一月の出来事・⑬
冬だというのにC棟二階にある司書室の窓が全開にされていた。
先程までの大乱闘で、耐えられないほどホコリが舞い上がり、換気が必要となったからだ。
「あーあ」
まるでバンタム級統一王者と戦った後の、東洋太平洋チャンピオンの座を二度防衛した事のある挑戦者のような態で椅子に座る弘志を、騒ぎを聞きつけて後からやって来た正美が呆れた様子で見おろした。
「いつもより酷いんじゃないの?」
「真っ白に燃え尽きたぜ」
心配そうな正美に軽口で答えたところを見ると、まだ余裕が残っているらしい。
「ふん」
腕組みをして正美の横から見おろす空楽はつまらなそうだ。
「相変わらずの悪趣味だな」
「不破くん、君は先週の段階で判っていたね」
何事かを花子と話していた縞子が、自らの手で車椅子を漕ぎながらやってきた。
「どんなに取り繕うとも、こいつからは忌まわしい臭いが発散しているからな」
「におい?」
弘志はキョトンとして、自分の腕の辺りへ鼻を近づけた。
「別に変な匂いはしないと思うけど」
空楽は溜息をつくと「物の喩えだ」と言った。
「まあ人には隠しきれない特徴はあるからな。歩き方やコップの持ち方、見分け方はいくらでもある」
自分のブレザーに埋もれるようにしてアチコチの匂いを嗅ぎ出した弘志に、縞子は含み笑いを混ぜた声で言った。
それから相変わらず彼を見おろしている空楽へ視線を移した。
「君は本当に優秀だな。卒業後の進路に困ったら、私の助手という選択肢を考えておいてくれたまえ」
「前にも言ったが、お断りだ」
空楽は窓の外へ顔を向けてしまった。
「でも空楽が探偵役をやってくれたから、オレがしゃしゃり出なくて済んだし」
匂いを嗅ぐことを止めた弘志がウインクを飛ばした。
「あんな程度、本で読んだ知識の内だ」
相変わらずそっぽを向いたままの空楽だが、褒められて悪い気はしていないようである。堅かった表情が幾分か緩んだようだ。唇の端が微妙に上がっていた。
場が少し騒がしくなったので、四人は振り返った。由美子がこちらに近づいてこようとしているのを、どうやら花子が押しとどめようとしているらしい。
「ハナちゃん」
もとより花子では押しも弱いから難渋しているようなので、弘志が声をかけた。こちらに向いた花子の表情が心配そうに顰められていた。
その顔にいつも絶やさない笑顔で答えると、不承不承ながら由美子を開放した。当然、彼女はズカズカと迫ってきた。
「な、なに?」
まだ鼻息の荒い由美子の接近に、弘志は上体を仰け反らせた。
「オマエにゃ用はないわよ」
フンッと首を縞子に向けた。
「で? 真相は発表するの?」
「それだが…」
言いにくそうに縞子は弘志を見た。弘志も同じような顔で彼女を見ていた。
「このままにしようと思う」
「遺族は真相を求めるンじゃない?」
不満そうな由美子。すると分かりきったような顔で弘志が肩をすくめた。
「それで?」
「?」
「真相を知ってどうなるの? 娘を殺された親に『実はあなたの娘が事件の黒幕なんです』って告げるのか?」
「それは…」
絶句した由美子は、面白くなさそうな顔を取り戻した空楽と、平常運転の表情をしている正美を見た。
「うん。知らない方がいいことってあるよね」
正美が常識的な判断を下した。
「でも、このままだと…」まだ何か言いたそうな由美子に、弘志が告げた。
「娘を失った家庭は、不誠実だった娘のカレシを恨めばいいし。息子を失った家庭は、彼が罪を犯したという不名誉が証明されないまま終わる。これでいいじゃないか」
由美子は順繰りに四人の顔を見た。
「納得いかない」
弱々しくそれだけつぶやいた。それを聞いた縞子がひょいと肩をすくめた。
「これが大人になるって事さ」
しばし沈黙が訪れた。
「さて」
パンと一回手を叩き、空気を一変させて縞子は由美子を見上げた。
「こちらに赴いたのは、もう一つ用事があってね。入院している友人の見舞いもあったのだ」
見た目では入院が必要と思えるほど包帯だらけの縞子だが、その彼女に見舞われるとは、どんな友人なのだろう。彼女は壁に掛かっている時計を確認した。
「病院はこの近くなのだ。そろそろおいとまして、そちらに向かおうと思うのだが」
「どうやって行くの?」
さっそく縞子の車椅子を押すために、弘志は立ち上がった。
「電話でタクシーでも呼ぼうかと思っている。なにせ公共交通機関という物は、こういう生活をしている者に、いまいち不親切だからね」
「なんだったら大学の方にいる先輩に頼んで、車出してもらいます?」
「いや、いいよ。タクシーのうんちゃんと世間話して行くのもオツなものだよ」
弘志の手によって縞子の車椅子はUタ−ンをし、扉の方を向いた。
「それでは、みなさん。ごきげんよう」
「あ、昇降口まででも送って行くわ」
由美子が後に続いた。扉を彼女が開き、弘志が車椅子を押し、縞子が別れの挨拶を他の『常連組』と交わしながら三人は退室した。
扉が閉まりきる瞬間まで縞子は室内に向けて手を振っていた。
「で」
自分で閉めた扉がちゃんと閉まっているかを確認した由美子は、睨み付けるように振り返った。
「二人とも、まだ隠していることがあるでしょう」
その声はとても落ち着いており、先程までの大乱闘が嘘のようであった。
由美子の言葉を受けて、弘志と縞子は顔を見合わせ、そして周囲を見まわした。
C棟の廊下はシーンと静まりかえっていた。土曜日の校舎内で残っている者は、講習や部活があるのか、いっさい視界には入らなかった。
由美子は車椅子の前に回り込むと、腕組みをして溜息をついた。
「ここなら話を聞いてンのは、アタシだけよ」
「やれやれ」
車椅子の上で縞子は両腕を開いて頭を振った。
「思ったより頭がいいじゃないか弘志。君の委員長は」
「『君の』って」
由美子が頬を染めていると、弘志はちょっと屈んで縞子の耳に口元を近づけた。
「それに腕っ節もなかなか」
先程由美子の拳がめり込んだ頬を示した。見事な痕だった。
「誤魔化さないで」
厳しい視線を戻して由美子。
「まあ、ほら」
縞子が視線だけで扉を指差した。
「声を荒げると中まで聞こえてしまうぞ。話は歩きながらしよう」
ゆっくりと弘志が車椅子を押し始めた。確かに扉一枚隔てただけでは、内緒話に適した環境とは言えない。由美子は並んで歩くことにした。
「で? 隠し事?」
縞子に水を向けられて、由美子はブウたれた顔になった。
「貴女、あの日、不破の膝の汚れに気がついていたでしょ。こいつがテープに貼り付けて取っていたやつ」
「よく憶えていたね」
「貴女、あの後、アレを調べたンじゃない? バイ菌なら普通の顕微鏡で見るだけですぐに判るでしょ」
「さすがに判ってしまったか」
イタズラが見つかったような顔で肩をすくめる縞子。
「もしかして貴女、日曜日の段階でアレの正体を知っていたんじゃないの?」
「ほほう、大胆な仮説だな」
感心した声を漏らす縞子を、厳しい目で睨み付ける由美子。
「あれが危険なバイ菌だって判って黙っていたンなら、間接的に部長を殺したのは貴女ということになるンじゃない?」
「意外な者が容疑者に上がってきたぞ」
どこまでも他人事のまま明るく縞子は言った。
「じゃあ、今日ココに来た理由も判っているのかな?」
「こいつに柳田美也緒による三浦康介殺人説を語らせることによって、自分の罪を誤魔化すため」
指を突きつけられた弘志は、ハトの怪人が必殺キックを喰らって灰になったような顔になっていた。
三人はC棟とD棟と境にあるホールに辿り着いた。直角に曲がりD棟の廊下を進み始める。
「く」
縞子が俯いて、唇を噛んだ。
「くく」
力で感情を抑えているのか、耳まで赤くなってきた。
そして彼女は大爆笑した。
「な、なによ」
身構える由美子に、涙すら浮かんでいた縞子は、白手袋を填めたままの手で目尻を拭った。
「そこまで行くと推理というより想像力が豊かというべきレベルだよ」
「誤魔化さないで」
生徒会室や小会議室などが並ぶD棟にも人影は無かった。ただ冷静な由美子の声だけが校舎に響いた。
「しょうがない、ここだけの話だよ」
縞子は由美子と弘志の顔を見比べてから話し始めた。
「実は、三浦康介と柳田美也緒が手に入れた『夏の成功』なんだが…」
三人はD棟の二階をB棟の方へ進む。
「あの『夏の成功』は、幻となって消えてしまったようなんだ」
「消えた?」
訝しむ由美子にうなずく縞子。
「金曜日にネット経由で仕入れた情報だ。各研究機関で行われていた、彼らが発表した論文の追試験や実証実験なんだが。どうやら結果がおもわしくない」
「つまり?」
判りやすく説明しろと弘志の顔へ視線を移した。
「科学というのは同じ事をすれば、誰がやっても同じ結果が出ることが求められるっていう基本は判っているよね」
同じ実験を繰り返して、コッチの実験室では水素が発生し、アッチの実験室では臭素が発生するのでは科学とは言えないのだ。
「だから新しい研究が発表されると、算数の検算みたいに、他の研究者が再現実験を試みたり、その結果が正しいのか調べたりするんだ」
「つまり夏に発表した研究が嘘だったってこと?」
「そこまでは言わないが、なにか重大な見落としがあったんじゃないかな。DNAに組み込む人工塩基そのものの合成ができなかったり、組み込んだはずの人工塩基が排除されたりして、彼らの発表通りにならないそうだ」
縞子は膝の上に愛用の端末を取り出すと、由美子には訳の分からない画像やグラフなどを表示して見せた。
「じゃあ、空しい名声だったってこと?」
「そうなるね」
無人の廊下の曲がり角がやってきた。ここが、今まで歩いてきたD棟と、各クラス教室が並ぶB棟の境目となる。ここにエレバーターホールが設けられていた。由美子が呼び出しボタンに触れると、ケージはすでに来ていたようで、エレバーターの扉はすぐに開いた。
「私は」
じっくりと噛みしめるように縞子は言った。由美子が扉のセンサーを押さえている間に、弘志が縞子の車椅子を押し込んだ。
「これが二人が仕組んだ、手の込んだ心中ではないかと思うんだ」
「なんで…」
一階のボタンを押し込みながら由美子は軽く絶句した。
「細かいところまでは判らない。本人たちからもう聞くことはできないからね。研究が否定されそうになって悲観したのかもしれない」
「じゃあ、二人はお互いを?」
「そう。得意な方法で殺し合った結果、後から見ると変に見える結果だけが残った。こういうことじゃないのかな」
ケージは一階に着いた。先ほどとは逆の手順で三人は外へ降りた。
「タクシー会社に電話する?」
B棟をA棟へ歩きながら、弘志がスマホを取り出すと縞子は微笑んだ。
「もうメールで配車を頼んだよ」
「…」
黙ってガラス越しに冬の景色を眺めながら、黙って歩く由美子に縞子は振り向いた。
「今度は交歓会などなしに訪ねてくれたまえ」
「ええ…」
由美子は歯切れが悪くこたえた。
B棟を抜けてしまえば、昇降口があるA棟である。校庭ではハンドボール部らしき集団がランニングしているのが目に入り、反対側の校門方向には武蔵野の冬の風景が広がっていた。
「それでは、また」
縞子は白手袋に包まれたままの右手を差し出した。由美子と軽い握手を交わす。
「?」
「ああ。驚いたかな? 私の右側には色々と足りない物が多いから」
由美子が自分の右手を不思議そうに眺めるのを見て、縞子はなんでもないように言った。手袋で見えないが、いくつかの欠損が隠されているようだ。
「…」
外はまだ陽があった。西高東低の今日も、どこまでも高い青空だった。無言で見上げていると、由美子が小さくつぶやいた。
「優しいのね、二人とも」
一月の出来事・おしまい




