光
「光」
ある夏の金曜日の夜。
誰もいない海に一人の20代の男が立っていた。
それも海に行くにしては不自然な格好で。
というのは、彼はスーツ姿なのだ。
この格好からして、帰宅せずに海に来たのだろう。
特に何をするわけでもなく、ただ海をじっと眺めていると、ポケットに入っている携帯が振動を起こした。
いつもマナーモードにしてることもあって音は鳴らない。
面倒に思いながらも、携帯をポケットから取り出して画面を見た。
画面には、1通のメールが入ったことが表示されていて、彼は内容を確認した。
「ちっ…またかよ」
彼は内容を見て、嫌な物を見たような表情になって舌打ちした。
無視しようかと一瞬思ったが、そうしたら返事が来るまで送ってくるだろう。
そう思った彼は嫌味を込めるような気持ちでメールの返事をした。
「これでしばらくは来ないだろ」
誰に言うわけでもなく、呟くように言い、携帯の電源を切った。
(少しはこっちの気持ちも考えろってんだ・・・ん?)
こんなことを考えたとき、ふと足元に自分の影ができていることに気付いた。
影は自分の足元から前にまっすぐ伸びており、影の周りは真っ白な光が照らしていた。
何か変だと思って後ろを向くと、そこにいたのは…。
「!?」
彼は信じられないものを見たような表情になった。
視線の先には、真っ白な淡い光に包まれた、自分と同い年ぐらいの女性が立っていたからだ。
いや、女性が光を放っているといったほうがいいだろう。
髪はセミロングで、ドレスのような服装をした、誰から見ても美人といえるような感じだった。
全身どころか、服も光を放っているような感じだったから、はっきりした輪郭まではわからなかった。
「驚かせてごめんね。私のことは光でいいから」
光が最初に言った言葉がこれだった。
「家に帰らないの?」
「…帰宅拒否ってやつなんだろうな…」
言いながら彼は海に体ごと振り向く。光は彼の横に立った。
これ以上、光が理由を追求することはなかった。が、彼がその理由を話した。
今朝、いつもより早い時間に出勤し、会社に辞表を出してきた。
数日前から辞職を考えており、身の回りの物を周囲に気づかれない程度に少しづつ片付け、辞表を出したときは少ない荷物をまとめて、みんなが出勤してくる前に会社を後にした。
「周りから見たら、折角入った会社なのに勿体無いことするって思うだろうけど、親に勝手に入らされた会社だったから…」
最初は働けるだけでもいいと思っていたが、職種と業務内容が自分に不向きだったために、トラブルが絶えなかった。
それでも何とか我慢したものの、これ以上は無理だと自分で判断して辞職したのだった。
「おまけにお見合いの話まで持ち込まれて…その相手は結婚が決まったってわけでもないのに、まるで押しかけ女房みたいにずかずかと家に出入りして…しかも親はただ黙って見てるだけだし」
「空気が読めない人なのね」
「そうなんだろうな。この前だってあまりのしつこさに我慢できなくなって、俺が怒ってショボンとなっても、数分後にはケロッとしてるし」
空気が読めないというより、天然なのだろう…。
今、家に帰ったら間違いなく親は帰りが遅いことで説教するし、お見合い相手のことで肩身が狭くなる。
「さっきのメールもお見合い相手だ。「寂しいから帰ってきて」って書いてあったけど、居心地悪くて帰る気になれない」
これを理由に返事した内容は、「今夜は野宿するから、明日気が向いたら帰る」。
「ここにずっといたら、気が向く前に風邪引いて動けなくなるわよ?」
「そのことなら心配しなくていいさ。今年の始めごろ、大雪が降った中でも長袖の薄着だったけど、風邪引かないまま過ごしてたし」
これを聞いて光はクスッと笑った。
「それに、俺が次の日仕事でも帰らなかったことは何度かあったから、親は何の心配もしてないだろ。それどころか、お見合い相手に事情を説明してるんじゃないかな?」
最初の頃こそ怒られたが、今は特に何も言わなくなった。
彼の親は、彼よりもお見合い相手をよく気にかけるようになった。
いつからか彼は、「自分の家に居場所はない」と思うようになったのだった。
これを理由に、家を出て一人暮らしをしようとしたが、親に猛反対された。
「普通なら、自立させるためにさっさと家を出てけって言うのに、変わってるわね」
「そうだな…」
とにかく、お見合い相手の行動にうんざりしていた。
食事や部屋の掃除はともかく、風呂で背中を流したり、添い寝までするようになったからだ。
「翌朝になって、「風呂や添い寝なんて、結婚してからでもいいだろ!」って怒ったこともあった。そしたら「寂しくて仕方ない」って泣き付いてくるし、これを知った親からは泣かせたことで大目玉だし…」
相手が寝付いたときにこっそり抜け出して別の部屋で寝たこともあったが、それも親に知られて大目玉になったこともあった。
ここまで言い終えてため息をついた。
「ここで立ち止まってても何も変わらないわよ?自分で前に踏み出すことを考えてみたら?」
自分でもわかってたはずだったが、この言葉は彼の心に深く響いた。
彼は動揺しながら光を見た。
光の表情はすごく真剣だった。
「…わかってたはずだった。だから会社を辞めて、どこかでひっそりと生きようと考えてたんだ。けど、さっきの言葉で気付いた。ただ、親やお見合い相手から逃げてただけだったんだ…」
これを聞いて光は優しく微笑んだ。
「気付けばいいのよ。後はあなたが踏み込めばいいだけ」
言いながら光は彼に歩み寄る。彼は固まったかのように動かなかった。
「立ち向かう勇気をあげるわ」
言いながら彼の首の周りに両腕を回し、唇をそっと塞いだ。
その間に彼は気を失い、力が抜けたかのようにその場に倒れ、それを光が支えた。
「…どうか、幸せな人生を…」
光の呟きを彼が聞くことはなかった。
翌朝、妙に肌寒さを感じて目を開ける。
「う…あれ?」
体を起こして周りを見ると砂浜だった。
「そっか…そういえば昨夜…」
一言呟き、布団の代わりになっていた、何枚かの新聞紙を一つにまとめ、近くにあったごみ入れに投げ入れた。
「勇気を、ありがとう」
誰もいない、朝焼けに照らされた海を眺めて呟き、近くにある駅に向かって歩き出した。
この後、3時間ほどかけて家に帰った彼は、仕事を辞めたことを伏せて、自分の胸のうちにたまっていたものを吐き出すかのように全てを打ち明け、お見合いを破棄しようとした。
しかし、彼がどんなに強い意志を持って自分の考えをぶつけても、親は全く聞き入れようとしなかった。
それに加え、昨夜帰らずにお見合い相手を寂しがらせたことで説教をされた。
こんなこともあり、何を言っても無駄だと悟った彼は、携帯を解約して通帳や印鑑などの必要最小限のものだけを鞄に入れ、月曜日の朝に仕事に行く振りをして、置手紙を残して家を出た。
光に会った海の近くにある会社に就職して数ヶ月後、ふとした出会いがあって結婚した。
偶然にも、その女性は光にそっくりだったことで一瞬驚いたが、雰囲気が違うことから本人ではないとわかって落ち着いた。
だが、あの夜以降、彼は何度か海に行ったが、光に会うことは一度もなかった。
あれは誰だったのだろうとふと思う。
そのときのことを彼は妻になった女性に話した。
「きっと、愛の女神様だったのかもね」
とおちゃらけながら言った。
「なぜそう思うんだ?」
「私とあなたを引き合わせてくれたから」
こう答える女性は少し顔を赤くしていた。
彼は納得したのか、何も言わずに微笑んで女性を見ていた。