第七話 パチモノ聖女の正義(後)
しばらく目が見えなくなった。
視界が白く覆われて、馬上でただ目をパチクリさせる。目元を抑えて落ち着きたいところだけど、腕はクライフさんに抑えられていて動かせない。
「……雷鳥、……」
ポツリと呟いたクライフさんの声に驚いた。
「み、見えるんですか?」
あれだけ眩しかったのに。そう思いながら尋ねると、クライフさんは、少々複雑そうに説明してくれた。
「ラインホルトから借りた視力矯正具のおかげでしょう。……見えています。生きている間に雷鳥を視認する機会がくるとは思いませんでした」
サングラスの意外な効用。太陽を見るためだけじゃないらしい。
それと、オリジナルは確かに視力矯正具だと思うけど、たぶんそのサングラスに度は入っていない。視力の合わないメガネをしてたら、馬に乗ったりできないだろうし。
「雷鳥、何か言ってますか?
わたしたちは敵じゃない、あなたの助けを呼ぶ声に答えに来たんだって伝えてほしいんですけど」
クライフさんからの返答はなかった。
代わりに、……甲高い声が返ってきた。
――キュイィィィィン!!
高い、高い声。鳥の声だと聞かされれば納得のいく声だったが、雷の鳴る音だと言われたら首をひねらざるをえない。
やがて視力が戻ってきた時、目の前に見えたのは、それはそれは大きな、……鳥だった。
鳥である。姿はキジに似ている。羽の色は灰褐色で、図鑑で見たことのあるライチョウとは多少異なるようだった。わたしが以前見たことがあるのは目の上に赤い模様のようなものがあった。アイシャドウみたいで可愛いなと思った覚えがある。
ただし、大きい。王都にある二階建ての建物くらいあるのだ。
川の対岸に着地したというのに、すぐ間近にいるかのように見える。縮尺がおかしい。
地面に着地したからか、今は雷光をまとっていない。
クライフさんに一声かけてから、わたしは声を張り上げた。
「雷鳥さんですね!わたし、新垣水涼と……。あ、いや、ミスズ・ニイガキと申します!
三か月ほど前に『聖女もどき』になりました。今はこちらのクライフさんの騎士隊でご厄介になっております。
飛んでいるあなたのメッセージを受け取って、やってきました!」
――キュイィィィン!イイイン!
再び甲高い声。
今度は、別のものも一緒に聞こえた。
ふわっと羽を広げた雷鳥が、その場から舞い上がり、片足の爪をわたしたちの元へと向けてきたのだ。
思わずその場から離れようとするクライフさんを目で止めて、ジッと我慢する。
雷鳥は、馬ごとわたしたちを空へと運びはじめた。
拘束された馬が、命の危機を感じて喚き暴れる。その太くて鋭い爪を見て暴れるなという方が無理だろう。なにより、雷鳥は肉食なのだ。
『餌よ、動くでない。本当に食うぞ』
雷鳥の声は頭の中に響いてきた。女性の声に聞こえる。水魔のような高慢そうなものではなく、もっと大らかな、それでいて低い声だった。年配の女性のものだろう。
怯える馬が、涙を流さんばかりに悲鳴を上げながら大人しくなる。ガクガクと震えているところを見ると、例え食べられなかったとしてもストレスでおかしくなってしまいそうだ。
「ら、雷鳥が喋っている……」
馬上でわたしを抱えているクライフさんが、愕然とした声で呟くのが聞こえた。
わたしはゴクリと息を呑みながら、うかつなことを発言しないようにと、それだけを気を付けていた。
大事なことなのでもう一度言おう。雷鳥は肉食の鳥だという。人里を襲わないとは聞いたが、人間を食べないとは聞かなかった。肉食動物が草食動物を狙う際、まず狙うのは群れからはぐれている弱者だ。雷鳥もおそらく同様で、はぐれ者を捕まえた方が楽だからに違いない。
空に舞い上がっている恐怖と、巨大生物に運ばれている恐怖とで、喉の奥が渇いてきた。こんな雨の中なのに、水が飲みたくてたまらない。
奥歯を噛みしめながらも不快感が表に出ないように耐える。
たどり着いたのは巨大な巣である。
上空から見下ろした様は、そこらの木の上に作られている巣と変わらない。丸みを帯びていて、小枝を組んで作られている。中央には雛らしき鳥が一羽いて、こちらをジッと見上げている。
あまり健康そうには見えなかった。ひどく痩せていて、ぐったりとしている。育ちざかりの元気な雛なら、母鳥が獲物を運んでくれば大口を開けてピイピイ叫ぶだろうに。
近づいていくうちに異常さに気づいた。
雷鳥が王都にある二階建ての建物なら、巣の方はお城くらいある。小枝ではなく大木を使って作られており、ゴツゴツしていて少しも居心地が良さそうではなかった。もっと羽毛みたいなものを使ってふわふわした巣にしておけばいいのに、と思うのは、巣の中でこちらを見ている雛が弱っているように見えたせいだった。
雷鳥はそのまま、わたしたちを巣の外に降ろした。
鋭い爪から逃れたとたん、馬が逃げ出そうとする。
『これ、餌よ。騒がしく暴れるでない。雛は飢えておるのだ、雛は渇いておるのだ、ただでさえも弱っておるのに枕元で暴れるような輩がおれば、我は黙ってはおらぬぞ』
母鳥の声に、馬は悲鳴を上げてその場に座り込んだ。
おそらくストレスがマッハだと思う。本当に、本当に連れてきてゴメン。あとでたっぷり休ませてあげるから、どうかストレスで死んだりしないで欲しい。
クライフさんも警戒を続けていた。この巨大な母子の前で身構えるなというのが無理かもしれない。いつでも剣が抜けるよう、いつでもわたしが庇えるよう、ピリピリしているのが伝わってくる。
そっと彼の腕に手を添えて、暴れるのは我慢してもらう。
「み、水は、どこですか?あなたの助けを求める声を聞いて、わたしはここまで来ました。
このあたりに《女神の泉》があると伺っています。それのことで良いでしょうか。さすがに、先ほどの川を丸ごと浄化しろというのは……できません」
泥水であり、毒水ではないのだろうけど。仮にそれを求められた場合、わたしのキャパシティを軽く超える。一瞬でキャパオーバーして倒れるだろう。
『聖女よ。水を助けてくれるのだな?』
はい、とわたしは返答しようとしたが、喉の奥がヒリヒリと熱くて声が出なかった。
『雄もついていくがいい。物騒な物を持たせたまま、我の雛のそばには置いておけん』
母鳥はそう言って、バサバサと羽を動かした。
とたんに起こる強風で、――数瞬の間、雨風が止んだ。
母鳥が指示したのは、確かに泉だった。
巨大な巨大な巣の横に、コンコンと湧き出している泉である。
噴水のように湧いており、森の中にあったらかなり大きい泉だと思ったはずだが、周囲には岩がゴロゴロしていて、地面は泥沼のようになっている。なによりも大きすぎる雷鳥の巣に隠れていて、見落としてしまうのは間違いなかった。
曇天と風雨の中、自力で見つけるのは不可能だったと思う。
馬から降り、クライフさんの雨避けの中から抜け出す。さすがに、彼に密着したままでは歩けない。わたしの分の雨避けがないため、雨風は容赦なくわたしを濡らしていく。
今いる場所は、雷鳥の巣の陰である。
大木で作られた巣なので、陰はちょうど庇のようになっていたのだ。ただ、横風と横雨が強くて雨宿りはできないんだけど。
「これを」
クライフさんはそう言って、わたしに雨避けを着せようとしたが、サイズ違いも甚だしく、かえって身動きができなくなりそうだった。
「それはクライフさんが着ていてください。帰りも使うでしょうし、その……、中が濡れると、一緒にいるわたしも……」
もごもごと伝えたが、彼には意味が通じなかったらしい。首をかしげられてしまった。
服が濡れた人物と密着して馬に乗るというのは、冷たすぎるというか、たぶん肌の感触とかが伝わってしまうというか、……非常に躊躇われる!ということが言いたかったのだけど。
「い、いえ、なんでもありません……」
せっかく雨避けを貸してくれようとした彼の厚意に水を差すようですみません。
「……あ、でも」
今更ながら、気づいてしまった。この状況だと着替えができない。せっかく浴衣もどきを持参してきたんだけど、着替え場所がないのだ。騎士服のままで浄化できるだろうか。時間をかければ平気かな?
「どうされました?」
「ああ、いえ、その……。どこで着替えようか、と……」
口ごもったわたしに、クライフさんは不思議そうに目を瞬かせた後、「……ああ」と小さく呟いた後、こう続けた。
「では、自分は後ろを向いています」
そう言って彼は、文字通り背を向けた。
……恥ずかしい。
こんな緊急事態でなかったら、絶対嫌だ第二弾である。
身内でもない成人男性が(身内でも嫌だけど)目の前にいるのに、いくら後ろ向いてるからってその前で服を着替えるのである。
更衣室を希望する!携帯テントプリーズ!!
とはいえ、こんな雨風の中でもたもたと時間をかけるわけにはいかない。
半べそをかきながら、わたしは着替えを済ませた。衣擦れの音は、雨風で聞こえなかったと信じよう。お互いの声も聞き取れないくらいの強風なんだし。
騎士服を脱いで、浴衣もどきを羽織る。中はもちろん、ファニーさんに作ってもらったビキニ水着である。……こんなに寒いのに。風雨でガタガタ震えながらビキニとか、頭がおかしいんじゃないかと思う。
クライフさんが雨から護ってくれていたので騎士服の上着は濡れていなかったが、馬に乗っていたのでズボンはさすがにびしょ濡れだった。再び穿く時に気持ち悪そうだけど仕方ない。
準備ができたので、雨で濡れた石の上をヨロヨロと進んでいった。砂利というか岩というか、そういったもので泉は囲われている。おかげで泥水は中には入りこんでいないのだが、雨のせいで水は濁っていた。
クライフさんが差し出してくれた手に掴まりながら、一歩一歩。少しでも油断すると足が滑ってズルッと転んでしまいそうになる。雷鳥の巣を形成している大木の上を通ればいいのだろうけど、こっちも濡れてズルズルしているので、同じな気がした。
……わたし、彼に手を借りるのに慣れ過ぎてしまっている気がする。こんなんで日本に帰って大丈夫だろうか。騎士様のレディーファーストに慣れると元の生活に戻れない気がする。
「大丈夫ですか、ミスズ殿」
集中力が途切れたのに気づかれたのか、クライフさんが声をかけてくる。
「だ、大丈夫です。……いきます」
女は度胸だ。
あと、もう一度やり直しするほど、根性は残ってないので。
泉にはやはり、紫色の花が咲いていた。
岩場の間からそっと抜け出るかのように茎を伸ばし、目立たない顔をして揺れている。風雨から身を護るため、こういう咲き方になるのかもしれない。
水魔はなぜ、この泉を狙ったんだろう。
雷鳥の巣の真横だなんて、普通の人間は近寄らない。だとすれば、水魔の狙いは雷鳥そのものだったはずだ。彼らがこの泉の水を呑むことを想定して、ここを狙ったはず。
ちゃぷん、と足の指先が泉に触れた。
凍えるような冷たさに、一瞬身体が硬直する。
氷水かなにかに身を沈めている気分だ。水風呂なんてものでは済まされない。
――死ぬぅうううう。
意識が遠くなるのを感じながら、数を数える。
今までの泉は二百秒が目安だったけど、今日のはきっと、もっと時間がかかる。
泉が大きいことと、激しい風雨のせいで濁っているせいで、その分まで吸収してしまうだろうから。
一、十、百……。数でも数えていないと、すぐ意識が持っていかれてしまうのだ。こんなところで気を失ったら、本格的に、死ぬ。
――三百一、三百二、三百三……。
まだか。まだ、足りないのか。
ピリピリと肌に伝わる微量の電気。毒素を身体に取りこんでいるのが分かる。
――三百五十三……。
意識が遠くなり、ふらあっと水の中に倒れこむ寸前。
泉の中からクライフさんによって引き揚げられたことだけは覚えていた。