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二月の出来事・①

 東京都下、武蔵野の大地に存在する私立清隆学園は、幼年部(幼稚園)から大学院研究室まで揃えた学舎である。

 その敷地面積は、近隣に存在する公営賭博施設や都立霊園の比ではなく、同じ市内にあるという家電メーカーの工場にも劣らないという広大なものだった。

 それもそのはずである。戦時中には陸海軍合同の航空基地であったという歴史があった。

 大型の複座戦闘機すら離着陸していた立派な滑走路は、今では大学の中心を貫くメインストリートに変わっていた。兵舎や格納庫などは学舎に建て替えられて、広い安全地帯は校庭などに整備されて現在に至っていた。

 そんな敷地の一番東側に、上空から見ると中庭の広い口字形の建物が建っていた。

 これが高等部である。

 同じ学園なのだから必要ないと思うが、その校舎は付帯設備の体育館や講堂、事務棟と硬球テニスのクレイコートを三面具えている裏の緑地帯と一緒に、敷地に沿って建てられた背の高いコンクリート壁によって囲われていた。

 いちおう東側が学園全体の敷地外側になるのだが、それ以外の高い壁は、詰め込み型の授業が嫌になった学生が脱走することを防ぐためだと、もっぱらのウワサである。

 その北側の壁際に、陽当たりのいい草地が存在した。

 校舎からは、緑地帯とテニスコートを挟んだ位置にあり、花壇などに使用するには、今一不便な場所であるようだ。

 将来の増改築をにらんだ余地といったところか。

 そんな日だまりの中で学生が一人のびのびと寝そべっていた。

 冬の冷たい風も、壁の背の高さのおかげで、ここまで届いていなかった。陽当たりも、校舎から充分離れているので申し分ないほどだ。

 一番体温を奪うのは地面の冷たさかもしれなかったが、その学生は枯れた芝がもっとも厚く残っている場所を慎重に選んでいるようで、そのような不快感も感じていないように思われた。

 学生は、いくら冬の弱い日の光だろうと、昼間には感じるであろう眩しさを、顔に被せた単行本で遮っていた。

 また、その静かに上下する胸郭から、全人類が等しく手に出来る安息、つまり夢の野に旅立っているということが、見る者すべてに想像することができた。

 時刻はすでに五時限が終了するところである。

 有象無象の強者が在籍する清隆学園高等部でも、こんなところで放課後を迎えるのは一人だけだと言い切ることができるだろう。

 履歴書の趣味の欄に、もしそう書いていいなら「居眠り」と堂々と書く人物。そして彼はその横にあと二つの趣味を付け加えることが想像できる。それは「読書」そして「飲酒」。

 未成年にあるまじきその人物は、高等部一年三組在籍の不破空楽(ふわうつら)である。

 寝そべる彼に一人分の影がさしかかった。

「こンなところでナニやってンのよ」

「む」

 話しかけられただけで空楽は顔にのせた本をどけた。

 眩しくて細めた視界に、シルエットが一人分立っていた。目が慣れなくても、両腰に手を当てた堂々とした立ち姿と、季節風に揺れるスカートで誰だか判った。

「藤原さんか」

 図書委員会委員長藤原由美子(ふじわらゆみこ)は、寝ぼけた声をあげる空楽を睨む目つきで見おろしていた。

 長めになった髪を肩のあたりで冬の大気に散らし、制服に包まれた肢体はこれといった特徴はない。しかしアーモンド形の瞳には強い意志の存在を感じさせた。

「もう五時間目も終わっちゃったわよ」

「む」

 難しい顔になった彼は、上体を起こすと腕組みをして首を捻った。

「それはおかしい。俺がここでコレを読み始めたのは、たしか昼休みがはじまったばかりだった。いつチャイムが鳴ったのだろう」

 上体を起こしたため足の上に落ちてきた単行本を手に取った。

「鳴ったのだろう、じゃないわよ」

 キリキリと眉をよせた由美子は、自分も腕組みをして空楽に怒鳴った。

「内海さんに頼まれた本はあったのかよ」

「ああ、それならこれだ」

 空楽は単行本を閉じると差しあげた。

 それはちょっと古いジュブナイルであった。

 転校生が超能力者というベタな設定だが、主人公は高校生で、しかも物語の舞台が清隆学園のあるこのあたりという設定なので、高等部の学生たちに読者が多かった。

 全四巻のこのシリーズ、不思議なことに清隆学園のどの図書館にも三巻までしか揃っていない。高等部図書館だけでなく、中等部や大学、さらに創設者記念図書館にも所蔵がなかった。

 この四コマ漫画にオチだけが無いという煮え切らない状態はだいぶ前からであるらしく、図書館へ納入している業者には毎度取り寄せを頼んでいるが、すでに絶版しているという答えがその度に返ってきていた。

 一校だけのリクエストで再版されるはずもなく、清隆学園の図書館利用者での改善して欲しい事案の第一項目としてあがっていた。ちなみに現在の改善要求の第二項目は委員長が図書室で暴力をふるうのを何とかして欲しいという、とある常連が投稿したものだ。

 不思議なことの上塗りのようだが、近所にある市立図書館にも所蔵が欠けていることが確認されていた。

 その貴重な本がなぜ空楽の手にあるかというと、これは彼の個人所有物である。

 神田の古本市で苦労のすえに見つけた物だという。

 先日、図書室の「真面目な方の常連さん」(由美子談)である内海が、このシリーズの最終巻が所蔵されていないことに腹を立て、貸出カウンターで図書委員長である由美子に苦情を申し立てていた。そこを偶然通りかかった空楽が、この本を所蔵していると口にした。それならば単純に個人同士で貸し借りをすればいいのだが、空楽曰く「同じ学校に通うとはいえ、見ず知らずの者に貸し出すのは嫌だ」と、変にごねたために、間に図書委員会が入るという形になったのだ。

「貸すのはいいが、読まない方がいいと思うぞ」

「なんでよ」

 空楽の変な言い回しに、差し出された本を受け取ることに躊躇する由美子。

「つまんないオチなの?」

 彼女も図書委員長などやっているくらいだから読書家であった。

「うーん、なんというか…」

 喋ることが苦手な空楽は、なんと書評してよいか言葉をつまらせた。

「きっと図書館に無いのは、気を利かせた先輩の誰かが隠したんだと思うけどな」

「そんなにつまらないの? 二巻で映画を撮るところなんか面白かったじゃない。あのまま三巻でヒロインがさらわれちゃって終わっているし、謎の転校生も気になるし」

 噂の範疇だが、映画を撮るその二巻は、発売当時に一巻よりも売り上げが高かったらしい。

「読めばわかるが、読まない方がいいぞ」

「はあ?」

 空楽の禅問答な答えに由美子はただ目を丸くするだけである。

「とりあえず借りてくわ。内海さんの次にアタシが読んでもいい?」

 由美子に単行本を手渡した空楽は、再び草地に寝ころびながら無言で返答した。

「とりあえず礼は言っておくわ。ありがと」

 そうそうに腕枕に瞼を閉じた図書室常連に向けて言っておいて、仲介役の任を果たすべく由美子は校舎に向かった。

「ああ、そうだ」

 その背中にのんびりとした様子で空楽は声をかけた。

「同じ作家の次の作品が、じつは続編になっていてな…」

 彼は寝心地をなおすためか、ごそごそと草地で身をよじった。

「まあ、これも読めばわかるんだが」

 半分だけ振り返った由美子は、ふたたび居眠りを再開した空楽を見て、前にむき直った。

 彼女はその足を、毎日の仕事が待っている司書室へと向けた。

 ここからならばA棟にある昇降口よりも、テニスコート沿いに緑地帯を進んで、C棟の端に設けられた非常口から戻った方が近い。そこはいつ災害が発生しても、すぐに逃げられるように、下校時間までは解錠されていた。

 A棟とC棟の接続部にある防火性優先のため分厚く重い鉄扉を苦労して開いて校舎へと入った。

 四角い校舎の角に位置するそこは、二階建てで専門教科教室が並ぶC棟と、一階建てで教職員用の部屋が並ぶA棟との境目で、階段室となっていた。

 左に行けば職員室方面、真っ直ぐ行けばC棟一階。目的地の司書室はこの二階である。

 A棟に近いため、あまり生徒が使用しない階段を登る。清掃担当になったクラスに、すぐに苦情が行くためだろうか、他の階段より綺麗なような気がした。

 二階に上がって廊下を直進する。司書室はB棟とつながっている反対側に近かった。南北両方に専門教科教室を持っているために、廊下は他の校舎より薄暗く感じられた。

 図書室の反対側、美術室にあたる壁際から廊下を見通すと、通行人は誰もいなかった。

 ふと、司書室の入り口より手前にあるガラスケースが気になった。

 司書室の入り口に並ぶように、図書室の入り口が設けてあった。その手前側の廊下にはガラスケースを設置してあり、図書室で月ごとに発表している貸し出しランキングに入った本や、発行されたばかりでお勧めな本など、表紙をカラーコピーした掲示物がわかりやすいように展示されていた。

 もちろんそうした業務も図書委員会で執り行っているため、委員長である由美子は内容がいかほどの物か把握している。

 今はその展示物が曲がっていたりしないか確認するためにガラスケースを覗きこんでみた。

 陽の光が差し込まないC棟の廊下にあって、そのガラスケースだけは、内蔵されたスリムラインで明るく輝いていた。

「本をお探しですか?」

 上体をかがめた彼女の横に、一人分の気配が現れて話しかけた。声の質は男とも女ともとれる高めのものだ。

「読む物が決まらないなら、この先月の月間一位をとった本なんかお薦めですよ」

 声の主は馴れ馴れしく由美子の腰へ腕をまわしてきた。

「遠い未来に他の星に移住した人類の話しで、原因不明の生殖能力障害で人類は絶滅していくという、ちょっと聞いただけではアレな設定ですが、さすがベテラン女流作家の三十作目…」

「そうやって図書室に来る女の子をナンパしているってぇウワサは本当だったか」

 額に青筋を浮かせて振りかえると、少女のような美しい顔が意外に近い場所にあった。

「そんなことはあるわけないじゃん」

 茶色がちな髪に、おもわずつつきたくなるような頬。しかしこの美しい顔の下にとんでもない性格が隠れていることを由美子はこの一年で思い知っていた。

 抱き寄せた相手が由美子であることを最初から認識していたのか、別段驚いた様子を微塵に感じさせずに、その女顔の美少年、郷見弘志(さとみひろし)は唇をつまらなそうに尖らせた。秩序を重んじる由美子とは正反対の騒動屋。科学部の火薬庫。好きな熟語は『爆発炎上火気厳禁』。そんな少年が由美子と反りが合うわけもなく、彼女にとって天敵のような存在であった。

「こんなこと囁くのは姐さんだけに決まっているじゃない」

 まるで新春の草原を吹き抜けていく爽やかな風のごとくの微笑みを見せる。もちろんそんな小手先の技で由美子は騙されたりしなかった。

「じゃ、なんだこの手は」

 いつの間にか由美子の腰にまわされた弘志の左手が、空楽から借りた本に伸びていた。その手の甲へのびた由美子の指がしたたかに、そこをつねあげた。天敵の彼に対して、由美子は自身からの半径一メートル以内の立ち入りを禁止していた。

「あいたた。これってアノ四巻だよね」

 つねられた手の甲を押さえて飛びすさった彼は、本のタイトルを盗み見たのか、図書室の欠けた蔵書として有名なそれを指差した。

「よくあったねぇ」

「オマエにゃ貸さないから」

 ニヤニヤ笑いをする弘志に由美子は会話を先取りしてこたえた。

「三組の内海左貴(うつみさき)さんが一番。その次がアタシだから」

「別にいいよ」

 由美子が拍子抜けするほど簡単に弘志は諦めた。強がりを言っているのかどうか、彼女は彼の顔を見直したほどだった。

「その次とか言わないの?」

「う〜ん」

 ちょっと弘志は考え込む顔になった。

「いま、ちょっと忙しいんだよね」

「また変な発明なンかしてるンじゃあないだろうね」

 弘志の趣味が変な発明というのは学園内では有名な話しであった。そして大抵その発明品は爆発して終わるのも、約束されたようなオチであった。

「うんにゃ」

 なぜか残念そうに首を振る弘志。

「来日中のさるヨーロッパの王国の王太子、E=バートリーなんとかさんが、滞在中のホテルから姿を消したらしいんだ」

 発明のほかに弘志には、こういったどこから拾ってくるか判らない裏情報に通じているという、役に立ちそうであんまり役に立たない特技も持っていた。

「そのせいで普段、ここらへんをうろついていないようなSPやら内調とか外務省条約審議官とか公安とかの連中がいて、じゃまでじゃまで」

 弘志の変な発明というのは兵器と言っていいようなものが多いので、もちろんあらゆる危険物を取り締まる法律に抵触しているどころか、そのものズバリ違反しまくりである。よく彼が出入りしている科学部などはゲリラの武器密造工場なみの危険地帯であった。

 学内が治外法権という建前はともかく、そういった公的捜査機関の活動が活発になると、余分な苦労が増えるらしかった。

「だから読んでいる暇は当分無いかな」

「じゃあ他にまわしてもいいンだな」

 単行本をちょっと振って由美子は念をおした。

「オレは読んでいる暇は無いとは言ったけどさ、興味が無いとは言ってないよ」

「?」

 由美子が理解不能という顔をしていると、せっかくの美しい顔を下品に歪めてみせた。

 ずいっと一歩前に出ると、彼女の耳に囁くように言った。

「ベッドの中でやさしく読み聞かせてくれればいいじゃない」

「誰が、誰のベッドで、だよ」

「もちろん姐さんが、ボクのベッドでさ。おかえしに…」

 その後、弘志はとても文章に書き残せないようなことを口にした。

「…というフルコースで、姐さんの身体に愛でおかえしするからさ」

 どのような内容だったのか、記録できた弘志の発言と、それを聞いていた由美子の顔が真っ赤になったことで察していただきたい。

「なンてこと言いやがる!」

 弘志へ由美子の鉄拳が炸裂した。

「オマエなんかに絶対貸さないから。本が穢れる!」

「でもそれ図書室の蔵書じゃないよね」

 あまりのことに由美子の手元がくるったのか、ダメージを感じさせない声で弘志は指摘した。

 図書室の蔵書ならば表紙全体はブッカーという透明なシートで保護され、貸し出しを管理するバーコードが貼られているはずである。

「後で貸してもらうからいいや」

「持ち主が許可してもアタシが認めないわ」

 さらに眉をキリキリとよせる由美子の顔を、弘志は面白そうに覗き込んだ。

「奴なら一升瓶一本でOKすると思うが…。まあ姐さんたちは、借りたお礼にクッキーでも焼いて贈ってあげればいいんじゃない」

「そっか、クッキーっていうのもアリよね」

 と反応してしまってから由美子の表情がとまった。弘志と空楽は、同じクラスで気が合うのか、いつもつるんでいる仲である。よって彼の嗜好も把握していても不思議ではなかったが…。

「あれ? アタシ、コレが不破のだって言ったっけ?」

 キョトンとする彼女にしてやったりという笑顔で弘志はこたえた。

「初歩だよワトソン君」

 まんまと弘志の引っかけにのったことを自覚した由美子が、腹いせに彼をボコボコに殴っている頃、とうの持ち主である空楽は由美子と別れたままの状態で、あいもかわらず草地に寝そべっていた。

 おだやかに睡眠を再開したかと思ったところ、ムクリと上半身を起こす。そのまま何を思ったのか悪評も高い壁の方をじぃっと見つめた。

 壁自体はコンクリート製で、高さ以外はこれといって特徴のないものである。東西冷戦の頃は「ベルリンの壁」とも言われていたほど古さだけは相当な物で、表面には蔓植物が縦横にはっていた。もちろん寒風が通り過ぎていく今は緑色の成分は一切無かった。

 と、その壁に変化が現れた。

 空楽が見つめるあたりの向こう側から白い物が突き出されたのだ。目のいい空楽にはソレが人間の右手であることがわかった。

 驚きもしないで彼が見つめて続けていると、その誰かは壁の縁を掴み、ぐいっと今度は上体をさらした。

 安そうなジージャンに黄色の無地のトレーナという服装をした人物だった。

 壁を乗り越える強めの北風に、とても長い茶色がちな髪が舞ったので、それが女性ではないかという予想がついた。

 その正体不明の女性は苦労して空楽の前で清隆学園高等部へ不法侵入をしようとしているのだ。

(これはただごとではないぞ)

 と思い始めた空楽は、腰をあげてとりあえず近づくこととした。

 居眠りからさめたばかりでまだ頭が働いていなかったのが主な原因だが、空楽が壁に近づく頃には、その女性は壁の上で身体を入れ替えて、これも安物のジーパンに包まれた下半身を敷地内側にぶるさげたところだった。

 空楽の頭上で小振りで形の良いヒップが揺れていた。

「もしもし」

「きゃ」

 タイミングが悪かった。そして不幸な事故が起きた。

 その不法侵入を試みていた彼女は、空楽に声をかけられたことにより両手の滑らせた。

「なんと」

 思わず避けるか受け取るか迷った彼は、ワンテンポ反応が後れ、彼女は空楽の上に落ちてきた。

 これがマンガならば押しつぶされてギュウとなるところだが、空楽はその趣味に似合わず、まるで忍者のような運動神経を持っていた。なにせ石見氏直系の子孫である、自称ではあったが。

 落ちてきたのは二十代後半らしい大人の女性だったが、難なく横抱きに受け止めることに成功していた。

 ちょっとバランスを崩しそうになったため彼女は空楽の首に抱きついた。

 地面に落ちたときの衝撃を覚悟していたのか、きつく結んでいた瞼を開き、キョトンとした表情で、自分を受け止めてくれた空楽の顔を見上げた。

「ハ、ハーイ」

 にこやかに微笑んであからさまに誤魔化そうとした。その仕草といい彫りが深めの顔立ちといい、髪は染めた様子もなく肌の色も薄い色であることからして、純粋の日本人でない印象であった。

「あ、あの」

 顔立ちには似合わず流暢な日本語が形の良い唇から流れ出した。

「おろしてもらえませんか」

「これは失礼」

 空楽は彼女の柔らかい感触をちょっと惜しみながら、足から丁寧におろした。

 こうして地面に立たせると彼女は、上に超がつきそうな美人であることがわかった。スタイルといいバランスの取れた手足といい、小柄な頭部とあわせて全身で美を表現していた。それは高等部の生徒会が行っている、毎月の『学園のマドンナ』(裏)投票で、トップに選ばれる女子ですら足下に及ばないようなレベルの美しさであった。

 しかし残念かな、今彼女を見ているのは、ちょっとどころでない朴念仁の空楽であった。

 これだけの美人を目の前にして(きれいな人だな)と思っただけであった。

 原始人にスーパーコンピューターの有り難さが理解できないのと同じ話である。

 ギリシャだかローマだかの愛と美の女神といった彼女であったが、唯一欠陥があった。

 着ている物が貧乏人すぎて、そこがせっかくの魅力を削いでいるのだ。

 それ以外では、高校生には出せないような、女性フェロモンのような気品まで感じさせる彼女であった。

「受け止めてもらって、ありがとうございました」

 ニコリとお愛想笑いをする彼女に、空楽は無難に「ああ」とつまらない返事をした。

「いたぞ」

 口べたな空楽が色々なことを質問しようと、頭の中で単語を組み合わせていた時、遠くから声がかかった。

 二人して首を巡らしてみれば、おおざっぱに校門の方角から、まるでギャング映画から抜け出してきたような、黒いスーツに身を固めた人相の悪い男たちが、三人ほどこちらへ駆けてくるところだった。

「?」

 そんな男たちにまったくといっていいほど心当たりのない空楽はキョトンと立ちすくんでいたが、彼女の方はそわそわと左右を確認し始めた。

「に…」

「に?」

 なんと言ったか空楽が確認しようとした瞬間に、彼女ははっきりと言い切った。

「にげます!」

 一言そう言い残すと、彼女は後ろも見ずに走り出した。

「逃げる?」

 その場に取り残された空楽は、彼女の後ろ姿と、迫ってくる黒服の男たちを見比べてから、腕組みをして首をひねった。

「いま『逃げる』と言ったか?」

「♪〜」

 独り言のようにつぶやいたつもりのセリフに、口笛で返事があったので、脇に視線をずらしてみれば、そこに制服の上から白衣に袖をとおした弘志が、いつの間にかに立っていた。

「おまえ…」

 なにか指摘しようとする空楽に、弘志は畳みかけるようにきいた。

「放っておくの?」

「…。介入するか」

 生来からの騒動屋である弘志が現れたことにより、今日もこれから大騒ぎになることを予感した空楽は、苦労を先取りしたような声を出した。

「どちらにつく?」

「もちろん女」

 わかりやすい弘志の意見に、空楽は本気で頭を抱えそうになった。

「とりあえず空楽は彼女のフォローにまわったほうがいいんじゃない?」

 テニスコートを囲んでいるフェンス沿いに走って行ったはずの彼女が戻ってきた。

 どうやら反対側からも黒服たちがやってきたようだ。このままでは、丁度空楽が立っている位置で挟み撃ちになろうかという状況である。

「うむ、こっちだ」

 空楽は彼女の手を捕まえると、痛くないように引っぱって校舎一階の非常口へ向かった。

 もちろんそこは由美子が通ったときと同じように施錠されていなかった。重い防火戸を開けて二人分の人影が校舎に消えて行った。

 それを確認した弘志は白衣の内側から乾電池のようなものを二、三個と、あきらかに軍用のガスマスクを取りだすと、マスクを顔にあて、その乾電池のような物を足下に叩きつけた。

 すると弘志を中心にして濃い白色の煙が大量に発生した。

 駆けてきていた黒服たちは、それにひるんで足をゆるめて、袖で口元をおおった。しかし意志とは関係なく、ボロボロと目から涙が、喉からは止まらない咳が、彼らを襲った。

 この科学部特製煙幕弾の煙には、強力な催涙効果が付加されていたのだ。もちろん手で口を覆ったぐらいでは効果を防ぐことなどできない。

 先程説明した、兵器と言っていいほどの発明品のうちの一つである。

 黒服たちが身を屈して涙と咳に耐え、空気がなんとか呼吸可能になったころには誰の姿もその場所にはなかった。


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