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二月の出来事・結

「なんだったんだ、まったく」

 清隆学園物理教諭の一文字は、これまで見たことがないほど荒らされた自分のテリトリーを、茫然と見まわしていた。

 彼が抗議に使っている物理講義室は、先程まで学生たちの大騒ぎと思われる騒動で、椅子はひっくり返り、机の列は曲がっていた。

 几帳面が服を着て歩いていると陰口を叩かれる彼にとって、とても許されない状況であった。

 しかし犯人とおぼしき連中は、A棟にある職員室から、彼が駆けつけた頃には猫の子一匹残っていなかった。

 物理講義室に飛び込んだときには、空気中にもうもうと舞い上がった大量のホコリぐらいしか残されていなかった。

 先程まで誰か居たという気配だけを残して、誰もいないなんて、まるでマリーセレスト号である。

 幸い部屋にも備品にも壊された物は無さそうだ。掃除をしなおせば、いつもの整然とした物理講義室の姿を取り戻せるはずだ。

 掃除にしたって楽をする方法は幾らでもある。

 彼の厳しい講義について来られずに成績の悪い生徒はごまんと居るので、その評価に手心を加えるなりの交換条件で片付けさせるとか、生徒会に大騒ぎの苦情を持っていき執行部にやらせるとか、ちょっと考えるだけでもアイディアは何通りか浮かんできた。

 一番確実なのは、明日の最初の講義に、最初の何分間かを片付けに充てるというアイディアであった。

 だが、それでは一晩、この教室は散らかしっぱなしということになる。それでは彼の性分が済まなかった。

 彼は講義を秒単位で進めることを、自分の美学としていた。その美学に、講義の時間を削って片付けるという選択肢も入っていなかった。

「さて、どうするか」

 もう一度、講義室を見まわした。

 重い机は、そんなに位置が移動していないようであったが、椅子はあっちにこっちにひっくり返っていた。

「お?」

 右から左へ流れていた視線が、講義室最後部のキャビネットと掃除用具用のロッカーで止まった。

「こんなものまで」

 教壇から毎日見ているから、目を閉じるだけで残像のように以前の配置が浮かんでくる程だ。その自分の記憶と、現在の位置を比べて、その二つすら少々場所が動いていることが判った。

 論理第一主義であまり感情を出さない彼には珍しく、少々焦ったような表情を作ると、道を塞ぐ机類を回り込む手間すら惜しんで、一直線にキャビネットに歩み寄った。

 椅子の二つ三つ蹴飛ばして近寄ったキャビネットは、やはり壁面から手前に少し動かされていた。

 彼は内ポケットからペンライトを取り出すと、キャビネットの裏を照らした。

「異常はないな」

 何かを一回確認した彼は、薄く焦燥を浮かべていた表情で、再びペンライトを走らせた。

 円い光の中で、とても小さな落書きが、いつもはキャビネットで隠されているコンセント脇に残されていた。

 掃除で塵一つ残すことを許さない彼がじっとその古い相合い傘を眺めていた。

 だが、その表情は懐かしい物を見つけた優しい物に変わっていた。

「む?」

 さらに彼の表情が、訝しげに変化した。小さな相合い傘の横に、最近書いたと思われる真新しいインクで小さな書き込みが加えられているようだ。

 特徴的な飾り文字風の筆記体でこう読めた。


“Zu Mutter Erste Liebe”


 英語ではないことがすぐに判った。一文字は大学の第二外国語でドイツ語を選択していたので、この程度の短文ならば辞書を使わずとも、意味は判った。

「母親の…、初恋…」

 彼の脳の中で単語が集束し、まともな日本語へと置換されていった。

「『おかあさんの初恋へ』か…」

 彼はふっと微笑むと、全てを悟ったようにキャビネットを壁に押しつけて、想い出を再び封印した。



二月の出来事・おしまい



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