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二月の出来事・④

 C棟一階の一番東側の特別教室の前まで来て空楽は振り返った。

「ここなのか?」

 あらためてその部屋の入り口の扉を指差して空楽はエリザに確認した。

「はい。ここにあるはずです」

 空楽の横に立ったエリザは断言すると、躊躇することなく取っ手に手をかけた。

「あれ?」

 扉には無情にも鍵がかけられていた。

「開きませんね」

 そのままガタガタと揺らして開こうと試みる彼女を、空楽は慌ててとめた。

「まずいぞ、ここの教室は…」

 言っているそばから隣接する準備室から声があがった。

「だれかいるのか?」

 その廊下に面した扉が開かれる前に、空楽はエリザの手を掴むと、廊下の反対側にあった凹みに連れ込んだ。

 勢いで壁にぶつかりそうになる彼女を胸で受け止めた。

「…」

 なにか言おうとする彼女に万国共通のサインである人差し指を唇にあてる仕草をしてみせて黙らせた。

 大きな音を立てて準備室の扉を開いて出てきた人物は、背の高い壮年の男性であった。体にあった三揃えのスーツをきっちりと着こなしていた。

 その人物は、持ち前の几帳面な性格からか、わざわざ室内を見回るために姿を扉のなかに消した。

 彼が公私ともにその厳格さで有名な一文字教諭である。

 担当の物理講義では私語厳禁はあたりまえどころか、出欠を取ってから終わるまで授業内容が秒単位に決まっていて、それを乱すものには課題提出を課せるとして、生徒の間では評判は非常に悪かった。

 そういうことをざっと小声でエリザに耳打ちすると、空楽はそうっと扉の方向をうかがった。

 ちょうど一文字教諭が姿を現したところだった。

 目があった気がしてさっと顔をいったん引っ込めてから、声をかけられないことで発見されていないと判断し、ふたたび顔を出してみた。

 スーツのポケットに入れるにはいささか大きすぎる鍵束から一つを迷わずに選んで、そこを再び施錠すると、腕時計を確認して何事か用事を思い出したのか、空楽たちとは反対の方へ廊下を歩いていった。

 空楽はもう大丈夫と確信してからさらに三〇秒待ってから溜息をついた。

「行ってしまいましたか?」

 腕の中で声がしたので、空楽はエリザの存在を思い出した。

 エリザの頬はほんのりと朱に染まっていた。身を隠すためとはいえ異性に抱きしめられて、自分の鼓動が高鳴るを感じてしまったのだ。

 そんなエリザを見て空楽は頭の隅で(顔が赤いな。風邪かな?) 程度のことしか感じなかった。

 朴念仁もここに極まりけり。空楽はなにも未練を感じさせない様子で彼女を離すと、廊下に人通りがないか左右を確認した。

「もう出ても大丈夫だ」

 空楽は音をさせないように、そっと扉に手をかけた。

 物理講義室として現在も使用されている部屋は、見ていたとおり施錠されなおされていた。

 バラの香りが彼の鼻を刺激した。何事かと振りかえればエリザが彼の手元を覗き込んでいた。

 香りは彼女の髪からただよっていた。

 先程抱きしめたときは感じなかったのは、緊張していたせいであろうか。

「やっぱりダメですか?」

 空楽は人差し指を立てて何事か合図をした。

「?」

 その手を伸ばして扉の上に設けられた風を入れるための小窓を、極力音をさせないように開いた。

 人一人がやっと首を通せそうな小さな窓である。

「?」

 エリザが不思議そうなままで見ていると、いったん下がった空楽は、廊下の幅だけ助走をつけてジャンプし、あっと思うまもなくそこを頭からくぐり抜けた。上海雑伎団でも見られないような軽業であった。

 かんだかく口笛を吹いたエリザが待つまでもなく、内側から解錠された扉が開かれた。

 わざわざ手を自分の体に巻き付けて、上体を深くおって招き入れてくれた。

「さて、問題はこの教室のドコにソレが書いてあるかということなんだが」

「母の話ではSteckdoseの横だそうですが」

「しゅてっくどーぜ?」

 その聞き慣れない単語に空楽は目を点にして硬直した。

「ええとPunkt…じゃない、英語だとPoint、アメリカではOutletって言います」

 あいにくと空楽の英語の成績は、その居眠り癖が災いしてか、あまり高い方ではなかった。

「日本語ではなんて言うのかしら。電気を取り出すところなんですが」

「電気をとりだす?」

 うーんと腕組みをして少々考えた。

 視線が床の上をさまよい、そこにあったものに止まった。

 物理講義室ではパソコンを使った授業も想定して、Pタイル貼りの床に床上コンセントが多数埋め込まれていた。

「もしかしてコンセントのことか?」

 言葉だけでは判らないと思い、膝をついてその一つを指差した。

「エルデーイとは形がだいぶ違いますが、これだと思います」

 単相交流のそれを見て、不安そうになっていた彼女の表情が晴れやかになった。

 しかしそれを一つ一つ確認してまわる事は骨の折れる仕事であった。

 二人にとって幸いだったのは、一文字教諭が管理している部屋だから、ゴミどころか塵一つ落ちていないくらいにピカピカに掃除が行き届いていたことであろうか。

 しかし逆に言えば、これだけ清潔に掃除がされていたら、何年も前の落書きが残されている可能性は低いであろうことは容易に想像がついた。

 エリザは廊下側の列から、空楽は外から目撃されないように気をつけながら窓側の列から、手分けして四列ある机の足下をはいつくばった。

 空楽が二列目に取りかかろうと軋む腰を伸ばすと、反対側でもエリザが似たような格好になっていた。

「ちょっと待てよ」

 エリザのモデルのような高い背をまじまじと見直した空楽は、ごく普通の質問をした。

「エリザさんの歳って?」

「まぁ」

 目を丸くした彼女はそっぽを向いた。

「あなたよりは年上よ」

「というと」

 エリザの機嫌が悪くなったことは気にせずに、空楽は顎に手をあてて、生えてもいない髭をまさぐった。

「もしかして、床のコンセントではないかも」

「どうゆうことです?」

「物理の講義でパソコンを使わなきゃいけないような難しい計算を取り入れたのは、二期前の先輩からだと聞いたことがある」

 もちろんそういう役に立ちそうもない話の情報源は弘志であった。

 空楽は無断で開けた扉に近づいた。

 その横の壁に、中途半端に丸っこい、いかにも昭和期のデザインといったコンセントが埋め込まれていた。その周囲には長い間についたと思われる無数の傷があった。

「たしかに、壁のSteckdoseの方が古いようですね」

 空楽はそのまま後ろに下がって、部屋の中央から四方の壁を探した。

「他にどこにある?」

 まず見つけたコンセントを指差してから、黒板に近い方の入り口へ、その指先をさまよわせる。

 するとそちらの扉の近く、だいたい先の物と対照的なところに、もう一つのコンセントが設けられていた。

 机や椅子に触って無駄な音を立てないように気を遣いながら近づいた。

「これも、ちがいますね」

 前のコンセントの位置から直接やってきたエリザが残念そうに漏らした。

 うつむいた拍子に髪からふたたび薔薇の香りを無機質な室内に散らしたエリザは上体を戻した。

「他は?」

 振りかえると、黒板の下にも左右二つの位置に設置されていた。

 一つずつ確認するが、薄汚れた傷はついていたが、エリザの探しているような落書きは一つもない。

「ざんねん」

 肩で息をついたエルザは、空楽に振り返った。

「やっぱり消されてしまったみたいですね」

「ふむ」

 腕組みをした空楽がなんの気もなしに言った。

「後ろはどうだろう」

 教室の後ろには、黒板と同じくらいの大きさの掲示板が設けられており、科学雑誌の切り抜きや原子表なんかが貼ってあった。

 ただ窓側に古い鉄製キャビネットが置かれ、埃を被った分子模型などが飾るとなしに入れられているのがわかった。

 キャビネットはともかく、その横の掃除用具入れらしい縦長のロッカーならば音を立てずに動かすことはできそうだ。

 空楽は注意してロッカーの扉を開いた。中には案の定ホウキやモップが入っていた。

 内側から天板を押し上げるようにしてロッカーを持ち上げると、意外と簡単にロッカーは動いた。

「どうだ?」

「あ」

 そこには確かに古いコンセントがついていた。ただ半分がキャビネットにまだ隠されていた。

「なにか書いてありそう」

 一生懸命あるかないかの隙間を覗き込むエリザ。

「こっちはどうかな」

 高校生の平均から見て体格の良い方である空楽が見上げてしまうようなキャビネットである。

 試しにエリザをどけておいて、前から持ち上げようとチャレンジしてみた。

 まったく動く気配がしなかった。

「私も手伝います」

 エリザが空楽の横に張り付くようにして、あるかないかの出っ張りに指をかけた。

 またフワリとした薔薇の香りを髪から芳せて、彼女が腰を落とした。

 いつまでも反応がないので振り返ってみると、空楽は目を閉じて彼女の髪に鼻を押しつけていた。

「あ、あの…」

 赤面して声をかけると、いま目覚めたような表情で彼は瞼を開いた。

「うむ、こちらの準備はいいぞ」

 まったく動じない、先程からと同じ様子の空楽。

「では三つ数えて同時に。Ein、Zwei、Drei!」

 二人で力を合わせるとわずかながらキャビネットが前に出た。

「どうだ?」

 先に手を離したエリザが壁との隙間に顔を押しつけるのを見て訊ねた。

「それが暗くて…」

 顔を縦にしたり横にしたり、斜めにしても光が差し込むようすはなかった。

「もうちょっと出さなきゃダメか」

「だめだなあぁ空楽は」

 したり顔のサトミが小さなマグライトを差し出しながら微笑んだ。

「明かりになる物を持ち歩くのは常識だよ」

「いや、俺はどんな暗闇でも見通せるから、明かりなぞ無くても…」

 マグライトをエリザにリレーしながら空楽は気がついた。

「貴様、いつから見ていた?」

 平然とサトミはこたえた。

「ついさっき」

「前々から言おうと思っていたんだが。貴様、相当の悪趣味だぞ」

「そう?」

 きつい目線を投げかける空楽をなかば無視してエリザに声をかけた。

「どう? 見えた?」

 サトミの問いに答えはなかった。その猫のようにしなった背中を見ているのは、冬の厚着越しとはいえ色気を感じさせ、いつまでも見ているのに罪悪感を感じさせた。

 空楽はサトミを振り返った。

「だいたい貴様、囮という役目はどうした?」

「実行中だけど?」

「なに?」

 その途端に廊下の方から複数の足音が響いてきた。

 相当の人数がこちらに駆けてくるようだ。

 身構えていると、まず上下デニム地の服を着て長い茶色の髪という、同じ格好をした囮役の女生徒が数え切れないほど部屋に飛び込んできた。それに続いて追っ手である黒服たちも同じ数ほど飛び込んできた。

 空楽たちを発見した囮役たち、本命を発見した黒服たち、そしてあまりの人数に圧倒された空楽たち。物理講義室にいた全員が凍り付いた。

「あ!」

 隙間を覗いたままのエリザの背中がピクリと反応したのを合図にしたかのように、全員が口を開いた。

「見つけた!」

「不破くん、最初に私に本を貸してね」

「逃がしませんよ」

「ちょっと、ちょっとちょっと」

「追い詰めろ」

「げ、ツカチン、その格好はナニよ」

「だって、囮をしたら借りれるんでしょ」

「実力行使だ」

「あなたはだあれ?」

「逮捕だ逮捕」

「僕ベッシー、君は」

「確保!」

 囮役の生徒たちと黒服たちがぶつかりあい、そこはまるで肉の津波のようになった。

 その学生運動華やかな頃のデモ現場みたいな喧噪の中、落ち着いた様子で外に面するサッシが開かれた。

 まずそこから空楽が転げだし、サトミに踏み台になってもらって出てくるエリザをすぐに受け止める。もちろんサトミ自身も器械体操のような身軽さで窓枠を掴んで転がり出てきた。

 すぐに追っ手がかからないようにピタリとそこを閉じた。

「いたぞ! こっちだ!」

 しかし校舎の外を警戒していた黒服の一人に見つかってしまった。

 その黒服は大声をあげて仲間を呼びつつ、腕を振り回してこちらに駆けてきた。

 一戦交える気で空楽は腰を落として、自分の背中に腕をまわした。

 間合いも頃合いと思った途端、その黒服は横から飛び出してきた大きな物体にぶつかり、キリキリときりもみをしながらテニスコートの方へ撥ねとばされた。

 耳をつんざく激しいブレーキ音に続いて、力強い声がかけられた。

「乗れ!」

 その黒服を撥ねたのはオンボロのマイクロバスだった。運転席横の窓を開けて。怒鳴りつけるように命令してきた顔には見覚えがあった。

「槇夫先輩」

 A棟前の車寄せから、だいぶ先頭をつっこんだマイクロバス。運転していたのは空楽たちとなにかとウマがあう清隆大学理学部の山奥槇夫(やまおくまきお)であった。

 空楽が半分だけサトミを振りかえると大きくうなずく。

「わたしが頼んでおいたんだの」

 安っぽいブザー音と同時に車体中央の折り戸が開いた。

「はやく!」

 ステップから顔を出した人物に、三人が凍り付いた。ウィッグを被ったままの由美子ではないか。

「げ、姐さん」

「なによ」

 おおげさに驚くサトミを由美子は睨み付けた。

「オマエの考えそうなことだろ」

「読まれてたんだ」

 サトミはちょっと悔しそうな顔を見せて、由美子の脇へ飛び込んだ。その後を、どうするか迷って二の足を踏んでいるエリザを横から抱きしめた空楽が続いた。

 マイクロバスは高等部の喧噪を後に、アクセルいっぱいで走り出した。



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