序章
ーー頭脳に自信がある人は参加されたしーー
無地の背景に淡々と文字が書かれただけの奨金一億四千万ドルをかけた謎の広告が新聞の一面に大々的に貼り出されていたのは今日から数えてちょうど一週間前のことである。
広告主に関する情報は一切非公開。
非公開というよりも“新聞社の上層部ですら知らないうちに広告が紛れ込んでいた”というのがより事実に近い。口止めをしている者がいるとしても、日本中の新聞社の幹部クラス全員ともなると、人の口に戸は立てられず、次第にどこからか情報が漏れるのが世の常ではあるのだがこの件に関しては一週間経った現在に至るまでそのような情報がリークされることはなかった。それとは対照的にSNSを代表とするにはインターネット上には政府の陰謀論を含め様々な情報が錯綜した。荒唐無稽な人類終末説から悪趣味な悪戯まで様々な説が唱えられたが、全員に一貫して共通していたのは“賞金の真偽はさておき、広告主は類稀なる権力者でありそうだ”ということだった。さらに驚くべき事実はそのような謎の広告の配布事件は日本だけではなく、世界中で同時に起こっていたということである。
また、警察がこれを事件として取り上げなかったため陰謀論はますます熱をだして加速した。誰が言い始めたのかは定かではないが、この一連の事件の首謀者はギリシア神話の戦いの神を意味するアレウスと呼ばれることになる。
広告には挑戦文ともとれる内容の文面の他にはEメールのアドレスだけが載せられており、メールを送信すると場所と日時が伝えられるらしかった。
掲示板には興味本位でメールを送ったと報告するものもいたが、真偽のほどはわからなかった。大多数の人間は正体不明でありながら世界中の新聞社や警察をも掌握している存在に自分の身分をさらけ出す覚悟はなかった。
というのも、二〇二〇年の第二次IT革命でそれまで現行だった三十二ビットIPアドレスを完全に廃止し、六十四ビットに移行したためである。六十四ビットのアドレス空間は百億人近い人類全員に固有のアドレスを割り当てても十分すぎたため、現在では電子機器全てが完全に識別されていおり、それはコンピュータや携帯電話も例外ではなかった。電子機器を使用するには国民IDのアカウントでログインする必要があり、その情報は暗号化されて常に送信されている。プロバイダは国民IDを解析することはできないが、警察の協力があれば誰がどの端末からどこにアクセスしたのかは簡単にわかってしまう。このような体制に移行することに否定的な意見も多かったが、テロを未然に防ぐことができるという大義名分の下で半ば強引に法案は通過した。もちろんそういった個人情報は誰もがアクセスできるわけではないが、アレウスならやりかねないと誰もが考えていた。
そんな状況を知った上でメールを実際に送ったのは無謀で酔狂な一握りの人間だった。
そして、その中の一人が池上直哉であった。学校の成績は至って平凡、テストの難易度に関わらず点数は計算されたかのように七十点前後。運動神経には若干難があるものの平均に収まっている。高校では多くの友達がいて休み時間には率先して会話に入っているが、放課後は誰よりも先に帰宅している。かといって学校活動に消極的なわけではなく、自ら率先して図書委員に立候補するし、文化祭ではまとまらないクラスに対して妥協案を提示して成功に導くリーダーシップもみせていた。
直哉が無謀にもアレウスに連絡をとったのは、この大胆不敵な挑戦者の正体をつかんでやろうと考えていたからだった。直哉にはホワイトハッカーという裏の職業があった。ハッカーときくと悪いイメージばかりが先行してしまうが、本来ハッカーとはコンピュータに詳しい人の総称であり、クラッキングを行うクラッカーとは完全に区別されるべき存在である。
第二次IT革命で完全に情報化した社会においてまず発生した問題は、管理する組織に専門的な知識を持った人が少なかったという点である。取り締まろうにも相手がとりしまるべきシステムの仕組みを理解していなかったのである。そこで政府は公式に民間からホワイトハッカーを雇用することにきめ、直哉も未成年だが非正規としてある程度の権限は与えられていた。直哉にはメールやウェブの受信先の人物を特定することはできなかったが、送信先の人物を特定するだけの権限はあったため、もしもアレウスがメールを返信してきた場合にその人物の個人IDを特定することができる。
ガラスの机の上に置かれた携帯電話のバイブレータで不細工な音が部屋に響いた。画面を開くと間違いなく先ほど直哉がメールを送信した相手からの返信だった。
口元が緩むのを隠すこともなくメールを開くと、ただ一言「三月一日に東京ランドマークホテル」と書かれていた。