第七話 パチモノ聖女の正義(前)
暗い空の中に光が走る。
―― 『――水を、』
黒い雲の中に光るそれが、まるで通信のようにわたしの脳裏に声を送ってくる。
――『雨を、水を。――助けて!!!!』
ひときわ白く輝く雷光が視界を覆う。轟く雷鳴は、悲鳴に聞こえた。
「ッ……!」
深夜。わたしは夢にうなされるようにして起き上がった。
寝間着としてわたしが着ているのは、例の浴衣もどきの服である。ロングワンピースのまま寝るわけにはいかないし、騎士服(お古)は寝間着には向かないからだ。水を浄化する時に着る物とは別に、寝巻き用として一着確保しているのである。
呼ばれた気がして窓際に近づく。――外は雨が降っていた。
台風並みの土砂降りである。明日一日は待機と聞いたけど、明後日に晴れるという保証はない。晴れたとしても地面がぬかるんでいて馬車を走らせるなんて難しいんじゃないだろうか。
滞在している宿は、二階建てである。一階には大きな食堂があり、二階には個室がいくつも並んでいる。
隣国特使と聖女一行、という、まれに見るような大人物が滞在するため、宿は貸切となっている。もともと宿泊していた人もいるだろうに、無茶をするものだ。だが、そうでないと護りにくいという事情もあるんだろう。
「……」
疲れ切って眠っている人たちを起こさないように、そっと足音を忍ばせて階段を下りる。
宿の出入口には小さなカフェスペースがあった。どういった人物が利用するのか分からないが、宿泊客用の場所なのか、あるいは受付待ちの人間用の待機場所だろう。
うかつだったかもしれない。バルコニーよりも危険な場所な気がする。
引き返そうかと迷った時である。
――ピカッ!
空に稲光が輝いた。
空を覆う黒い雲。その中で光る輝きに、メッセージが含まれている。
クライフさんやヨハンさんには聞こえていないようだが、わたしには読み取れる何か。
……だとすればそれは、『泉の魔女』に向けられたものだろう。
※ ※ ※
ここが異世界だと知ったわたしにとって、『どうやったら日本に帰れるのか』は重要な情報だった。日本には家族も友人もいる。どうして迷いこんでしまったのかは分からないが、家に帰りたいと思うことは自然だろう。
だがクライフさんは知らなかったし、騎士隊のメンバーで聖女の帰り方を知っている者は一人もいなかった。
そもそも、アクアシュタットの聖女の多くはこの世界の人間なので、帰る必要などない。過去にいたかもしれない異世界の聖女も、この世界で結婚しているそうだから、帰らなかったんだと思う。
わたしにその答えを授けたのは、聖堂だった。
『本物の聖女』かどうかを調べてもらうため、王都にある聖堂を訪れた時である。
はじめて浴衣もどきに身を包んだわたしは、中庭にある噴水の中に身を浸して、女神の託宣とやらを待った。
――汝、泉の魔女よ。十二の泉を浄化せよ。
噴水の水の中に文字が浮かび上がった。
アクアシュタットのミミズがのたくったような言葉ではない。日本語だった。
唖然としながらそれを読み取ったとたん、噴水の水が途切れたのである。
聖堂の水は、《女神の泉》から汲み上げている。水が途切れたことに聖堂長たちが動揺している間に、わたしはよろよろと中庭の端に寄り、クライフさんが用意してくれたタオルで身体を拭いた。
「いかがでしたか、ミスズ殿。何か聴こえました?」
クライフさんの言葉に首をひねりながら、わたしは答えた。
「文字が浮かび上がったんですが、ご覧になりませんでした?」
「え?」
クライフさんには日本語は読めなかった。そればかりか、文字が浮かび上がったこと自体に気づかなかったと彼は告げた。
「ミスズ殿にだけ見えたのだとすれば、それは、あなたが女神に選ばれた印でしょう」
彼の言葉を素直に信じたわけではない。だけど、文字はわたしだけではなく聖堂長にも見えたらしい。
わたしはこれにより、『泉の魔女』であり、泉を浄化できる者だと認定されたのだ。
※ ※ ※
勝手に宿を抜け出ようとしていたわたしを追いかけて、クライフさんが降りてきた。
雷光をハッキリ見ようとしただけで、宿を抜け出したつもりはなかったのだけど。
「どうされました?雷鳥は人里には現れないとは言え、万が一ということもあります。どうか勝手はされないよう……」
「クライフさん。北の国境あたりに泉があるって前におっしゃってましたよね。あれ、もしかして近くですか?」
「……は?」
突然泉の話をはじめたわたしに、クライフさんは面食らったような顔をした。
「な、なんの話ですか?」
「泉です。次の《女神の泉》は、北の国境近くにあるってお話でした。それって、今向かっている方角ですよね?」
「え、ええ。まあ……。けれど、今は関係……」
「関係あるかもしれないんです。わたしは今、雷鳥のメッセージを受けとりました。『水を助けて』って。おそらく、雷鳥が使っている水源が水魔に汚染されてるってことです。
雷鳥は、本来このあたりには現れないという話でしたよね。それって、雷鳥が緊急事態に悲鳴を上げている証拠かもしれません」
「メ、メッセージ?雷鳥から……?」
切羽詰ったように訴えるわたしの姿は、もしかしたら頭がおかしくなったかのように見えたかもしれない。だけど、わたしはなぜか確信していた。
「ここからどのくらい離れてるんでしょう。一日で往復は難しいですか?」
「……」
しばらくの間、クライフさんは黙りこんだ。
だけど、意を決したように唇を引き締めた後、こう続けたのだ。
「ミスズ殿。あなたが《女神の泉》を浄化したいとおっしゃってくださったのは分かりました。けれど、それは、……誰のためです?雷鳥のため、ですか……?」
「はい」
わたしの回答に、彼は諦めたような顔をした。
「アクアシュタットの十二の《女神の泉》のうち一つは、確かにこの方角にあります。
この村からは馬車で二日ほどかかる距離です。ですが、街道を外れますし、なによりも雷鳥の巣跡と呼ばれる場所にほど近い。隣国へ向かうという目的のある今は、とても寄ることのできる場所ではありません」
「ですけど、クライフさんっ!」
彼の両手に手を添えて、わたしは一心に見つめる。
「雷鳥は、わたしに助けを求めたんです。
行かないわけにはいきません」
それから彼の手を離したわたしは、地面に手をついて頭を下げた。
「……ご迷惑なのは承知で、お願いします。どうかわたしを、雷鳥のところへ連れていってください!」
土下座して頼みこんだわたしに、彼は驚いたように目を見開いた。
翌朝。
なるべく早くにわたしは出発した。泉の浄化のための聖女の正装――浴衣もどきとタオルだけを荷物に入れて、服装はいつもの騎士服(お古)である。
馬が疲労している今、馬車を連れていくことはできない。そのため、クライフさんが村で丈夫そうな馬を買ってきてくれた。おそらく無理をさせてしまうので、二頭買えるだけのお金を前払いで包んだらしい。
こんな天気の中を走るなんて正気の沙汰じゃない……。売主はそんな目をしていたらしい。
本当は夜明け前に出発したかったが、特使であるリャンさんに了解をとらなくてはいけなかったので、朝食時間まで待つことにした。
おそらく非難されるだろうと思いながら打ち明けたところ――こんな予想外の返答があった。
「そうですね、人質を置いていってくださるなら、構いませんよ。
もともと丸一日はこちらで天気待ちする予定だったわけですから、それが一日強伸びるということですよね?」
にっこりと穏やかに微笑みながら、彼の視線はヨハンくん――が女装しているヨハンナさんに向いている。
「彼女が話相手をしてくださるなら、二日くらいの逗留は問題ありませんし」
にこにこと微笑んでいる表情に、ヨハンくんの顔が引きつる。
リャンさんに聞こえないよう小声になりつつも、必死にクライフさんへと抗議する。
「た、隊長?まさか――……了解しませんよね?僕だってミスズさんの護衛なんですからね?」
「馬を飛ばす以上、単騎の方が都合がいい。こちらのワガママで待たせてしまうんだ、特使の機嫌を取る役目は任せる。……外交問題にならないようにな」
「冗談じゃありませんよ!?っていうか、貞操の危機だったらどーしてくださるんですか!?あの目、なんか危なくないですか!?騎士ならともかく侍女じゃ、特使相手にどこまで拒めるかっっ!!」
「……」
「黙らないでください!」
「……まあ、向こうも国の代表である以上、無茶はしないだろう。どうしてもというなら、不敬を承知で正体を明かしてもいい。男だと知ればそれ以上は言うまい」
「……もし、それでもいいって言われちゃったらどうするんです……」
「いや、それは……」
クライフさんは微妙に嫌そうに顔をしかめた。
女性とみると声をかけたくなるというリャンさんは、どうやら王都を出た時からヨハンナさん(に変装したヨハンくん)に興味津々だったらしい。
村に留まりはするが決して一人にはならないと心に誓ったヨハンくんは、殺気立った目で聖女護衛組の面々へと視線を向けた。見捨てたら殺す、くらいの勢いである。
「なるべく早く、戻ってきてくださいよ」
恨めしそうに言われたわたしも、罪悪感で胸がチクチクしたものである。
豪雨である。
馬で走るなんて、確かに正気の沙汰じゃない。
クライフさんは大きめの雨避けマントを身に着け、わたしごと包んだ。前で留められるタイプなので、フードなしのレインコートみたいな形状である。
後ろに座ったクライフさんがたずなをとり、前に座ったわたしはクライフさんにガッチリ抑えられながら耐えるという構成だ。もっとゆっくりのスピードなら乗馬を楽しめるだろうけど、どちらにせよ豪雨の中じゃ無理だったろう。
騎士服(お古)を着ることを許可されたのはこの姿勢のせいだった。ロングスカートでは横座りするしかないけど、ズボンタイプならきちんと乗れる。本来はこれ、馬に乗れない子供とかを乗せる時の体勢らしいんだけど、わたしが小柄なので可能だったらしい。
「――、――!」
「え?」
「――。――――!!」
走りながらクライフさんが何か言う。耳元すぐだというのに、ちっとも聞こえない。雨と風の音が激しすぎるのだ。
「なんですかー?!」
大声で聞き返したのだけど、クライフさんの耳にも届いていないらしい。
振り返ろうとしたわたしは、……諦めた。こんな姿勢で身体を動かしたら、落馬するかもしれない。クライフさんに迷惑になる。
代わりに、ぐっと身を縮めて前屈みになってみた。この状況で彼が言うことと言ったら、「スピード上げますよ」とかだろうと思ったのだ。
予想はちょっと外れた。クライフさんはわたしの首筋に顔を埋めると、わたしが身動きできないようにさらに固めて、一気に走り出したのだ。
「ご無礼をお許しください」
耳元でゾワリとするような声が響いた。
ぎーぃーやーぁー!!!!!!
吐息が耳にかかる。ゾワゾワと背筋を這い上がるような変な気分に、馬の上だっていうのに泣きたくなってきた。
姿勢!姿勢を整えないといけないのに、無理!
馬の上では胸を張って、腰を落とさないでリズムに乗る。なんてことを説明してくれたのはクライフさんだったはずなのに、何をしていらっしゃるんだと非難したい。
……しないけど!非難なんかしませんけど!!速度を上げるのに必要なんだろうし!
「~~~~っっ!!」
しばらくの間声を出すのも我慢して、ようやく意識が落ち着いてきたのは、川があったせいだった。
アクアシュタット王国を出て、フォアン帝国までの道は荒野だと聞いた。
川があったら荒野にはならない。もう少し肥えた土地になるはずだ。
だが、目の前にあるのは轟々と音を立てながら流れる濁流。それも、土を含んだ黄土色というか茶色というか……とても濁った色だった。
台風で増水した川。あるいは、中国の黄河みたいな色である。
「クライフさん、これは……」
クライフさんもまた、馬を止めてしまっていた。
川辺からしばらく離れた位置で、対岸へと視線を向けている。
このまま馬で渡れるかと考えているのだろうけど、この濁流に足をとられたら、馬だけじゃなくて上に乗っているわたしたちも諸共に、流れてしまうだろう。
「雨が降ると川ができる場所があると聞いたことはありますが……」
そう言って、クライフさんもまた黙りこんでしまう。
雨が降ると川になるということは、他より若干地面が低地なんだろう。砂漠みたいな話だ。雨が降った時だけ川になる場所は、雨上がりに芽吹き、花が咲く――らしい。
「どうしましょう。目的の場所は遠いんですか?」
わたしの問いに、クライフさんはハッと我に返ったような表情を浮かべた後、考えを改めたらしい。
「……そうですね。もう少し北寄りですから、この川を辿ってみましょう。どこかで渡れるかもしれない」
希望的観測に過ぎないと分かっていたけど、彼はそう言った。
それからは少し速度を緩めた。
クライフさんの位置も若干後ろ寄りに戻って、心境的にはホッとしたところだ。
上流に向かって進む馬は、ぬかるんだ地面に苦戦しながらも頑張ってくれた。
……過去形で言ったのには訳がある。
――ピカッ!
――――ズドオオオオオオオオオオオオオオン!!
目の前を真っ白に覆う稲光と、雷鳴。
川を干上がらせるような巨大な熱が、行く先に落ちてきたのである。