二月の出来事・②
空楽は彼女の手を引いて一階を南に行こうとして後ろから声をかけられた。
「空楽、A棟のほうにいってどうすんだよ」
振り返って二人して仰け反ってしまった。視界に入ってきたのはゴツイ軍用ガスマスクだったからだ。
「?」
そのガスマスクが友好的な自然の物腰であったから、戦闘態勢を取らずに相手の姿を確認すると、首から下は白衣を上から制服を着た細身の少年であった。
何のことはない、自分の煙幕から身を守るために、ガスマスクを装着したままの弘志である。
A棟には職員室や事務室など“大人”の部屋が揃っていた。もちろん高等部の学生でない、部外者がそんなところを歩いていたら余計なトラブルが新たに発生することが簡単に予想できた。
どうやら空楽も彼なりに動揺していたようだ。
「ちなみに司書室には、もう姐さんいるから」
その単語が空楽の頭に浮かんでくる前に、C棟の廊下で彼女と顔を合わせていた弘志が、先回りして言った。
一年女子ながら、その実務の高さから図書委員長の座に着いている由美子に見つかっても、大人たちに見つかるのと同じぐらい、何かとうるさそうだ。
とりあえずどうしようかと迷った空楽は、彼女をもう一回見た。
彼女は現状を把握していないのか、物珍しそうにキョロキョロとして校舎のあちこちに視線を飛ばしていた。
「そんな行く当てがないという、あなたにピッタリ」
まるで深夜のTV通販でのセリフのようなことを言いながら弘志は鍵を一つ取りだした。
その鍵には『第三教材倉庫』という札がついていた。
「こっちだ」
弘志が先に立って案内した。その第三教材倉庫というのは、C棟の二階で、なんと司書室の隣であった。
B棟との境目の階段室と、司書室の間に挟まれたごく狭い部屋であった。
各実験室や実習室が近くにある割には、中に入れられている物は予備の椅子や机が数脚だけである。小さな集団が密談するには不自由のない空間といえた。
「こんな部屋がC棟にあったとはな」
はじめて入った空楽が、意外に外の光が差し込んで明るい室内で感心した声を漏らす。
狭い割に太陽光が豊富に差し込むせいか、室内は寒くて耐えられないという気温ではなかった。
「てっけんの部材が入れてあるんだ」
案内した弘志が自慢げに壁際のダンボールやベニヤ板が集められている一角を指し示した。そこには文化祭や、定期的に開催している運転会などの時に、活躍している組み立て式のNゲージレイアウトがきれいに積まれて収納されていた。
「ああ、鉄道研究部か」
てっけんという言葉に一瞬「鉄拳」という漢字を頭で当てはめていた空楽は納得してうなずいた。
「さて、しばらくここに息をひそめているとして。そちらの女性の正体をお伺いしましょうか」
弘志が水を向けると、彼女はちょっと驚いたような顔になった。
「あら。人に名前をたずねるなら、まずそちらが名乗る方が礼儀ではなくて?」
「これは失礼」
空楽は一歩前に出ると、西洋の騎士がするように、右腕を体にまきつけるように礼をした。
「わたくし、生まれも育ちも関八州は府中の宿。六社明神の産湯につかり姓は不破、名は空楽。人よんで…」
少しの間、静寂がおとずれた。
「まさか、今考えているんじゃあるまいな?」
言いよどんでいた空楽に、弘志はえぐりこむようにきいた。なんと表現して良いかわからない複雑な表情になった空楽とは対照的に、満面の笑顔で弘志は彼女に振り返った。
「オレは郷見弘志だよ。で? あなたのお名前なんてえの?」
「おまえ…」
仕返しとばかりに空楽は言った。
「いまどきトニー谷なんて古すぎだろう」
その没年が七曲署の捜査課長と同じという芸人を知っているだけでも、充分不思議な二人である。
「私の名前はエリザです。エルデーイ王国から観光に来た大学生です」
「へえ」
全然信じていない声で弘志が合いの手を入れた。
「いちおう身分証明書みせてくれる?」
「ごめんなさい。逃げているうちになくしてしまって」
残念そうな表情をする彼女に、弘志は納得いかない視線を投げつけていた。
「じゃあ、なんであんな男たちに追われているんです?」
「それも追われているから逃げているとしか言えません。理由は向こうに聞いてください」
「弘志」
横から空楽が助け船を出した。
「女性ならば、襲われて逃げるのは至極当然のことだと思うが」
「まあ、そうか」
「エリザさん。え〜と観光で?」
とりあえず納得している弘志の横で不思議そうな顔の空楽がきいた。清隆学園があるあたりは外国からの観光客が来るような場所ではないからだ。
地元で観光客が集まるとしたら、五月にある六社明神の奇祭ぐらいなものだ。あとは強いて言えば、地元の小学生が父親に「動物園に連れて行ってやる」と騙されて連れて行かれる「お馬さんがグルグル回っているだけの場所」ぐらいだろうか。
「え、ええ」
あからさまに戸惑った顔になったエリザは、じっと見つめる二人の表情を見返した。
そのまま睨み合いのように見つめ合ったが、すぐにエリザは肩をすくめた。
「わかったわ。正直に言います」
エリザは横でホコリをかぶっていた長机に寄りかかった。
「見て判るかもしれませんが、私は純粋のエルデーイ人ではありません」
そんなことを言われても二人にはピンと来なかった。普通の日本人に、欧州人の見分けなどできるわけがないのだ。
「たしかエルデーイ王国って、ドイツ系の民族だったよね」
弘志が知識として知っている事柄を口にした。その言葉にうなずいてエルザは言葉を続けた。
「私の母は日本人です」
「ああ、だからそんなに日本語が上手なんだ」
腕組みをしていつもの無愛想な態度にひっこんだ空楽に代わって、弘志が彼女の話し相手になった。
「母は東京の生まれで、母の父、つまり私の祖父が貿易会社勤めだったことで、エルデーイに渡り、そして私の父と出会ったそうです」
「そして生産されたと」
弘志の下品な表現に、その後ろ頭を空楽がはたいた。
そのコミカルな様子に小さく微笑んだエルザは、室内をもう一回見まわした。
「母はこの学校の生徒だったんです」
まるで懐かしい物を見るようなその視線に二人は口をつぐんだ。
「母は私に色々な日本での生活を話してくれました。近くの神社のお祭りや、河原での花火大会。そして、ここで父と出会う前に恋をしたことまで」
「おやまあ」
弘志は目を丸くしてみせ、空楽はつまらなそうに鼻をひとつ鳴らした。
「その恋人と、この校舎のどこかに落書きを母は書き残したそうなんです。私はそれを見てみたくて忍び込もうと、あとはわかりますよね」
「まさか、わざわざそのためだけに、こんなところまでやってきたわけ? 地球の反対側から?」
弘志は遠慮無くきいた。
「じつは私、帰国したら結婚することが決まっているんです」
ほんの少しだけ寂しそうにエリザは微笑んだ。
「あら、それはオメデトウ」
茶化すのではなく社交儀礼のように弘志が祝福を口にした。
「ありがとう。でもそうしたら、もう二度とこの国まで来ることはできないかもしれません。独身時代の思い出に、幼い頃にきいた母のこの話しを確認したくて、ここまでやってきました」
空楽の肘が弘志の背中にぶつかって、二度ばかり押した。さりげなく視線をあわせると明らかに表情で「ここまで話しを聞いたからにはどうする? 協力するか?」と問うていた。
ちょっとの間だけ笑顔を薄めた弘志は、すぐにそれを取り戻した。
「校内をうろうろする時に、なるべく教員にはみつからないようにね」
「では…」
「うん協力する」
嫌味なほどのにこやかな笑顔で弘志は言った。その笑顔のまま空楽へ振りかえった。
「そのかわり、空楽には頼みがあるんだけど」
「なんだ」
めんどくさそうに聞き返した。
「姐さんに貸した本、次に貸してネ」
「そんなことか。別にいいぞ。だが、あの正体不明の男たちはどうする気だ?」
「こんなこともあろうかと」
決めゼリフを言って弘志は鉄研の荷物をごそごそとやり始めた。
ダンボール一杯の電車だったり、無造作に突っ込まれた組線路だったりを掻き分けて行くと、魔法のように色々な化粧品が出てきた。
それらを抱えるように持った彼は、端に置かれていた鉄製キャビネットのガラス戸を鏡代わりに使って、さささと手を顔の前で動かした。
そして足下にあった別のダンボール箱から茶髪ロングのウィグを取り出すと、無造作ともとれるぞんざいさで頭に被った。
「どお?」
化学実験と下ネタと並んで、弘志のもう一つの得意技である女装であった。
しかも弘志の女装は念が入っていて、こういう姿の時は「サトミ」と、まるで女の子を呼ぶように声をかけないと振り返りもしない。そのくせ他人がリクエストすると絶対にしないという、根性の入ったひねくれ者でもあった。
今の弘志…、サトミはさすがにエリザとうり二つに変装というほどではないが、背中側から見れば充分間違えそうな雰囲気であった。
「なにが『こんなこともあろうかと』だ。ただのお前の趣味だろうが」
「わかる?」
あっさりと女言葉で肯定する友人に、空楽は脱力感さえ感じた。
「で? 貴様が囮になると?」
「うん」
仕草まで女らしく変わった弘志がうなずく。横のエリザはあんぐりと口を開いて驚いたまま固まっている。まあ目の前で人一人が他人に変わっていく様子は衝撃的だったろう。
「だが、囮が一人だけでは誤魔化しきれんだろう」
するとその答えのように、弘志は人差し指を自分の形の良いリップクリームをひいた唇にあてて黙らせ、抜き足差し足で入り口に近づいた。
「?」
不思議そうに見つめるエリザにウインクをしてから、いきおいよくドアを開くと、両手でダンボールを抱えた由美子がそこに立っていた。
「立ち聞きはよくないわよ、姐さん」
「あ、あんたね。あ、あたしが立ち聞きなんかするわけないでしょ。ちょうど通りかかっただけよ」
赤面してそっぽを向く由美子。それをニヤニヤ笑いでながめて、弘志は相手のセリフを訂正した。
「ここはヤマさんっぽく『話しはきいた』って渋く言わなきゃ」
「だ〜か〜ら〜、偶然聞こえちゃっただけだってば」
あわててダンボール箱を足下に置いた由美子は手を振って否定した。
「姐さんも協力してくれるわよね。耳に入っちゃったのが悪いと思うんならさ」
由美子はちょっとだけ相手を睨み返してから、気がついて言った。
「ほら、オマエは変装得意だけど、あたしはそンな芸当できないし」
由美子の言葉を予想していたのか、ニヤニヤ笑いのまま新たな茶髪ロングのウィグを取りだしていた。
「あ、あたしはほら、走るの得意じゃないし」
必死の言い訳にサトミの微笑みは揺らがなかった。
「そこは他の女子にも頼んでみましょうよ」
「そンなに暇人がいるはずないでしょ」
あらためて睨み返す由美子に一瞬表情を消すサトミ。
「そんなことないわ」
にっこりと今度は妖艶さを感じさせる微笑みしてみせた。
「空楽の本を借りたい人って、いっぱいいると思うもの」
「ところで、なぜ俺が彼女のことで責任を取らねばならんのだ?」
二人の会話に、不満げな雰囲気で空楽が介入した。
「あら」
赤みがかった瞳をパチクリと音がするような感じで瞬かせたサトミは言った。
「彼女の味方につくってさっき言ってたじゃない。それともここまできて放り出すつもり?」
女性三人から…、いや一人は姿形はすっかり女であったが、正体は男であった。…じぃっと見つめられた空楽は、平然としたようすのままつぶやいた。
「呑みかけのビールに注ぎ足しするようなものか」
それを聞いて明らかにエルザの顔が明るくなった。
「で? いつから始める?」
「いまから」
にこやかに微笑んだサトミは、廊下の向こう側からまるで折り重なって壁のようになったまま走ってくる黒服たちを指差した。
その先頭に立っている黒服だけは他の者と違って、金髪碧眼の外国人だった。
「Bitte warten Sie、 Prinzessin」
その呼びかけにエリザが顔色を変えて、一緒にいる三人を見た。
「?」
相変わらず眠そうな空楽に、ニヤニヤ笑いを変えないサトミ、それに由美子はキョトンとしていた。
「Es Tut mir leid、 vergib」
エリザがそう何事か言い返すと、その先頭の男はさらに何か言い返そうとした。
「さてと…」
上着のポケットからふたたび乾電池のような物を取り出すサトミを見て、空楽は口を開いた。
「貴様。いったい何発、煙玉を持ち歩いているんだ?」
「ん? 今日はこれでカンバン」
いいしなにサトミは黒服たちのほうへそれを投げつけた。
しかし、それが破裂する前に黒服たちがガスマスクをスーツの懐から取りだして装着した。
「あ〜、ずっこい」
サトミが大声をあげると同時に煙幕弾が破裂し、廊下の視界はなくなった。赤外線による探知を妨害するためか、少々ぬるい温度の煙で、視界は真っ白になった。
「捕まえたぞ」
「離すな!」
「きゃあH!」
「あれ?」
「どこさわってんのよ!」
「逃げるぞ」
「この、待て」
煙の中から声だけが聞こえてくる。今度の煙幕弾の煙には催涙成分が混入されていなかったらしく、ガスマスクを着ける暇がなかったはずの空楽たちの咳き込む声は聞こえてこなかった。
「いいかげんにしろ!」
ひときわ大きな由美子の声が響いたと感じられた直後、何か硬いものをコンクリート製の床に叩きつけるような音が連続して聞こえてきた。
それを最期に煙に包まれた廊下が静かになる。
静かになってから三秒後、さぁっと風が吹いてきて煙が晴れ、廊下の様子が見えてきた。
バタバタと廊下の床に倒れている黒服たちの中心に、仁王立ちしている由美子という、雄々しい姿である。
黒服たちの後頭部にはまるでお揃いのアクセサリーのように同じ形のタンコブができていた。
ちなみに他の三人の姿はもう無かった。
ただ『第三教材倉庫』の窓が大きく開け放たれているだけだった。




