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三月の出来事・④

「大丈夫?」

 ボート乗り場の桟橋で、ボートから降りようとする祥子に、手を出しながらサトミは訊いた。

 突然池から噴き出したように見えた水柱の内、最もボートに近く上がった最後のものは、寄りによって二人の上に降りかかった。特に祥子は、池の水を上から下まで浴びてしまいグッショリと濡れていた。

 祥子はそれに応えて手をのばしたが、途中でその手を止めた。サトミの手を掴むかわりにペチリと叩いた。

「あら?」

「なんで、あなたは濡れてないのよ」

 サトミは自分の体を見おろし、ボートから自力で降りた祥子を振り返った。

「日頃の行い?」

「まあ」

 祥子の目が丸く開かれ、そして表情が曇り、まるで猫がやるようなクシャミをした。

「冬にぐしょぬれじゃ風邪ひいちゃうよ」

 尤もな意見である。

「着替えなんかもっていないわ」

「ほら、ロッカーにあたしの服があるわ」

 サトミはコインロッカーのある方向を指差した。

「男物じゃない」

 祥子の答えに「あら?」とばかりにサトミ。

「じゃあ、これ着る?」

 祥子の視線が、相手の短すぎるボトムに向いた。

「仕方ないわね」

 祥子は、サトミがウエストポーチから取りだしたハンカチで、顔をぬぐいながら妥協した。

 昼下がりとはいえ、まだ寒い三月のしかも公園であった。

 祥子は吹いてくる風に体を震わせながらもコインロッカーのある公園の休憩所に向かった。そこは公園の手入れをする職員たちの休憩所も併設しており、暖房も入っていて給茶器から温かいお茶が飲み放題になっていた。騒いだりしなければ利用者もそれらを使用することができることになっていた。

 二人が入ってくるのを見て、部屋の端っこに座っていた由美子と花子が、慌てて壁の方を向いた。

 サトミはコインロッカーを開けると、午前中に自分が着ていた上下をディパックの中から取りだした。

「いちおうこれも使う?」

 そこから小さなハンカチが出てくるかと思いきや、丸めたバスタオルだったのには驚いた。

「これも使って」

 きれいに畳まれたスーパーのビニール袋を渡された。

「?」

「濡れた服を持って帰るのに必要でしょ」

「用意がいいのね」

 祥子は据わった目でサトミを睨んだ。

「まさか仕組んだんじゃないでしょうね」

「そんなこと…」

 驚き顔で首を振るサトミをいまいち信じられないまま、祥子は休憩室の女子トイレに向かった。

 個室の鍵をかけて、濡れた服を脱いで便器の蓋の上に畳んで置く。下着も濡れていたが、さすがにその替えはなかった。

 下着姿のままで渡されたバスタオルで全身を拭いて、弘志の服に袖を通した。

「こ、これは…」

 祥子はそこで凍り付いた。



 休憩所の硬い椅子でそっぽを向いていた二人の所に、微笑みを浮かべたサトミがやってきた。

「あれえ、姐さんとハナちゃんじゃない。こんなところで会うなんて、奇遇だね」

 その皮肉っぽい言い回しに、由美子は顔を険しくして振り返った。

「あたしがドコにいようと、勝手だろ」

「おねえさん、言葉つかい」

 お弁当が食べられるように設置されているテーブルの向こうから花子が小声で注意する。

「そんなに、あたしのことが気になった?」

 うっふんとばかりにウインクしたサトミは、自分の後ろ髪をかきあげてみせた。

「誰がオマエなンぞ気にするか! あたしが心配だったのはコジローにきまってンだろ」

「やっぱり、王子に私の愛が届いていたのね」

「え」

 あらぬ方向から話しかけられて、そこにいた三人がギョッとして振りかえった。入り口の方向に両手を組みあわせた恵美子が、乙女な表情で立っていた。

「あれ? コジロー帰ったんじゃ」

「私だってサトミのこと心配してもいいじゃない」

 サトミの質問についとそっぽを向く。そして気を取りなおして由美子に言った。

「じゃあ、来週の日曜日は王子と私でデートしようね」

 恵美子はハートマークを散らして由美子の首根っこに飛びついた。

 休憩室のこちら側でそんな騒ぎをしていた頃、反対側の便所から出てきた人影が、まるで小学生のニンジャゴッコのように壁に張り付きながら出てきた。

 祥子である。

 そのままサトミに声をかけるでなしに、外へ向けて抜き足差し足でゆっくりと外へ向かった。

 まさか借りたデニムがきつくてボタンが留められないなんて事を、美に対しては絶対の自信があった彼女には認められないことだった。

 彼女はもう絶対に郷見弘志には近づかないことを決心しながら、その場所を脱出していくのだった。

 それに気がついていたのか、さりげなく視線をやって彼女の背姿を見送ったサトミは、いつもの笑顔で三人に語りかけた。

「たまには二人で、お出かけもいいんじゃない?」

「え、でも…」

 由美子が抱きついている恵美子の顔を見て言葉を濁した。

「?」

 由美子らしくない反応に、まず花子が不思議そうな顔になった。

「ええ? 私とじゃ嫌なの?」

 恵美子の顔が泣きそうになった。

「いや。来週はデートの予定が…」

 由美子以外の三人が顔を見合わせた。


「…」


「「「はあ?」」」

 三人が三人揃って、鳩が豆鉄砲を食ったような程度のものではなく、艦上攻撃機『天山』一二型が防空巡洋艦『サンファン』からのVT信管を喰らったような顔になっていた。

「まだ言ってなかったっけ?」

 いまさらの告白に、由美子の頬が赤味を帯びていた。

「あたし、彼氏いンのよ」


 全世界に三秒だけ沈黙が訪れた。


「はい?」

「なん…、だと」

「え、えっと」

「やだなあ、僕が生きているうちに世界が滅びるの…」

「やばいよやばいよ」

「死ぬ前にやっておきたいことが一〇あるんだ。まずは銀行強盗…」

「しまった、遺書の用意はしていなかった」

「うっそ…」

 いつの間にかに現れていた十人前後の『常連組』が、好き勝手なことを口々にいいながらも、由美子の前で茫然自失となっていた。

「これは、あれだ」

 腕組みをした空楽が、まるで貧乏揺すりのように体を揺らしながら、左の人差し指を立てた。彼もこの驚天動地の事態に、なんとか冷静さを維持しようと必死なのだ。

「藤原さんの、脳内にだけにいる恋人という可能性が…」

「ちゃんとした男の子です!」

「どこのダレよ!」

 立ち上がった恵美子が批難がましい声を張り上げ、座っている由美子を見おろした。

 さすが剣道部でエースだけあって、小さい子なら泣き出しそうなほど迫力があった。

「同じクラスの、ほら…」

 名前を実際口にするのには照れがあるのか、由美子の語尾が濁った。

「ああ、彼か」

 それだけで理解したらしい恵美子が、驚くほど素直に矛を収めた。

「じゃあ、あれだ」

 いつもの微笑を取り戻したサトミが、指を一回鳴らした。

 由美子に、いつもの何を考えているか悟らせない微笑みを向けた。

「来週は、ここにいる全員で、姐さんのデートのフォロー(という名の邪魔)をしてあげよう!」

 その場にいる『常連組』の声が揃った。

「異議無し!」

「なンじゃそりゃ」

 あまりのことに由美子も席から立ち上がった。

「だって図書室のぬs…(ゲフンゲフン)アイドルたる姐さんの彼氏でしょ。そんな悪しゅ…(ゲフンゲフン)あたしたちを差し置いて、姐さんのハートを射止めたんだから。一度でいいから、どんな物ずk…(ゲフンゲフン)ご尊顔を拝謁しておかなきゃ」

 突然風邪をひいたのか、サトミが咳払いだらけで言った。

「ンなこといって、騒ぎたいだけだろオマエ」

「うん」

 殺気すらこもった由美子の視線に晒されても、サトミはマイペースであった。

「ほほう」

 そのレーザービームを照射しているような目つきのままで、由美子は休憩所内を見まわした。

「で?」

 彼女の片眉だけがピクリと撥ねた。

「オマエらも騒ぎたいのか?」

「うん!」

 一斉にうなずくみんなを見て、彼女のコメカミのあたりで高尾山ケーブルカーの鋼索が千切れたような音がした。

「オマエら! いいかげんにしろ!」

 そしていつもの通り、由美子の鉄拳が全員に降り注いだのであった。



三月の出来事・おしまい




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