第十一話 パチモノ聖女の活動(後)
わたしたちは、馬車ごと山道を下った場所へと連れていかれた。
粗末な小屋だが、秘密基地というよりは彼らの居住区であるらしい。雨を避けられる程度の屋根と、砂避けと思われる布を壁代わりにした小さな小屋だ。
あまり拘束されている気はしない。
「困りました。どうしましょう、エルヴィンさん」
誘拐犯と言っても、以前の元聖堂長とは目的が違う。営利誘拐ということは、目的は金銭。ところが、……頼ろうにも、わたしにはお金を持った引受人に心当たりがないのである。
立場上アクアシュタット王国からお手当てをもらっている身だけど、王様もこんな形での金銭を用意してくれはしないだろう。
「んー。いや、ちょっと考えてる。ミスズ殿はもうしばらく、正体隠しといてくれ」
そう言って、エルヴィンさんは営利誘拐犯たちへと目を向けた。
確かに彼らは武器を持っている。だけどそれは、仮にも騎士と呼ばれる人たちを脅すには物足りないものだった。先を尖らせた竹槍みたいなものや、刃の欠けた斧、錆びた剣など実用に耐えるとは思えないものばかりなのだ。エルヴィンさんたちは正式な騎士であり、かつ護衛中。腰には立派な剣を携えているのだから、いざ抵抗しようとすれば可能のはず。それをしないということは、別の解決手段を考えているのだと思う。
彼らの顔色はひどく悪い。それに、その衣装にも覚えがあった。広場で音楽を流していた三人組と似た服装なのだ。
――『病気の子供を治すための薬を』
確か、そんなことが書かれてあったはず。
病気と毒とは違うという話だったけど、もしかしたらという可能性もある。そういった話題を出すのだろうとエルヴィンさんを見ていたのだけど、彼は何やら考えている風で、わたしを『聖女もどき』だとはいつまでも言いださなかった。
エルヴィンさんが誘拐犯のリーダーと交渉をはじめたのは、その日の夜である。
護衛四人がかりで馬車を護っていたことで、もっとも重要なものは馬車の中だと伝わったのだろう。
リーダーは「中を見せロ」と言ってきたのである。横に二人ほど覆面姿の人を連れている。
誘拐犯のリーダーは、まだ若い印象だった。二十代前半だろう。民族衣装に身を包んだ姿は、ワイルドガイという言葉が似合う、顔立ちは整っているんだけどイケメンさんという言葉の似合わない人物だった。背も高いけど、それ以上に厚みがあって、ガッシリしている。今は若い狼みたいだけど、十年後はきっと虎に例えられるに違いない。
わたしは荷物と一緒に馬車に入ったまま。ハラハラしながら様子をうかがっていた。幌の隙間からそっと覗きながら彼らの交渉を見守る。
エルヴィンさんもまた、三人の護衛を後ろに引きつれてリーダーを見返した。これ見よがしに差した腰の剣も外さない。三対四、数の上ではこちらが有利に見えた。
「先に確認しておくんだがな。おまえらの頭領はどうしたんだ」
え?
現れたリーダーさんは若い印象だったけど、てっきりこの人が代表なのだと思っていたわたしは、驚いて目を丸くする。
「少数とはいえ、アクアシュタット王国とは友好関係にある民族だ。貴人だと見込んだならなおのこと、こんな真似をすれば敵対民族と見なされる。場合によっちゃあおまえら一族丸ごと潰されるって分かった上でやってんだろうなあ?」
脅すようなエルヴィンさんの言葉に、リーダーの隣にいた人たちに動揺が走る。
「ワタシがリーダーだ」
「頭領が交代したって報告は受けてねえ」
「頭領ハ頼りにナラン。放ってオケバ絶滅する事態に、アクアシュタット王国の加護に頼ろうとするバカリだ」
「ほお?んじゃあ、おまえらの独断か、これは」
「ワタシが新たなリーダーだと言ってイル!頭領など……」
「連れてこいよ」
「ナニ!?」
「頭領をここに連れてこいっつってんだ。おまえらの見込みが正しいかどうかは別だぜ?馬車の中身を見たいなら、頭領を連れてくるか力押しでやるこったな。ただし……」
そう言って、エルヴィンさんは腕を組んだまま腰に下げた剣を指し示す。
「騎士の剣を抜かせたら、おまえら首と胴がつながってないぜ」
ザワザワとリーダーたちは相談に移った。
隣にいる人たちとしては頭領に伝えた方がいいのではないかと説得するのだけど、リーダーさんは聞かない。騎士などと言ったところで口だけだ、こちらの方が人数が多いと騒ぎ立てる。この場に関しては人数でも負けてるってことは、考慮していないらしい。
その様子を黙ってみていたエルヴィンさんは、リーダー相手には埒が明かないと見て、他二人へと声をかけた。
「頭領を連れてくれば、そのリーダー以外は見逃してやってもいい」
ザワ、と二人はとたんにどよめき、慌ててその場を駆け出していく。
「オ、オマエラ、裏切る気カ!」
リーダーの動揺を、エルヴィンさんは見下すような目で見やった。
「器じゃねえな」
「貴様、騎士の風上ニモ置けない男ダ……!コンナ、礼儀も何もないような奴が騎士ナノカ……!」
「そりゃ、おまえに言われたくねえ。しかるべき態度で出迎えられれば礼儀も見せるが、本来騎士隊は軍隊であって治安維持が目的なんでな。望まれもしない荒事起こそうとしているような奴は、問答無用で叩き切られても文句は言えねえよ」
「こ、コノっ……」
「そもそも、誘拐の目的が金な時点でもうフォローできねえ。同情される余地があるやつらは、金じゃなくて物を求めるんだよ。待遇改善だとか、食糧だとかな。金ってのは、なんにでも変わる。そういうもんを求める奴は信用されねえ」
「……っ!」
やがて二人によって連れられてきた頭領さんは、――最初からここに現れなかった理由が分かるほど、衰弱していた。
まず、顔色が悪い。自分で歩くこともできないのか、二人によって左右から支えられ、ようやく小屋に入ってきたところで座らせられる。
その様子を見て、リーダーが悔しげな顔をした。頭領さんのこの姿を見られたくなかったのだろう。エルヴィンさんはといえば、表情が変わらない。頭領さんの姿を見ても驚いたりといった様子は見せなかった。
「ゴルト騎士隊、副隊長のエルヴィンだ。今回のこの手荒な歓迎について説明願いたい」
エルヴィンさんの言葉に、リーダーが顔色を変える。
「貴様、頭領が話せる状態ダト思ってるノカ!?この悪魔メ!」
「おまえには聞いてない」
吐き捨てるような声で言った後、エルヴィンさんは頭領さんを見やる。
「代弁が必要であれば、左右のいずれかの口から聞こう。
……重ねて言う。今回の件について、何か言うことは?」
ふがふが、と頭領さんの口が動く。
「む、息子が……申し訳ないことを……」
「親父!ナンデ謝るんダ!!」
なるほど、リーダーさんは頭領さんの息子さんだったのだ。代表役としては申し分ない立場である。
だけどエルヴィンさんはなおも強い態度を崩さない。
「こちらは、国の大事を務めている最中だった。それを途中で遮った以上それなりの状況でなければ納得はできん。ましてや手荒な真似をされ、我らが主人はひどく立腹している」
えっ。
エルヴィンさんの言う主人が自分のことであることに気づき、わたしは馬車の中でギョッとした。
姿を見せていないから、わたしの様子は向こうには伝わっていないはずだ。女であることも気づいていないだろう。
立腹の言葉を聞いた頭領さんはさらに青ざめ、その衰弱した身体で床に這いつくばるように頭を下げた。
「な、なにとぞ……。なにとぞお許しください。里の子供たちが病気に倒れ、一刻も早く医者に診せたいと、それゆえの暴走なのです。どうか……どうか平にご容赦を」
「ならば最初からそう言えばいいものを」
エルヴィンさんはどこまでも高慢そうな態度を示した。
「大方、王都に報告に向かう役所に申し入れをしたところで情報が止まっていた類だろう。
……いかがしますか、ミスズ殿?」
ひえええ、ここでわたしに振るの!?
どういう態度をとれば正解なのかどうか、さっぱり分からずにいるわたしの目の前で幌が開く。
頭領さんやリーダーさんは、エルヴィンさんの様子からどんな貴人が乗っているのかとビクビクしていたに違いない。それが、ちょこんと馬車の中央に座ったもこもこコートのわたしを見て……驚いたように目を見開いた。
「聖女、ミスズ殿だ。
そなたらの里の民に、王都の広場まで出稼ぎに出ている者がいたな?」
「は、はい……」
「先日、それを見かけられたミスズ殿はひどく心を痛められた。少しでも痛みを和らげることができればとおっしゃるので、こうして馬車を駆ってこちらに出向いてこられたのだ」
「なんと……!?」
「そ、ソンナ!?」
頭領さん、それにリーダーさんの表情は、青を通りこして白くなった。
「そのようなお気持ちを無下にするような態度をとられ、ミスズ殿の心に負われた傷は深いぞ」
脅すような言葉が怖くて、わたしはこそこそと口を挟んだ。
「エ、エルヴィンさん、どうかそのくらいに……」
「いけません。ここはビシーッと……」
そう言うエルヴィンさんの顔が、――歪んだ。
「……っく」
肩を震わせ、口元を片手で押さえ、今にも何かを吹き出さんばかりの勢いで――……。?
「エ、エルヴィンさん……?」
「い、いやあ。ついノリノリでやっちまったんだけどさあ。オレ、悪者騎士もイケてる気がしねえ?ミスズ殿」
「へ……」
吹き出し笑いを堪えきってない顔で、涙さえうっすら浮かべたエルヴィンさんは、事態が把握できずにいる頭領さんたちに、片手をひらひらさせながらこう続けた。
「まあ、ミスズ殿はこのとおり、小物然としたお方だから、これ以上おまえらを責めようとはしねえ。けどなあ、貴人と分かってる相手を誘拐しようとした罪は放っておけねえ。分かるな?」
「は、はい……」
「この沙汰は後ほど通知する。頭領、並びにその息子。おまえらは覚悟しとけ」
うなだれる頭領さんを横目で見やりながら、エルヴィンさんは言う。
「聖女ミスズ殿は、おまえらの里にある《女神の泉》を浄化しに来た。案内人くらいは用意できるだろうな」
「……子供たちは、ドウナル」
リーダーさん……というべきか息子さんと言うべきか。諦めたように頭を下げた頭領さんと違い、リーダーさんはすぐには屈しなかった。
「あの、エルヴィンさん。ダメ元で診ても良いですか?もし、悪い水に中ったとかでしたら、治せるかも……」
「ダメだ」
にべもなく彼は言った。
「第一、今回のオレたちはラインホルトを連れてねえ。ミスズ殿が許容限界を超えた場合、回復手段がねえんだよ。本命を終えてからならともかく、その前に寄り道することは許可しねえ。
クライフはミスズ殿のお願いに弱いから、ついつい許可しちまうんだろうけど、今回はダメ」
「……」
エルヴィンさんの言葉はごもっともで、それ以上頼み続けることはわたしにはできなかった。
「本命の浄化が終わった後なら、診る時間をとってもいいけど」
「そんな悠長なコトをシテイテ、子供たちに万が一のことがあったら、どうしてクレル!?」
「おまえ、それが言える立場だと思ってんのか」
ジロリと睨んだエルヴィンさんに、今にも噛みつかんばかりのリーダーさんが怒鳴り返す。
「ならばその案内人、ワタシが務める。ソノ代わり、子供たちのことも診てクレ!」
リーダーさんの申し出に、エルヴィンさんは嫌そうな顔をした。
※ ※ ※
リーダーは、ガイさんというらしい。
《女神の泉》までの道中は、残り二日。その間、案内人としてガイさんがついてくることに、エルヴィンさんは嫌そうな表情を隠さない。別の人物に変えてくれとまで頭領さんに言ったのだけど、泉まで歩く元気のある人物は他におらず、また、誘拐の罪を少しでも軽くしておきたい意図があるのか、代案は上がってこなかった。
ガタガタと山道を進む馬車。先頭に立つのはガイさんで、嫌そうな顔で二番手を務めるのがエルヴィンさん。残り三人の護衛は、馬車を囲んでいる。
一日分の道程を終えたところで休憩することになり、わたしたちは焚き火を囲んだ。
闇梟の刺客を警戒して、わたしは馬車の中で待機である。一人で食べるご飯は侘しくて、ついつい外での会話に耳を傾けてしまう。
「《女神の泉》に、異常は?」
「奥まったトコロにあるカラ、わざわざ行かナイ。だが、異常がアルという話は聞いたことがナイ」
「病気が流行りだしたのはいつだ?」
「数か月ほど前……。空に、不吉ノ星が瞬いた時がアッタ。それがハジマリだ。最初に、ワタシの弟が倒れ、シバラクしてから他の子供たちもバタバタと倒れた」
「数か月前だ!?それ、ちゃんと王都に報告したのかよ!?さすがに放置ってレベルじゃねえぞ!?」
「最初のコロは、誰もそんなことは考えナカッタ。里の子供が病に倒れることは、ヨクアル。ここは心身ともに健康に育つには過酷な環境だ。ソレにアクアシュタット王国に助けを求めれば、独立した生活が送れなくなる。……頭領が、助けを求めると言い出したのは一か月くらい前ダ」
「それにしたって一か月は……。ああ、いや、一か月か。それだとミスズ殿がフォアンに行ってるのと入れ違いになったのかもしれねえな。国王陛下も、つなぎの医者を派遣してやればいいものを」
エルヴィンさんはぶちぶちと文句を漏らした後、「で」と続けた。
「《女神の泉》は汚染されてないんだな?」
「ソレがよく分からナイ。《女神の泉》が汚染されるというのは、どういう意味だ?」
「どういうって……えーと。ミスズ殿ー」
馬車の中で黙々と野菜粥を食べていたわたしの耳に、エルヴィンさんが呼ぶ声が聞こえてくる。
顔を出していいものかどうか悩んだ末、わたしはチラッとだけ幌から顔を覗かせた。
「はい」
「《女神の泉》が汚染されるってどういう意味かって聞かれてんだけどさ。あれって、外から見るとどういう風?」
会話を聞くだけだと、エルヴィンさんとガイさんはずいぶん打ち解けたように思えたのだけど、焚き火を囲む二人はわりと距離があった。
エルヴィンさんの手元にはいつでも抜けるように剣が置かれているし、ガイさんはガイさんで、三人の護衛さんたちとも距離をとった位置に座っている。
わたしは幌から顔だけ見せつつ、少し考えてから答える。
「水の色が紫色になることが多いです。毒素が少ない時は、無色透明に見えますが、濃くなるほど紫色になっていきますね。それと、――花が。花びらが紫色の綺麗な花が泉のほとりに咲いていることが多いです」
「ああ、そうそう、それだそれ」
エルヴィンさんはポンと手を叩いて、それからガイさんを見やる。
「《水魔の花》を見たことはねえか?紫色の綺麗な花だけど、花自体が毒を持ってんだよ。直接触らない方がいい」
「……」
ガイさんは首をひねった後、こう答えた。
「サッキも言ったが、奥まった場所にアルので里の者は行かナイ。泉から細い川が流れこんでイテ、里の者はそれを使ってイル。だが、泉の側に住んでイル女がいるから、彼女に聞けば分かるカモしれナイ」
「女?」
「紫色の髪をシタ――訳ありそうな女ダ」
たどり着いた《女神の泉》は汚染されていなかった。
本来であれば、これを確認して終わり。念のため、浄化として泉に足を踏み入れておく必要はあるだろうけど、「確認したけどここは無事でした。無駄足だったけど良かったね」で終わるところだ。
ところが、そうもいかない。
ガイさんの情報が確かならば、この泉のそばに女が住んでいる。
紫色の髪。
そのフレーズで思い浮かぶのは一人しかいない。水魔その人である。ヨーロッパ風の風土を持つこのアクアシュタット王国では、頭髪の色は金、銀、茶、黒。たまに赤。紫色の髪というのはあまり聞かないし、王都でも見かけたことはない。
エルヴィンさんも同じだったらしく、ガイさんの言葉を聞くなりその表情が怖い物になった。
「家はどこなんですか?」
「知らナイ」
ガイさんは首を振った。
「訳ありそうな女に、ソコまで踏みこんで聞くヨウナ者は里にはイナイ。第一、女の一人暮らしで家を明かしタラ物騒ダロウ」
モラルがあるのかないのか、分からない人である。たぶん、身内にはすごく優しくて余所者には厳しいタイプなんだろうな。
「じゃあ、どうやって逢えば……」
「日に一回は、泉の様子を見にいくラシイと聞いた。待っていれば会えるハズだ」
踏みこんで聞きはしなくても興味はある、と。なかなか複雑な人である。
他に手がかりはないので、わたしたちは泉のそばにテントを張って、待機することになった。
夜明け前の空は、暗い。
木々の少ない山岳とはいえ、《女神の泉》のそばはやはり木々が生い茂っている。豊かな水があるからなのか、女神の祝福なのか、それは分からないけれど。
《女神の泉》は、中央に女神像が安置されていた。どうやって設置したのかは分からないけど、まるで泉の中に降臨する女神のように見える。直径五メートルほどの、正円形の泉だ。
水の中には二箇所、噴水のように盛り上がっている場所があり、どうやらその下から湧き上がっているようだった。波紋もそこから広がっている。コンコンと湧き上がる水はそのまま泉をあふれ出て、川になってガイさんの里へと流れていく。
紫色の花は咲いていなかった。暗くて見えないだけという可能性もあるから、日が昇ったら改めて探索した方がいいかもしれない。
もう何度目になるか分からない浄化が、心細く感じるのは、クライフさんがいないせいだろうか。
エルヴィンさんが焚き火を用意してくれている間に、テントの中で着替えを済ませた。秋も深まり、間もなく冬がやってくるというこの時期。浴衣もどきを一枚身に着けただけの姿はとんでもなく寒い。
そろそろ慣れてもいいころだろうに、わたしの身体は修験者とは縁がなかったのだろう。
三人の護衛は泉の周囲を見張りに行ったため、テントそばにいるのはエルヴィンさんとガイさんの二人だけ。
ちゃぷん、と小さな水音を立てて、わたしの足指が泉に踏み入れる。
狭く深い泉らしく、少し足を入れただけでは底につかなかった。
――深い。一メートル以上ある?そろそろと足を下ろしていきながら、わたしは泉の端に座り、その冷たい水に感覚が失せていくのを感じながら泉の中へと身を投じる。
かろうじてつま先が触れたけれど、わたしの身長と同程度ありそうだ。爪先立ちでも顔まで水が届いてしまうため、止む無く泉の縁に手を添えて、宙ぶらりんの状態で留まる。
……違う。足元が沼なのだ。土が堆積しているため、底に足をつけようとすると飲みこまれてしまいそうになる。
ビリビリと肌に感じる感触は、毒素を吸いこんでいる時特有の感覚だった。
「ミスズ殿、どうした?念のためだし、さっさと上がって――」
「――いえ。もう少し。この泉は確かに『汚染されて』います」
覚悟を決める必要がある。わたしは泉の縁に触れていた手を離し、そのまま中央へと身体を動かした。
水の浮力が手伝って、そのまま沈んでいったりはしない。
だけど、目を閉じて浄化を願う姿勢は、浮いているかのように不安定だった。
一、十、百――
待ちかねていた奇跡の瞬間が訪れたのは、頭の中で二百秒を数えた時である。
わたしを中心にした波紋が広がり、泉を浄化していく感覚。
泉の見た目にはどこも紫色はなかったけれど、それが無色透明の清らかな水へと変わっていった、はず――……。
「!?」
ごふっと、お腹の底から逆流してくる感覚に、わたしは思わずのけ反った。
口元を押さえ、慌てて泉の縁にしがみつく。
「う、うぐっ、ごほっ、がはっ……」
吸収できない何かが、身体の中に入りこんできた。
身体が拒否反応を起こして外へと放り出そうとする。このまま吐き出していいものかどうかも分からない。
「ミスズ殿!?」
エルヴィンさんが慌てた声を上げる。その声を聞きながら、もう一方の耳が女の声を拾った。
――『泉の魔女。油断したなあ?』
水魔の、声。
――『色を誤魔化せば気づかれぬやもとは思うたが、予想通りとは滑稽よのう。泥の下に花を隠しておったのに、気づかなんだか』
「すい、ま……。どこにいるんです……?」
――『見えぬか?そうであろうなあ。夜明け前のこと、そなたの目では見えぬであろうよ。本物の聖女となればいともたやすいことであろうに、惜しい惜しい』
「出て、きな、さい……!」
――『我らは挑発になぞ乗らぬ。我らには時間がある。だが、この里はもう諦めるとしよう。元より数の少ない場所は、時間がかかるばかりで効率が悪い』
水魔は最後まで姿を見せなかった。
泉の縁に身体を預け、ゲホゲホと咳きこんだわたしは、やがて息が整った後、再び泉へと踏み入れた。
身体の中に取りこんでしまった異物は、もう出せない。水魔の毒素とは違うもののようだから、ラインホルトさんに相談しなければいけないだろうけど、今この場でなんとかできるものではないはずだ。
倒れて、気を失って、助けてくれるはずのクライフさんもいない。
「おい、ミスズ殿っ……」
エルヴィンさんの声がする。振り返りもせずに、わたしは続けた。
「周囲を、見張っていてください、エルヴィンさん。
無防備な瞬間が一番刺客の狙いやすいタイミング、なんですよね」
「そ、それはそうだが。……あまり無事そうじゃねえぞ!?」
「もし、泉の中央で気を失ったら、その時だけ引き揚げてくださると助かります」
言葉を残してわたしは進む。
目を閉じて、毒素を浄化することだけを考える。
ビリビリと這い上がってくる異物感は、先ほどと同じ。花が咲いているのは――足下の、泥の下。完全に取り去ろうとするならば、泉の中で泥浚いでもしなければ無理だろう。
道具もない状態で、願いようもない話。
奇跡は起きた。
泉の底から波紋が広がり、周囲へと伝染していく。
泥の底に隠れていた紫色の塊が、無色透明に変えられていく。紫という色だけを抜き出して、自分の中に取り込んでしまうのかもしれない。
後に残る花は、色のない真っ白の花びらを散らしている。
毒々しい塊が身体の中に入りこんでくる。溜め込み過ぎた毒は、熱となって頭に響く。
――一、十、百、二百、三百――。
頭の中で重ねる数字は、どんどん数を増していく。
いつ果てるのかも分からない奇跡の発現だけど、途中で止めたら無意味なものになってしまう。
……まだ、倒れちゃいけない。この後、ガイさんとの約束が待っている。子供たちの病状を診て、もし役に立てるなら何かしたい。
だけど、奇跡の終わりを見届けて泉の縁に上がるのが限界だった。
泉のそばにはエルヴィンさんとガイさんがいて、奇跡を目の当たりしたことで驚きの表情を浮かべていた。
「……女神……」
熱に浮かされたような声で呟いたのがどちらだったのか、わたしには分からなかった。
※ ※ ※
目が覚めたらラインホルトさんがいた。
「へっ!?」
自分がどこにいるのか分からず、頭に疑問符を浮かべながら起き上がる。
聖堂――ではないようだった。目の前のラインホルトさんも旅装束で、寝かされているのは粗末な小屋の片隅だ。風を遮るだけの壁と屋根があるだけの小屋に、ゴザみたいのが敷かれ、そこに寝かされている。
掛布団代わりにされているのはクライフさんから受け取った白いコートだった。
「え?え、えー……?あの、どうして、ここに」
「二十点。……それが挨拶か」
「す、すみません!おはようございます?」
「もうこんばんはだな。まあ、いい。おまえは《女神の泉》から自力で戻ってきた後、ここで半日以上寝ていた。覚えてるか?」
覚えてない。ぶんぶんと首を横に振ってから、自分の記憶を探る。
山岳の里の《女神の泉》で倒れたのは確かだ。高熱を出して倒れたというわけではなく、テントの中で一寝入りをしたらすっかり回復していた。寒すぎて身体が冷え、身動きができなくなっていたらしい。
そばでエルヴィンさんが青い顔をしていたけれど、高熱を出してはいなかったので、揺れる馬車に乗せるより動かさない方がいいだろうと判断してくれたらしい。ガイさんはテント内にはいなかった。
聞けば、「アレを近づけておく方が危険そうだった」とのことで。エルヴィンさんとガイさんとの間の確執はそんな簡単には晴れるものじゃないようだった。
「それにしても、あれが浄化か……」とエルヴィンさんが言い、「そういえばはじめてお見せするんでしたよね」とわたしが答えると、彼はポリポリと頬のあたりを指でかきながらこう言った。
「クライフが他の誰にも見せたくねえっつってた理由は分かった。あれを毎回見てて、よく理性が保つもんだ」
「え?」
「理性が保ちそうにないどっかの野犬は立ち入り禁止にしといたんで心配すんな」
「??……あの、どういう意味です……?」
「神々しいのに華奢で、それでいてとんでもなく綺麗だ」
「……」
どうやら褒められたらしい。思わず顔を赤らめたわたしに、エルヴィンさんは目をそらした。
「そのカッコで顔を赤らめられるとオレの理性もどうにかなりそうなんで止めといてくれよ。そんでもって、テントだとどうしたって冷えるからな、里まで強行するが、大丈夫か」
「は、はい」
確かに、この時点でのわたしの恰好は、ファニーさんに作ってもらった水着一枚に、白いコートを着ているという……なんだか変態さんみたいな姿だ。タオルで水気を吸い取っているので、直接肌に暖かさが伝わる分、あったかいのだけど、人目に晒せる姿じゃない。
着替えなくちゃという言葉は頭に浮かんだが、ドッと疲れが出て、目を閉じたわたしは――いつのまにか眠ってしまっていたのである。
「……どうやら着替え損ねたみたいです」
エルヴィンさんとしては、移動前に着替えるよう指示したつもりだったんだろう。ところがわたしはそのまま眠ってしまったわけだ。風邪を引かなくてよかった……。
「マヌケ」
ラインホルトさんはいつも通りクールに言い放った後、「だが」と続けた。
「王都でおまえがやったことは実を結んだと言ってもいい」
「王都?」
「ここの連中に寄付金を払ったらしいな?病気の子供を治したいだとかいう……」
「!!」
ハッとなってわたしは起き上がろうとした。
「わたし、約束してたのに!ガイさんはどちらです?わたし、子供たちの病気を診るって……!」
「必要ない。そのために、王都で一番の医者が派遣されたんだ」
王都で一番の医者。その言葉に該当するのは目の前にいる人物だけだ。
ラインホルトさんは迷惑そうに、「そういうわけだから、今は気がねなく寝ておけ」と息を吐いた。
「王都に戻ったら、おそらく山岳地方の少数民族のことなど思い出していられなくなる」