽は、縞子の持って回った説明で判ったようだ。腕組みをすると何度も感心したようにうなずいていた。
「良い趣味をしている」
「ただ限度が判らなかった一学期には大変だったぞ」
思い出したのかちょっと噴き出してから縞子は言った。
「飲み過ぎで暴走したノブヨを止めるのに、格技の先生方が総掛かりだった」
「シマコさん!」
もういいだろうとばかりに真っ赤な顔をしたノブヨが声を荒げた。
「? どんな飲み物?」
ムキーと両腕を上げて抗議するノブヨに遠慮して、恵美子が空楽に小さな声で訊ねた。
「アーリータイムズ」
空楽は単語だけ口にした。
「?」
「バーボンの銘柄だよ」
「それってお酒?」
聞き返してきた恵美子に、空楽は自分の唇に人差し指を当てた。
「ま」
目を丸くした恵美子は赤くなったままのノブヨを見おろした。彼女の視線を感じて、慌てて取り繕うノブヨ。
「で、でも。県大会以上では、なるべく使わないで戦っているんだからね」
「うん、まあいいんじゃない」恵美子は微笑んだ。「今度、その制限無しの状態で手合わせを願いたいわ」
「わざわざ相手の強い状態と戦いたいだなんて」
正美は信じられないといった風情で恵美子を見た。
「ほら。コジローはどっちかツーとジャンプ脳だから」
「ああ」
由美子の説明にポンと手を打ってしまう正美。
「それ以来、ノブヨには『酔剣の本山』という名誉称号がついたのさ」
「シマコさん!」
いまやノブヨの顔は、耳の先まで真っ赤であった。
「さてと、では先に図書館へ行っておいてくれたまえ」
「?」
不思議そうに振り返る由彦に、安心させるように微笑んで縞子は室内を見まわした。
「ちょっと片付けてから行くよ。すぐに追いつくから安心したまえ」
「言っておくが」
ピシリと人差し指を向けて由彦は言った。
「その遺伝子研究班の新商品とやらを持ってきても、委員会室では使わせんからな」
「ちぇ」
縞子は、いまの身分相応に可愛らしく小さく舌を出してイタズラ気に微笑んだ。