第十七話 パチモノ聖女とドワーフの里(2)
騒然という言葉がふさわしい。
そこにいたのは『婆さん(おばあさんと呼びたい)』を探しにいったはずのラオさんと、そのお仲間の三名だった。落盤に巻き込まれたのか、頭から血を流している。
食堂にいた者たちが口々に叫び、ある者は医者を呼びに行き、ある者は寝床を整えようとする。
わたしはといえば、状況が分からず困惑するばかりだ。邪魔にならないよう脇に寄るべきか、それとも何かできることはないか。指示を求めるように向いた先にはネイちゃんがいた。成人女性とはいえ見かけ三歳児を無意識に頼るとか、わたし、情けないにも程がある。
一方のネイちゃんは毅然として立ち上がり、テクさんへと指示を飛ばした。
「テク、追加で洞窟に向かった人員に異変がないかどうか、確認しますわよ!それと、爺さんたちが勝手に洞窟に捜索へ向かってないかどうかも確認を!」
「はいよっス!」
ビシッと敬礼で答えたテクさんが、素晴らしいスピードで駆け出していく。
「食事中の皆さん!テーブルと椅子をどかせて治療用の場所を確保してください!それと、できるだけ清潔な布と水を用意して!」
野次馬が集まらないように指示を追加すると、一番怪我が大きいラオさんから順に四人の様子を確認する。
おそらく意識があるかどうかを確認しているんだろう。
わたしはわたしで、懸念がひとつ。どうしても見過ごせないことがあった。
ラオさんは、その手に紫色の花を握っていたのである。
お医者様がやってきた。頭に怪我をしている者をうかつに運ぶのは危ないと判断してか、応急処置はこの場で行うことになったようだった。
お医者様ももちろんドワーフ氏族。ダンディなお髭を生やした小人さんである。顔立ちは壮年なので、サイズこそ小さいがきちんとお医者様に見える。
「ひとまずは、問題ない。念のため診療所に運んでくれるか」
食堂に残っていた野次馬さんたちへとお医者様が声をかける。「がってんだ!」「おう、任せとけ!」と威勢もよく、野次馬さんたちがラオさんたちを運んでいく。太い腕は伊達ではないようで、頼もしいことこの上ない。
「わたくしも同行してよろしいですか?」
診療所へ向かおうとするお医者様へ、ネイちゃんが声をかける。
「おや、ネイ様もいらしたので?」
「彼らは人探しのために洞窟探索中だったのです。おそらくなんらかの発見があって急ぎ戻ってきたところ――……。報告場所として、確実にわたくしがいる食堂を選んだのだと思われますわ」
「まあ、里の者であれば食事時は外しませんからなあ。夕刻でないと酒は出ませんし」
呆れたような声でお医者様が答える。
「ですがそれ、ネイ様は食い意地が張っていると思われているということですぞ」
「それはそれです。茶化さないでくださいませ」
「来たいというなら、どうぞ。ただし治療の邪魔になることは許しませんからな」
「承知いたしましたわ」
そのまま移動をはじめるネイちゃんとお医者様。邪魔にならないようにと考えるなら、わたしはわたしでテントに引き返すのが正しいはずだ。――だけど。
「あの、ごめんなさい。ネイちゃん、わたしもご一緒してもよいですか?」
「え?」
移動をはじめる二人に急ぎ足で駆け寄るわたし。ネイちゃんが戸惑うのも無理はない。
「ラオさんにお聞きしたいことがありまして。いえ、他の方々でも良いんですが、気になることがあるんです」
ネイちゃんは困惑を隠さないまま「避難所への案内でしたら、間に合わないようならテク以外の者を付けますわよ?」と確認してくる。
「そちらは明日の朝ですよね?焦っていませんので大丈夫です。できれば、その前に。いえ、意識が戻らないようでしたら諦めますが――……」
チラチラと運ばれていくラオさんを見やるわたしへ、ネイちゃんは付け加えた。
「言っておきますが、ラオは既婚者ですからね?それに、種族違いはちょっと難しいことが多いかと」
「そういうお話じゃありませんッ!!」
さすがにそこは否定しておきたい。
ラオさんはさすがにリーダーさんである。
誰よりも怪我が大きかったわりに、誰よりも早く意識を回復させた。お医者様の治療も良かったのかもしれない。なお、ドワーフ氏族の治療は、まず傷口にアルコールをぶっかけるというぎょっとするものだった。一応、薬草を漬け込んだ薬草酒だって説明だったけど。アルコール消毒、という解釈をしておきたい。
重要事項を説明しようとしたところに部外者であるわたしがいるのを見て、わずかに躊躇した後、ラオさんはそのまま話し始めた。
探し人の『婆さん(おばあさんと呼びたい)』は見つからなかったが、その代わりとして厄介なものを見つけてしまったのだという。
曰く。
「『水魔の花』だ。こいつが証拠」
ネイちゃんははじめて見るらしく、ラオさんが握りしめていた花を見て首をかしげる。
「綺麗な花ですが……これが何ですの?」
「里長の娘が『水魔の花』も知らないってのは問題があるぞ、ネイ」
「この里で植物に詳しくなれっていう方が無理がありますわよ」
「まあ、それもそうか?」
ラオさんはむむうとうなりながら、話を続ける。
「『水魔の花』は水魔によって毒された場所に咲く花、らしい。水魔はさすがに知ってるよな?」
「当然ですわ。女神と敵対する害悪じゃありませんの」
「実物を見たのはこちらもはじめてだ。――ああ、そうだ。あんたは図書館にいたって聞いたが、人間氏族なら実物を見たことは?」
そこではじめてラオさんは私の方へと話を振った
「『水魔の花』については、何度か。実のところわたしの関心事もこのことなんです。ラオさんは、この花をどこで発見されたんです?まさか、『女神の泉』だったりは、しませんか?」
わたしの言葉に、ラオさんは当たらずしも遠からず、といった表情で黙り込む。
「部外者に言うことじゃあないが……」
「ストップ!何を言うつもりですの?」
口を開こうとしたラオさんを、ネイちゃんが止める。
まあ、無理もない。彼らはわたしが『聖女もどき』として活動していたことを知らないし、生活の生命線であるはずの『女神の泉』についてほいほいと外部者へ話したくないというのは理解できる。
ましてや今回、わたしは浄化を依頼されているわけではない。
「ネイ、これはとても大事な話だ」
「当然でしょう。……ですが、あなたが今、うかつに口にしようとしたこともかなり重要な事項ですのよ。ミスズさんを疑うわけじゃありませんが、彼女は避難民であって里の者ではないのですからね?」
「……」
再度黙り込んだラオさんは、次にこういう言い方をした。
「花が咲いていた場所が『女神の泉』かどうかは、分からない」
「え?」
「地の揺れのせいだろう、別の空洞への通路ができていた。この花はその先に咲いていたものだ。里の周りではこれまで『水魔の花』が発見されたことはないし、この花がそう、と決まったわけでもない。急ぎ文献で確認をとる必要があると思い、サンプルに一輪持ち帰ったんだ」
「里の文献じゃあ、特定できませんわよ」
「図書館への道が落盤でつぶされていなければすぐだったんだがな」
ラオさんは残念そうに告げた後、改めてわたしを見やった。
「これが、『水魔の花』かどうか、確信は?」
「……」
わたしは少しの間黙り込み――、それから首を横に振った。
「今まで何度か見た『水魔の花』と似た花だとは断定できます。花の形も、葉の形も。だけど、植物学者というわけではありませんので似た花という以上の話はできません」
『水魔の花』は、日本でいうならアヤメやカキツバタに似ている。丈も花の大きさも小ぶりで、花数が多いところが相違点だ。ではこのアヤメやカキツバタという花はといえば、互いによく似ていて混合しやすい花と有名だ。「いずれ菖蒲か杜若」って諺もあったくらいである。花の特徴や葉の特徴、育つ場所や開花時期などで区別はつくらしいが、肝心な見分け方は覚えていない。
何が言いたいかと言えば、この世界にだって似たような植物はあるかもしれないのでうかつなことは言えないということだ。
クライフさんたちは見た瞬間『水魔の花』だと断定するので、何か識別方法はあるんだと思うけど。
「『水魔の花』は、それ自体は食べたらおなかを壊す程度の植物です。毒素の多い、人間には飲めない水のほとりに咲く花ですし、根から水と一緒に毒を吸い上げてしまうらしくて毒そのものと誤解されることも多いですけど。
わたしが今まで見た花は、花そのものよりも、その花が咲いていた場所の方が問題視されていました」
わたしの説明に、ネイちゃんは納得しかねるような顔をした。
「なら、特に問題ないのでは?見つかった空洞がどういった場所か知りませんが、里で使っている場所ではないのでしょう?」
「空洞は地底湖になっていた」
ラオさんはネイちゃんへ補足説明を続ける。
「通路がつながってしまった例を挙げるまでもなく、地の揺れのせいで山全体に亀裂が入っている可能性が高い。地底湖があるということは、水が溜まっている場所があるということだ。里は天井落下に備えた作りになっているとはいえ、壁に亀裂が入って水が染み込みでもしたらどうしようもない。水のせいで天井が崩落する可能性もあるし、そうでなくても――」
ラオさんは、これはあまり考えたくないがという顔で続けた。
「流れ込んできた水のせいで里が水に沈む」
ネイちゃんはサッと青ざめた。
「そんなバカなことが起きるわけないですわよ!里の構造はドワーフ氏族の英知の塊ですのよ?壁だって天井だって、冬地方の雪に潰されないだけの重量に耐える構造ですわ!排熱も排水も、計算され尽くして作られているんですのよ!?工房で出た汚水の処理だってこれまで何度も改良して、ほぼ無害な状態で流すことに成功していますもの!ちょっとやそっと外から水が流れ込んできた程度で水に沈むような事態になるはずが――っ!」
「里は丈夫だし、排水機能はあるが、そもそも外部からの侵入を拒む作りにはなってない。それに地底湖があった場所は山の中でも上層に位置していた。水ってのは上から下に流れるものだろう?」
「それは、……その」
「水ってのは馬鹿にできない。婆さんの知恵が必要だ」
「……探索が必要ですわね」
「そうだ。そして、それは途中で打ち切らざるを得なかった」
ラオさんはここではじめて、自身や三人の探索隊の怪我について言及する。
「地底湖に魔物がいた」
この世界の魔物は退治できない。
以前クライフさんから教わったところによれば、毒水によって汚染されていた世界を女神が浄化した後、これを不服とした前世界の神が送り込んだのが水魔である。
水魔は正体が水なので倒せない。だが、水魔の魔の部分を聖女が浄化することでただの水に戻すことはできる。
この時、魔の部分を別の生き物が吸い込んでしまうと、魔物化してしまう。トカゲやウサギといった、本来は無害であったはずの動物が人間に害をなす生き物と化す。
魔物は斬ることができるが、浄化しない限り魔の部分はその場に残る。そうして次の魔物を生み出してしまう。
――だから、人間には魔物を退治できない。
黙り込んだわたしをよそに、ラオさんとネイちゃんは打合せを続けていた。
一、ネイちゃんは発見された『水魔の花』が本物かどうか調べるため、里にある文献をおさめてある資料庫へと向かう。
二、ラオさんと三名の仲間たちは怪我を治すことに専念する。心配だからといって病室を飛び出すようなことは禁ずる。
三、追加探索メンバーとして選ばれた面々に警告を送る。
四、里周辺の通路の亀裂など水漏れなどを確認する。万が一里崩落や水没の可能性があるようであれば、一時的に山の外へと避難を行う。
ネイちゃんは渋った。特に四番目に。
この世で一番安全だと思われている里から外に出るというのが納得いかないようすだ。なにしろ外は冬だし、雪だし、避難先の方が安全という根拠もない。
「ドワーフ氏族の技術の結晶が信じられないと?」
「信じてないわけじゃないが、水ってのはばかにできない」
ラオさんは四番目を譲らなかった。可能であれば夜のうちに避難を行っておいた方がいいんじゃないかとさえ言った。ただ、現時点では危険の度合いが分かりかねたのと、雪で覆われている外へ逃げるには準備が必要だということで採用されなかった。
対策の中に魔物に対するものがないのは、ラオさん自身、魔物の正体がよく分からなかったかららしい。『水魔の花』のそばで白っぽい毛むくじゃら姿を目撃したため、ラオさんたちは逃げの一手を選択、戻る途中で落盤に遭ったということらしいので。
「ミスズさん」
「はい」
「図書館から来たってことは、文字は読めますわよね。調べるのを手伝ってもらえません?どちらにせよ避難所へ案内するのは明朝ですし」
お手伝いできるのであれば協力しますが、お世辞にも自信が持てない申し出にわたしの顔は引きつった。
「で、できる範囲、でしたら」
なにしろ賢者さまから受け取った『あいうえお表』を頼りにできる範囲って、ものすごく小さいとは思うのですよ。邪魔するハメになったらどうしよう。
ネイちゃんたち曰く、資料庫の本はさほど多くない。ネイちゃん自身も一通り読んだことがあり、目新しい情報はないはずだ。だが、初めて読む人間なら、違った見方ができるかもしれない。
――……ますます責任重大じゃないですか!まさか『あいうえお表』くらいしか解読できないなんて思ってもいないんだろう。
うまく言い出せずにいるうちに資料庫とやらに到着した。里自体は大きなドーム状だが、ドーム内ですべての生命活動が完了している関係から、移動にはさほど時間はかからない作りである。
「ここが、資料庫ですの。大部分はガラクタですけど、接触して壊さないようにしてくださいませね」
図書館とは違い、書棚で占められた部屋というわけではなく、部屋の一角に本が並んでいるという部屋だった。本自体は百冊もないだろう。木箱が山となっているし、なんだかよく分からない機材もたくさんある。
「車輪ですか、これ?」
部屋の一角に置いてあったものを指さしてわたしが尋ねると、ネイちゃんは渋い表情を浮かべた。今はそれどころじゃない、ということだろうか。
「……それは、あまり上手くいっていないものなんですのよ。里はあまり広くないので各工房で一時保留になったものもここに置いてありますわ」
沈痛な表情のまま首を振り、「それはそうと」とネイちゃんは続けた。「今は、『水魔の花』の件です」室内にひとつだけあった机の上に花を置く。こうしておいて、本の描写と比較しようというわけだろう。
「ミスズさんはこちらの列から上をお願いします」
ここに至ってわたしは、なぜ自分がヘルプ要員だったのかを理解した。単純に、ネイちゃんの身長では資料庫の本棚の上の方に手が届かないのだ。おそらく普段は脚立みたいなのを使って取り出すに違いないが、本日は用意がないのである。納得。
わたしは『あいうえお表』を片手に持ち、どうせなら『単語帳』も一緒に持ち出せたら良かったのに、とひそかにため息をついた。
さて、肝心の文献検索についてだが。やはり役には立たなかった。
『女神』『水魔』『花』の単語が載っているかどうかで調べたので、そのフレーズがなかった場合は太刀打ちできないんだけど……。たぶん、この三フレーズのいずれも載っていないってことは、ないと思うんだよね、『水魔の花』を調べようと思うなら。『単語帳』は持ち出せなかったけど、さすがにこのくらいは覚えていたのだ。
「ありません、わね」
ネイちゃんは諦めたように息を吐いた。
「里に、本以外の資料はないんですか?あるいは聖堂の聖堂長様とか、そういう、女神の伝説に詳しいような方は?」
「里長なら多少は知っているでしょうけど、父は……あまりアテにならないのですわ。職人気質が悪い方に出ているといいますか、仕事をしていると他のことはいっさい目に入らない方なので」
「と、言いますと?」
「もう三日くらい工房にこもっておりまして、わたくしが声をかけようと気づきません」
「……」
「お腹がすいて倒れたころに回収して、一日くらい寝かせて、食事をさせるというのがいつものパターンですの」
「その、それは、とても身体によくないと、思いますよ……?」
「そういうわけなので、今はアテになりませんわ。やりかけの仕事が終われば話もできるでしょう」
そう言いながら、ネイちゃんはふと思いついたように天井を見上げた。
「里で一番の女神に関するものといえば……。あれですわね」
それは、里の天井を飾るステンドグラスだった。
「ドワーフ氏族が女神より泉を賜った時の様子で、ガラス職人たちが作りましたのよ。彼らの工房には、参考資料が残っているかもしれませんわね。そうでなくても工房主なら資料内容を覚えているでしょう……けれども」
ネイちゃんは難しい表情を浮かべる。
「さすがに、今は家に帰ってるでしょうね」
そう、なにしろ現時刻は深夜である。洞窟の中にあるドワーフ氏族の里には空がないため、昼も夜もよく分からないが。真夜中のはずなのだ。なにしろ、夕ご飯を食べてからかなり経っているし、とても眠い。
「かといって、早朝にしてよい案件とも思えませんし、いざという時はたたき起こす必要があるわけですから、早いか遅いかの違いです。行きますわよ」
ネイちゃんは勇ましくそう言って、ズカズカという足取りで資料庫を後にした。サイズは小さいのにこの行動力。たいしたものだと感心もするし、わたしも含めて寝不足でそろそろマズイんじゃと不安にもなる。
うっかりすると歩きながら寝てしまいそう。目がしょぼしょぼする。
地理の分からないわたしはネイちゃんの後ろをついていくしかなさそうなのに――と、そう思った時だった。
――ぐらっ。
あ、くる。
とっさにそう思ったわたしはその場に両足を踏ん張り、両手で頭を庇いながら周囲の様子を見やる。
「ネイちゃん、隠れて!」
山の中の洞窟内という立地条件からして、安全な場所なんて思いつかない。せめて机みたいな堅いものの下に隠れたいところだけど、工房へと移動中の状況からして、どこかの工房の中に飛び込むというくらいしか、そもそも屋根のある場所がない。だいたい工房って安全か?というと。――不安しかない。
わたしはネイちゃんを腕に抱えて、とにかく頭を抱え込んで丸くなった。
ドオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオン……!!
――ぐらぐらぐらぐらっ…………。
揺れは図書館で感じた地震よりも長かった。
完全に揺れがおさまるまで、目をぎゅっと閉じて耐える。
今になって後悔が沸き上がった。そもそもわたしは山の上にある図書館が地震で崩れて落ちてきた、のだと思われる。山が崩れるほど揺れているのに、一晩とはいえどうして洞窟の中が安全だと思ってしまったんだろう?
信用されるかどうかは別として、里の人たちに危険を訴えて、山の外にある避難所とやらにいち早く脱出するべきだと、地震大国である日本出身のわたしであればこそ、行動するべきだったんだ。ラオさんの意見に賛成だと、声高に告げるべきだった。
――ぐらぐらぐらぐら……。
長い。
……だけど、痛く、ない?
身体が揺れを感じなくなってから、わたしはおそるおそる目を開いた。
腕の中に抱え込んだネイちゃんは目を白黒させながらわたしを見上げている。幼稚園児程度のサイズのネイちゃんなので、多少暴れたところで腕から脱出はできなかっただろう。
「え……!?」
おそるべきことが、起きていた。
空が白む時間らしい。
山の向こうから太陽の光が届き、ステンドグラスを輝かせている。
女神と小人たちと泉を描いた美しい絵がドーム天井を舞台に描き出されている。山の色は、白くふちどられた緑色。泉の色は白と水色のタイルによりきらめきを表現しているようだ。泉の周りには淡いピンク色の花が咲いている。
泉があるのは洞窟の中らしい。洞窟自体は濃い紫なのに、黄色や緑、赤といった多種多様な色で輝いており、まるで星空の中に浮かんでいるかのようだ。
中央にいる女神は長い黒髪をした女性で、真っ白いドレスを身にまとっている。顔の細部は作られておらず、表情などは分からない。
泉を与えられた小人たちは彼女の子供のようにも見えた。
採光を利用して輝くようにしてある、という話だったけど、とてもそうは思えない。昨夜は天井に支えを渡してあったのに、それが失われているのである。空と大地を遮るのは細く伸びた支えと、ステンドグラスのみ。
昇り始めた太陽の輝きに照らし出されて、圧巻の美しさだ。
「や、山が」
ネイちゃんが唸るような声を漏らした。
そうなのだ。
山がなくなっている。人を拒むような高い雪山であったはずのそれが、ドワーフ氏族の里をその内側に抱え込んでいたはずの山が。
綺麗さっぱり消え失せていた。
山の残骸らしきものはあった。里全体を包むドームの外に、うず高く積まれた瓦礫がそれだと思われる。砕け落ちた岩ばかりだが、まるで里を囲む防壁のようだった。
「里が、ドワーフ氏族の技術の結晶だというのが、よく分かりました」
わたしの言葉にネイちゃんは首をひねった。
「地震で崩れるどころか、崩れた山から里全体を守り抜くなんて。どれだけ計算されて作られたのかはわかりませんけど、こんな技術、日本にだってあったかどうか」
山が崩れるような大地震であったなら、内部の洞窟なんて埋もれてしまうに決まっている。ドーム状の建物がそのままそっくり出てくるなんて、そんなこと、とても信じられない。
わたしの言葉にネイちゃんは、なおも首をひねっていたけれど、やがて一番大事なことに思い至ったらしく目を輝かせた。
「ええ、ええ、そうですわ!そのとおり!わたくしたちドワーフ氏族の技術の集大成といっても過言ではありませんから!申し上げましたでしょう?よそに避難なんてするよりも、この中にいるほうが安全に違いないって!ここに、まさしく証明されたわけですわね!!」
ネイちゃんは高らかにそう叫ぶと、わたしの腕の中から出て空に向かって拳を振り上げた。
「こうしちゃあ、いられませんわ!探索中だったメンバーが無事に戻っているかどうかの確認と、ついでに近隣の避難所が無事に機能しているかどうかの確認を行わないといけませんわね!!ええ、正直なところそこまでやって差し上げる義理はないんですが、どうしてもっていうなら、この里の中で一時避難させてあげることも考えなくちゃあいけませんもの!」
ドヤ顔極まれりの晴れ晴れした顔でそう叫んでいたネイちゃんの顔に、影がかかる。
ステンドグラスの向こう側。
里の上を覆うかのように翼を広げた影がひとつ。
顔立ちは爬虫類とも、鳥類ともつかない。
羽毛とは縁のなさそうな皮膜の翼は二対。こんな巨体を浮かび上がらせるほどの大きさではないと思うのに、どういった魔法を使えば空を飛べるのだろう。
絶句とは、こういうことを言うんだろう。
山裾から昇る朝日に翼を染め、雄大に羽ばたく姿はまさしく幻獣の王。
紫色に光る双眼がドームごしに里を見下ろしているのが見えた。
「グオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッッッッ!!」
咆哮。
空気を震わせて全身をすくませる恐ろしい声。
凍り付いたように身動きができなくなる。
大きく口を開けた獣から放たれる、白と銀に輝く光の塊。
カァアアアアアアアアアアアアアアアアアアッッッ……
音もなく降り注いだそれが、ドームを覆いつくして白く染め上げる。補強材がビシビシと悲鳴を上げ、ステンドグラスがパラパラと舞い散っていく。
嵐のように。
吹雪のように。
――まさか、これは。
誰のものとも分からぬ声が漏れた。
「ド、ドラゴン……」
顔色を失ったネイちゃんがクタクタっと地面に座り込んだ。
「ネイっ!」
駆けつけてきたのは帽子をかぶった小人さん、テクさんだ。天井から舞い落ちるステンドグラスの欠片を背景に、まるで物語の一枚絵のよう。光の雨で美しい。倒れかけたネイちゃんはテクさんの姿を見てホッとしたように表情を緩ませた。テクさんの手が優しくネイちゃんの背を支える。
「テク……」
テクさんはすばやく遮蔽をとった。ドーム越しに見えるドラゴンの視線から隠れるよう、天井から舞い落ちてくるステンドグラスの破片を避けるように。
「ネイ。先に報告するっスよ。追加で洞窟に向かったメンバーは、デカブツが現れるよりも前に里に戻ってて、無事っス。……けど、爺さんのうちひとりが婆さん探しに出ちまってるっス」
「ええっ……」
「あのドラゴンは、間違いなく山に住んでるドラゴンっス。今朝方、山を崩して現れたように見えたんスけど、そもそも数日前から山の周辺で飛び交っているのが避難所では発見されてるんスよね」
「う、うそでしょう?聞いたことありませんわ、そんな」
「里には外の情報は入りづらいスから。雪崩も、そもそもドラゴンがこんな季節に住処から出てきたせいじゃないかって噂してたっス。氷のブレスで衝撃与えたせいじゃないかって」
困惑と混乱を表情に乗せたネイちゃんを、テクさんが支えて立ち上がらせた。そのまま、手を添えたまま歩き出す。
「お嬢さんも、悪いっスけど避難所へ向かうのはもう少し待ってくれるっスか
「は、はい」
こくこく、と部外者なりの配慮のつもりで数歩下がったところをついていく、わたし。
いや、その、ですね?
そういう場合じゃないと思うんですが。ネイちゃんとテクさんの間に漂う信頼感とか、そういう雰囲気が、とっても良い感じなのです。惜しむらくはふたりとも一メートル弱サイズなので人形劇みたい。
ドラゴンの襲撃という、おおよそ安心からほど遠い状況でなかったらどんなにかいいだろう。
「それで、どこに連れてきゃいいスかね?里長か、ラオさんとこか」
テクさんの問いに、ネイちゃんはぐっと表情を引き締めた。キリっとした、里長の娘に相応しい毅然とした顔だ。
「朝ごはんですわよ。緊急事態だからこそ、ドラゴンに気づいた住民たちがパニックに陥りかねない。たぶん、声で皆さん起きだしてしまってる。状況を確認して、脱出先も考えないといけませんわ」
「……それでこそ、ネイっスね」
にやっとテクさんは笑った。
その後ろをついていきながら、ああ、とわたしは肩を落とした。
どう考えても今日は、もう眠れそうにない。目を閉じたらそのまま眠ってしまいそうなほどなのに。ネイちゃんときたら危機を前にして眠気が吹っ飛んでしまったらしい。




