二月の出来事・⑤
それからしばらくして、カラカラとディーゼル特有のアイドリング音をさせて、マイクロバスは都内で路肩停車していた。
歩道に寄せて駐めた横に、なんとなく並んだ風の四人分の影があった。
その広くもない道路の反対側には、まるで清隆学園と同じような無機質なコンクリート壁に囲われた建物があった。
エルデーイ王国大使館である。
身分証を無くしたというエルザが保護を求めるには至極当然の場所であった。
今は衛士役と思われる警戒中の警察官が、警棒を持ってポツンと一人だけ立っているだけで、行き交う人通りもなかった。
「みなさん、ありがとうございました」
マイクロバスの狭い折り戸の前でエルザはここまで同乗してきた者たちと握手を交わした。
「また遊びにきてね」
車内でサトミから弘志に戻った少年が軽い調子でこたえた。
その腹筋へ、まだウィッグを被ったままの由美子が拳をめりこませた。
フロントウィンドの向こうでは、このマイクロバスの持ち主がハンドルを握ったまま半分振り返って笑顔を見せた。
だが彼女にはそれらがほとんど目に入っていなかった。
「国に帰っても達者で暮らせよ」
古風な言い回しながら彼女への気遣いをみせる空楽。
そのニコリともしない無愛想な顔をもう一度見つめてからエリザは足を大使館の方へ向けた。
しかし彼女は一歩も行かないうちに、うつむいて立ち止まってしまった。
「?」
不審に思う一同の様子は気にならないのか、何か決心した様子で振りかえた。
真剣な眼差しで空楽だけを見つめると口を開いた。
「Entschuldigung bitte!」
早口で話しかけられて一同はキョトンとした。エリザの深刻な顔でなにか重大なことを口にしているであろうことだけは察しがついた。
「Selbst-Einfuehrung war ich ein Universitaetsstudent aber es ist falsch」
両手を胸の前に組むと少し言いよどむ。
「Mein wahres Ich bin Kron…」
すると空楽は舌打ちをしながら右の人差し指を立てて横に振ってから、そっとその指を彼女の唇にあてて黙らせた。
「Sie waren geuoehnliche Student fuer mich」
その空楽の流暢な外国語に、一同がハッとしている中、彼女は瞳の縁に涙さえ浮かべて何度もうなずいたのだった。
「Leben Sie wohl!」
空楽が微笑んでそう声をかけ手を振ると、同じように彼女も微笑んで、同じ言葉を口にした。
そして彼女は振り返らずに歩いていった。
胸を張って大使館へ歩き出した彼女の後ろ姿を見送りつつ、由美子は身長差から空楽を見上げるように睨み付けた。
「オマエ。いつ英語が喋れるようになったンだよ」
「英語じゃない」
空楽はめんどくさそうに手を振って否定した。
「ありゃドイツ語だ」
「ドイツ語?」
「エルデーイ王国はドイツ語圏だもんね」
脇から弘志が口を挟んだ。
「じゃあ、いつからドイツ語が喋れるようになったンだよ」
「中学の時にな」人差し指を立てた空楽は真面目な顔で言った。「バス通りにあった駄菓子屋の息子さんが、ジャーマン帰りのインターナショナル・ニンジャでな。駄菓子を買うついでにチョロチョロと教えてもらってた」
「駄菓子屋?」
訝しげな顔になる二人。ふと弘志の顔が明るくなった。
「ああ、あの酒屋の脇の! それって酒を買うついでだったんじゃないの?」
さすがに、つるんで遊ぶことが多いので、お互いの実家周辺の地理は把握しているのだった。
「で、なンて言ってたンだよ」
いつもは見せないような表情をした由美子が、空楽に遠慮なしにきいた。
「ん? まあ普通に『さようなら』と」
「本当かい?」
由美子は睨み付けるような、そして羨ましげなような微妙な目つきになった。
「本当だって」
うるさい蠅をおうように空楽は顔の前で手を振った。
「正直に言えよな」
食い下がってくる由美子から逃げるように、空楽はマイクロバスに戻ろうとした。
「どうした弘志? 乗らんのか?」
マイクロバスとは反対の方へ歩き出そうとする弘志に気づき、空楽は半分振り返ってきいた。
「うん。これで学園のまわりも静かになるはずだから、オレは研究に戻るとするよ」
「にしても先輩に送ってもらった方が楽だろうに」
「いや、ヤボ用ができたから電車で帰るよ」
確かに弘志が足を向けた方向には地下鉄の駅があった。
思いついたように足を止めた彼は、振りかえるとイタズラげに微笑むと手を振った。
「じゃ、あなたの人生に幸せを」
「貴様、まさか」
カラカラと透明感のある高笑いをしながら弘志は歩いていった。




