二月の出来事・③
エルザが覚えているのは、廊下で乾電池のような物が炸裂し、視界が真っ白な煙で覆われた直後、フワリと温かいものに包まれたかと思った途端、浮遊感がしばらく続き、目の中に青空の風景が飛び込んできた事ぐらいだった。
「もう大丈夫だ」
意外に近くで空楽の声がした。
顔をそちらに向けると「黙っていればいい男」と知り合いの女子に比喩される彼の横顔があった。
見まわせばここは屋上で、彼女は彼に横抱きに抱き上げられているらしかった。
冬の冷気をそこでやっと知覚した。
「あ、あの」
「ふむ、どうやら弘志も脱出したようだな」
丁寧に降ろしてくれる空楽の視線が、中庭を挟んで反対側の校舎に向けられているのが不思議で、エリザはそちらの方を注視した。
校舎の端の方の小さな窓が開けっ放しになっており、そこから千切れた綿のように煙が噴き出してくる。
「まさか、あそこから?」
直接聞くのが怖くなり、エリザは彼を振り返った。
「うむ。飛ぶのは久しぶりだったので緊張したが、うまくいったようだ」
忍者のような体術という比喩は伊達ではない。
エリザはしばらく鳩が豆鉄砲を食ったような顔のままだったが、最初の動揺が静まると、すぐに自分の表情を取り戻した。
「で?」
落ち着くのを待っていたのか、空楽は首を傾げて訊ねた。
「その落書きとやらはドコにあるんだ?」
「私が母に聞いたところによると、C棟という建物の一階で、一番東側ある、特別教室という種類の部屋らしいです」
「C棟? 一階の? 東はし?」
自分の頭の中にある校内地図とエリザの説明を照らし合わせながら、空楽は中庭の反対側に見える校舎へ視線を走らせた。
「まさか…」
その思考は突然、大声により中断された。
「いたぞ!」
声の方向に振りかえれば、黒服たちが空楽たちのいるB棟の屋根の上へ、D棟側のペントハウスから出てくるところだった。
咄嗟に振り返りA棟側のペントハウスを確認するが、そちらからも同じような黒服が飛び出してくるところだった。
ここには他に、下へくだる方法はない。
まわりを見まわしてその事実に気がついたエリザは、自分でも気がつかないうちに空楽へ寄っていた。
「もう一度飛ぶほど強度は残ってないはずなんだがな」
空楽は落ち着いたようすで、右手に掴んでいたロープを見た。
それが斜め上から垂らされている事を不思議に感じ、エリザがそれを眼で追うと、B棟屋上に建てられた高架水槽の点検するハシゴに、その一方につけられたカギ爪でひっかかっていた。
「それで『飛んだ』んですか?」
「うむ」
自信なさげな顔のまま空楽は手首を返した。
たったそれだけの軽い動作でカギ爪は彼の手元に落ちてきた。手早く投げやすいように大小の輪を作り始める。
黒服たちは追い詰めたと思っているのか、ゆっくりと足元を確認しながら距離をつめてきた。
「飛んでいる途中で切れたら、ちょっと痛いかもしれんが、それでもいいか?」
エリザは黒服たちを見てから空楽を振り返った。
ちなみにB棟は四つの校舎で一番高い建物で、三階建てである。その屋上からでは痛いですむ高さではない。
「切れないように、おまじない」
彼女は彼の首根っこに抱きつくと、そっと唇同士を触れあわせた。
黒服たちの悲鳴のような声が中庭に響く中、空楽は手にしたカギ爪つきロープを宙に走らせた。
今度のそれは、C棟校舎の向こう側にテニスコートとの境に規則正しく植えてある楢の木の一つに引っかかり、それを目で確認した空楽は、空いていた左手で抱きついた彼女の体を支えると、空中へ躍り出した。
ブランコの要領で二人の体は再び数秒間の空中浮遊の後、無事にC棟の屋上に降り立った。残った慣性は踏ん張った空楽が屋上を少し滑って殺した。
「そちらの屋上に行ったぞ」
ハンディトーキらしいメカを持っていた黒服の一人が、そうそのメカにわめいていると、隣の黒服が声をあげた。
「待て。なんだあれは」
「?」
見れば、C棟屋上の出口という出口から上下デニム地の服を着て長い茶色の髪というお揃いの格好をした集団が出てくるところだった。
「空楽の本を借りたい人っていっぱいいると思うもの」(郷見弘志氏談)
一〇〇人はいるんではないかという人混みの中に、無事二人の姿は紛れていった。




