プロローグ
10/10 冒頭部分訂正しました。
3月のはじめ、空はどこまでも青かった。
「卒業式なんて言ってもさ、何が変わるんだろうね」
友人がそう言って、もらったばかりの卒業証書の入った筒を振っている。
中に入っているのは卒業証書が一枚だけ。受け取った瞬間も、今の時点でも、特に感慨が湧いてきたりはしない。
「……でも、明日からはここに来ないってだけでも、大違いですよ」
「浮かないね?」
ズバリ指摘されたことに、わたしは苦笑いで返した。
「進路がどうなるか、まだ分からないんですよね」
わたしが受験した志望大学は、結果がまだ出ていない。念のため受けている滑り止めは合格しているので、行く先がないということにはならないはずなんだけど。
足元が落ち着かない不安定さのまま、『学生』という肩書を失ったことに、不安さえ感じている。
わたしの言葉に、友人は納得しつつ、呆れた顔をした。
「あとは結果待ちでしょ?果報は寝て待てってゆーし、これ以上ジタバタしても無駄無駄!今日はそーゆー辛気臭いのナシナシ!お昼ついでに卒業旅行の計画でもして気分転換しとこうよ。日程と場所は決まったけど、細部はいくら煮詰めたっていいもんね!」
「はい」
友人の、こういう明るさにはつくづく救われる。彼女と友人で良かったと思う。
「ところで、水涼。それ、結局三年間直らなかったね」
「え?」
「けーごけーご。デスマス口調」
「ああ……。初対面の時にデスマス口調だと、なかなか切り替えるのが難しくって」
これには照れ笑いで返すしかなかった。
自分でも、もう少しフランクに話せるといいと思わないでもない。
「あとから導入したスマホはタメ口でしょ?最初ビックリしたわ。なんだ、このコタメ口できるんじゃーん、って。
ま、そーゆーところも水涼らしいのかなー?っと、いけないいけない。卒業旅行の計画話するんだったら、鞄が必要だった。おかーさんに預けたままだわ。とってくるー!」
「あ、それなら一緒に……」
「すぐだから、待ってて!」
通り抜ける予定の校門前で、友人が引き返す。同じく卒業生がぞろぞろと歩いている中で待つのもなんなので、邪魔にならないように横に避けようとした時だった。
『――水を、……ください』
え、と顔を向けた。
誰かが声をかけてきたような気がしたのだ。
校門の影から誰かが話しかけている。わたし相手というわけではないようで、暗がりに屈みこんだ人物の姿はよく見えなかった。
鞄に水のペットボトルが入っているのを思い出し、わたしは校門の外をひょいと覗きこんだ。サイズは一番小さいタイプだが、未開封だからちょうどいいだろう。
もし、見るからに近寄りがたい格好をしている人物だったら、ペットボトルだけ渡して逃げようかな、と少しばかり及び腰になりながらごそごそと取り出す。
「どなたですか?喉が渇いているなら、これを……」
こう言いながら校門を抜けた瞬間、わたしの手から鞄がすり抜けて落ちた。中途半端な持ち方をしたのが悪かったんだろう。
「あ!?」
落ちる、と思った瞬間、わたしは慌てた。
鞄と一緒にペットボトルを落としたらマズイと思ったのだ。人に渡そうと思ったのに、地面に落ちて土がついたものなど渡せない。
わたしはその瞬間、鞄よりもペットボトルを優先した。
それが正しかったのかどうか、答えは未だに分からない。
未開封のペットボトルを手にしたまま、わたしは見知らぬ場所に迷いこんだ。
※ ※ ※
気がついた時、わたしは泉のほとりに立っていた。
我に返った時と言った方が良いかもしれない。
校門を抜けたはず、誰かに声をかけたはず、友人を待っていたはず、とはずはず尽くしだったわたしは、迷子になっていることにしばらく気が付かなかった。
「……え?あれ?え?」
パニックを起こしている頭で冷静になることは難しい。
手にペットボトルを握りしめていることも忘れて、わたしはその場でキョロキョロとしばらく首振り人形になっていた。
「……え?……え?…………え?」
ちょっと待て、とわたしはその場にしゃがみこんだ。
足元はローファーで、自分が制服を着ていることは間違いない。手に持っていた水のペットボトルも、今朝買ったばかりのお気に入りの銘柄だった。
友人は、水のペットボトルをわざわざ買うなんてと否定的だが、持ち歩いているとふと喉が渇いた時に良いので、水筒代わりにしているのだ。緑茶や紅茶でも良いのだけど、常温状態で一番味が安定しているのはやっぱり水でしょう。
「……ええと。そうじゃなくて。水のことはどうでもよくて……」
考えなくてはいけないことはなんだろう。
わたしは首をひねった後、もう一度キョロキョロと周囲を見回した。
森だか林だかの中に見える。鬱蒼としているわけではないので、木の多い公園ということもあるかもしれない。神社の境内なんかも可能性があるだろうか。
いずれにせよ、学校に隣接している場所に、こんなところはなかったはずだ。
「……ここ、どこ?」
そうだ、そこだ。それが問題だ。
自分で口にした答えに満足して、わたしは気を取り直して立ち上がった。
わたしが立っている場所は、泉のほとりのようだった。
森だか林だか分からないが、木々が生い茂る中にぽっかりと開いた場所に、綺麗な湧水が泉を作っている。そばには小さな女性像が置かれていた。女性像は水甕のようなものを持っているのだけど、水が湧いているのは彼女のところからではなく、そのそばの岩の間からだった。
泉を囲むように紫色の花がチラホラと咲いているのが印象的だった。
どうせ泉なら、女性像の水甕から出るようにした方がデザイン的に良かったのではないかと思いながら、わたしは首をひねった。
とても綺麗だけど、記憶にない像なのだ。学校近くに、こんな公園あっただろうか。
「……こ、混乱してきた」
現在位置を把握する必要性にかられて、わたしはポケットからスマホを取り出した。友人を待っていたはずの校門から、どこをどうすればこんな場所に迷いこめるのか、我ながら理解できない。
ところがいくら起動しようとしても、スマホに電源が入らないのだ。
「そんな。今朝も充電してきたはずなのに、もう切れたの!?」
スマホ最大の敵はこの充電切れではないだろうか。
というか、マズイ。友人に連絡がとれない。待たせているのに姿を眩ますなんて、迷惑この上ない。向こうから連絡が来てるんじゃないかと思うのに、受けることもできない。
「電波!?電波が届かないとか!?」
周囲を囲む高い木を見上げ、わたしは一念発起して動くことにした。
スマホとペットボトルをポケットに押しこんで、手近にあった木を登ることにしたのである。
高校生になった今、木登りをする機会など早々ない。だけど小さいころには家の裏手にあった木に登ったりして遊んだものだ。そんなことを思い出して登ろうとしてみたのだが、――途中で断念するハメになった。
5、6メートル分なら、登れる。だがその先は枝が細すぎたり幹が頼りなかったりして足をかけるのが怖くてできない。その上、スマホの電波はやはり入らない。そもそも充電が切れていては、電波が入ろうが関係なかった。
「……どうしよう」
途方に暮れた。高校を卒業した日に、迷子である。
森の中には道もなく、人里の場所も分からない。
しばらくして喉が渇いたので水のペットボトルを開封したが、あっという間に飲み干してしまった。小さいサイズじゃなくて、大きなサイズにしておけばよかった。
ジッと座っていてもお腹が減る。卒業式は午前中で終わったので、そもそもお昼ご飯は食べていなかったのだ。友人と一緒に帰りにどこかに寄る予定だったから。
「……心配してますよねえ」
せめてスマホで連絡がつけば。ここがどこかも分かるだろうし、本格的に迷子だったとしても助けが呼べるはずなのに。
飢えをしのぐため、おそるおそる泉の水を汲んでみたところ、なんたらの天然水といった具合の美味しさだったので、しばらくそれで飢えを満たして過ごした。
近くにあった草やキノコが食用かどうか試そうと、齧ってみたりもしたが、こちらは不味くて断念した。苦すぎる。
鞄がないので、持ち歩けるものには限りがある。泉の水を入れたペットボトルを手で持っていると、歩くときに少々邪魔なのだ。とはいえ、人里を探しに森を抜けようと思えば、ここで水を汲んでいくしかない。
そうだ、とにかく誰か人間に会いたい。森を抜けよう。思い切って立ち上がって、どの方向でもいいから進んで――。
ガサガサガサガサッッ。
急に、草木を揺らす音がして、わたしは文字通り飛び上がった。
ギクビクしながら振り返り、木の幹に隠れつつ音のする方をジッと見やる。
熊か?イノシシか?どちらであっても逃げるなら木を登ることが一番だ。先ほど一度登っておいたので勝手は分かっている。わたしはすでに木の幹に片足をかけながら様子を見た。
ガサガサガサガサッッ。
現れたのはどちらでもなかった。
鉄色に鈍く光る、全身甲冑。鉄仮面の間にランランと目が光って見える。二メートル近い巨体が金属音を立てて動く。
おまけにそれは、両手に大きな抜き身の剣を携えていた。
「~~~~~~っっっっ!!!!」
恐怖のあまり、声が出ない。
蛇に睨まれた蛙よろしく、身動きできずに固まったわたし。
その目の前にガサガサと進み出た全身甲冑は、そのまま泉の方へと進み――……。
ドシャッ、と倒れた。
「え……?」
「み、水……を……」
か細い声が甲冑の下から聞こえた。手に持っていた剣は、杖代わりだったらしい。よろめいた人物はそのまま動かなくなった。
「え……、えぇええええええっ!?」
まさかの、行き倒れである。
ようやく誰かに出会えたと思ったのに、迷子が増えただけだった。
若干絶望的な気持ちになりながら、とにかくわたしは彼の要望に応えようとした。
「水、飲めますか?その、兜を脱がせてもよろしいですか!?」
兜越しに声をかける。鉄仮面って耳も覆っているのだけど、聞こえるんだろうか。少しばかり大きめの声で続けるが、返答はない。
「~~~~っっ!!と、取っちゃいますよ!」
許可を得られなかったので、わたしは強引に鉄仮面を奪い去った。
顔が引っかかるかと思ったけど、思ったよりもスルリと抜けて、中からは人間の顔が出てくる。顔が出てこなかったらどうしよう、むしろ熊だったらどうしようと思っていたので、少しばかり拍子抜けする。
ただ、予想外なことに、鉄仮面の下にあったのは金髪をした外国人だった。
「どうしてこんなところに?」
首をひねりはするが、西洋風の甲冑を身に着けているんだから、日本人よりは外国人の方が違和感はないかもしれない。そう、無理やり自分を納得させて、わたしは彼の口にペットボトルの飲み口を近づけようとした。
だが、気絶している人間は、自分で呑んではくれないものだ。
「……どうしよう」
応急処置のやり方など、急には思い出せない。気道は確保するんだっけ?というか気絶している人間に水を呑ませたら、息ができなくなって溺れ死んだりしない?
迷った末、わたしがやったのは、水をつけた手でペちぺちと彼を叩くことだった。
「起きて!起きてください!ウェイクアップ!水を持ってきましたから、口を開けて!」
意識を取り戻してくれないとどうしようもない。
そう思いながら顔を抱え、声をかけ続けること、数十回。
薄目を開けた彼の顔にホッとしながら、わたしはペットボトルを目の前に運んだ。
「ほら、お水です。ウ・ォ・ー・ター!ウォーターですよ、聞こえてます?自分で呑めます?持てます?」
返答はない。ペットボトルを持つ力はなさそうだと判断し、その口元に飲み口を近づける。
あ、すでにわたしが飲んじゃったから間接キス状態なんだけど……。い、いいよね?許してくれるよね?緊急事態だもんね?
ぴたぴたと水滴が口元に届くと、彼の目に光が戻ってきた。
「……?」
「お水です。お水!とにかく飲んでください。足りなくなったらまた汲んできますから。ね?」
声量を少し落として、安心させるように微笑んでみせると、彼はホッと息を吐いた。
「水は――……無事なんですね?」
「え?」
今度はわたしが聞き返す番だった。決して小さな声ではなかったが、彼の言葉の意味が分からない。返答は日本語に聞こえた。
「無事って。ええと、はい。水道水みたいに綺麗ではないでしょうけど、飲めるかって意味でしたら大丈夫ですよ?あ、軟水と硬水で体質に合わないかもって意味でしょうか?わたしの飲んだ感じだと軟水なので、外国人の方に合わないってこともないと思います」
「女神の泉は汚されていない。……良かった。自分は間に合ったようです」
心底安心した風に彼は言って、それからわたしの手からペットボトルを受け取ると、ぐびぐびと飲み干した。
「お恥ずかしいところをお見せしました。水を、どうもありがとうございます」
空になったペットボトルを私に手渡し、彼は鉄仮面を小脇に抱えて立ち上がった。
倒れるほど無理をしていたはずなのに、もう大丈夫なんだろうか。
「い、いえ、たいしたことはしていないので。……もう大丈夫なんですか?」
「はい。知らせを聞いてから呑まず食わずだったのが祟りました。本当にお恥ずかしい」
そう言って苦笑いを浮かべる彼。
改めて見ると、イケメンさんだ。真面目そうな顔立ちをした、金髪の外国人。
ヨーロッパ系の人種に見える。
「……それにしても、やわらかいのに水が汲めるというのは、ずいぶん変わった素材でできたコップですね」
彼は感心したようにわたしの手に渡ったペットボトルを見下ろした。
「?そうですか?ああ、でも、ヨーロッパではペットボトルってあまり使わないんでしたっけ?ゴミ防止のために瓶じゃないとダメとかって……。それって一部の国の話でしたっけ」
「?ひとまずアクアシュタットの話ではないと思います。この国ではむしろ瓶を使うのは王宮やそれに準ずる貴族の話で、庶民は木製のコップを使っていることが多いですから」
「え?」
アクアシュタット。聞いたことのない地名だった。
首をひねりながら、空になったペットボトルに再び泉の水を汲み上げようとする。
「っっ!離れてください!」
「え」
急に叫んだ彼によって制止を受け、わたしの動きが止まった。
全身甲冑姿が壁になり、わたしは物理的に前に進むことができなくなったのだ。素早く割り込んできた彼が、わたしと泉との間に入りこんだのである。これだけ重そうな鎧を着ていて、よくそんな機敏に動けるものだ。
彼が見ていたのは泉のほとりにチラホラと咲く、紫色の花だった。
「…………!?」
彼の目に不審の色が浮かぶ。花が咲いていることがなんだというのだろう。
「……お尋ねします、が。先ほど自分が飲んだ水は、この泉の水ですよね?」
「え?は、はい。そうです。問題ありました……?」
自分でも口にしているので、泉の水が飲料水として使えないってことはないと思った。
だけど、考えてみたら水質検査を受けていない水を呑むのってダメだったかもしれない。わたしの家は水道水だが、井戸水を使っている人も定期的に水質検査をしているという話だし。水の中に含まれている微生物は、味に問題を感じなくても後々身体に異常をきたすことがある。っていうか、もう飲んじゃったよ!わたしも医者に行った方が良い!?
そう考えたら、なんだか気分が悪くなってきたような、おなかが痛いような……。
「この花は水魔に侵された場所に咲くもの。女神に見捨てられた証……。だが、今呑んだ泉の水は確かに清らかなものだった……。
これは、一体……」
彼はブツブツと独り言を呟いた後、ふとわたしを見下ろした。
「……まさか、とは思うが……」
いや、と自分で思いついたことを否定して、彼は首を横に振る。
「……あの?」
戸惑うわたしの目の前で、彼は膝をついた。
「申し遅れました、自分はゴルト騎士隊に所属しているクライフと申します」
「ご丁寧にどうも……。わたしは水涼と言います。……て、え?騎士?」
「はい」
穏やかに答えた彼は、大真面目だった。
「ミスズ殿。この場所は女神の泉。ゴルト騎士隊が守護する場所です。そのため、一般人は立ち入ることが許されません。
森の外までご案内しますので、どうぞこの場をお立ち去りください」
全身甲冑を身に着けた外国人。ペットボトルを知らない。聞き覚えのない地名。
「……あの、ここ、どこですか?」
ようやくわたしの口から出てきたのは、おそらく、今一番大事な質問だった。
※ ※ ※
結論から言えば、ここは異世界だった。
アクアシュタット王国という、地球にはないどこかの国の、森の中。
それから三か月。わたしはまだ、地球に帰れていない。