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番犬  作者: 生八橋麦茶
1/1

一、二、

 一.

 高木も番犬も、二人ともタフな男だった。そしてまだ中学生だった。だから、男同士がどうやって愛情表現をすればいいのかなんて、知りもしなかった。


 小学四年生の春まで、番犬はプロ野球選手になることが夢だった。落合や清原みたいなホームランバッターを目指し熱心に練習に励み、チームの誰よりも野球が上手かった。周囲の奴らがテレビゲームや愉快な遊びに盛り上がろうとも、彼の放課後の素振り五百本は孤独であり確実に己の意思によるもので、三年の間、決して怠ることはなかった。番犬はブラジル代表のサッカー選手が語る、少年時代の下積みの苦難に対し、これから自分が重ねる歴史が劣るようなことを絶対に許せなかった。

だが、番犬の父親が、彼の金属バットで母親を叩く姿を見て以来、番犬の確固たる意志も次の朝の風とともに消え失せてしまう。その光景は残像の如く彼の心に巣食い、結果、最早彼はバットを握ることすらできなくなってしまった。

 そのかわり、番犬は日々の鍛錬の賜物である強靭な腕と、家族の誰にも似なかった大きな体躯を持ってして、今後は父親を叩きのめし母親を守ることを新たなる日課とする。当分は負け続きではあった。が、一年もしないうちに立場は逆転し、それ以降は、常に番犬の圧勝であった。番犬は暴力の終了の合図を、父親が顔や腹を抑え壁際にうずくまり、言葉にもならぬすすり泣きをし始めたときと決めていた。父親に対する慈愛の念はなくとも、殺してはならないという、得体の知れぬ不文律だけは、一度として、脳裏から消し去ることはできず、それ故、暴力を与えながらも、精神は至って冷静沈着を貫いてしまう。どれほどの反吐が飛び散ろうが、あとで自分が片すのだから構わないし、鼻を刺す臭いにも、自分や母親のそれによって既に慣れている。

周囲に母親の私物などがあった場合は、決して汚さぬように注意を払う程の心遣い。振り下ろす拳の勢いとは裏腹に、番犬を包む時間の流れはとても静かで、穏やかとすら感じた。


一つの家庭は終焉を迎える。

結局、父親は家を出た。次の居場所を残すことなく、逃げた。そして、機を逃さず母親も家を去る。単に番犬と共に暮らすことを怖れたにすぎない。

そして、この春から番犬は母親の遠縁にあたる健二叔父の家で暮らすことになった。


「弘里、おまえは何一つ間違ったことはやってないんじゃ」

 健二叔父はそう言って番犬の五分刈り頭をよくジャリジャリと撫でる。大概、そんなことをするとき、健二叔父はだいぶ酔っているのだが、中学校の入学式の朝、やけに似合わない番犬の制服姿に爆笑した後、

「弘里、おまえは何一つ間違ってないんじゃ。好きにやってこい」

 そのときに限っては全くのシラフだった。

 番犬は健二叔父の言葉に何かを感じながらも、その理由を検討しようとはせず、表情もない。最早、番犬にはいっぱしの人間が備え持つ感情の類は見当たらなかった。対の眼は鴉の眼のように純粋で、鋭く光っている。無骨で仏頂面な番犬の人格を、健二叔父はどうにかして改めようとは遂に思わなかった。


 二.

 始業式から二週間後、二年一組、高木の自宅謹慎は解けた。


謹慎中、高木は二階の部屋の窓から見える、何軒も先の家に咲く桜の花に、日毎に蒼い若葉が増していく光景を楽しんで眺めていた。課題の反省日記に関しては、書くたびに別の人格を演じ、様々な視点から事態を考察することでそれを楽しんだ。家族に嘯き、外に遊びに行く気には不思議となれなかった。友達に借りたスラムダンク全巻を何度も読み返しているうちに、気がつけば一日は終わっている。名ゼリフを殆ど覚えた頃、高木は一番かっこいい男が水戸であることに気づいた。

しかし、教師連中のうち、本当に高木が自宅謹慎の達しを守り、日々、反省文を書き記す、そんな結果を求めていた者が果たして一人でもいただろうか。謹慎中、高木の家を訪れた教師は一人もいない。担任は高木との会話を嫌い、どうせ反省日記も誰かにかかせるか、或いはネットからの引用だろうとハナから決めつけていた。新任の女教師などは、高木を知る前から周囲の情報に頼り、既に高木の人格を築いている。品行最悪、暴れ者、不良、チンピラ、カス、関わってはならない悪意。しかし、いずれの呼び名にも、高木特有のユーモアを反映するものは見当たらなかった。屈託のない高木の笑顔に、誰もがありもしない裏の面を深読みする。高木を取り巻く厄災は、いつも彼の斜め上の辺りで勝手に生まれていた。


 謹慎明けの朝、梅雨入りもまだ先だというのに、一昨日からの雨は一向にやむ気配がない。キッチンのテレビでは天気予報士が気圧配置のどうたらこうたら…。一方、高木は鯵の干物の身を全てほぐしてごはんにのせ、その上からしそドレッシングをかけて玄米茶を注ぐという、奇妙なる茶漬けを食しながら、意識は庭の木々を叩く雨粒の音にばかり集中していた。

 雨音は限りなく発想の連想を呼び起こす。まず、これから履く靴のこと。次に傘の大きさと材質について。大きめの傘は雨避けには適しているが、仕舞い勝手が悪い。色や模様の凝った傘は見栄えに秀でていても、透明のビニール傘の方が風向かいの視界を妨げぬので都合が良い。

或いはズボンの裾のことを考える。カバンのことも考える。髪につけるワックスの硬さのことも、代えの靴下の必要性についても検討する。

そして、高木の思考は決まって最後に学校の校庭のことを考えて終わる。どんなに激しい雨が降り続こうとも、翌日には何事もなかったかのように乾いてしまう奇怪な改良型校庭に立つたびに、高木はまるでここが世界の終わりであるかのように感じて仕方がない。

そして、思考の連想ゲームは飽きる。雨音から生まれる思考に関しては、愉快な結末を迎えることはない。

いやしかし、何も雨音に限ったことではない。これは高木の癖だ。思考の結論はいつでも高木の意識無意識を気にも留めず、面白味に欠けた無色無風の退屈な世界へと辿り着く。

色々なものを見て、そこから色々なことを想像する。高木のこの上ない遊び、思考のゲームは、なのに、好きなものがいつしか嫌いなものへと姿を移す陳腐な暇潰しへと変化する。変異ではない。上流から下流へと流れるあいだに、何かが混ざってしまう。

純粋なままでありたいとは願わずとも、求めずとも混ざる厄介者については頑なに拒む。高木は自分の遊び場を守ることで必死だった。


真っ先にチャイムを鳴らしたのは、やはりキーボーだった。

「キーボー」という呼び名はドラえもんに出てくるキャラからとったもので、高木が名付けた。チビでガリでテンパなとこが良く似ていることと、好奇心旺盛で真っ正直に物事にぶつかっていく性格から、高木は彼をキーボーというかっこいい名前で呼ぶ。

「高木君、おはようございます!」

 ドア越しにキーボーが高木を呼ぶ。あいかわらず元気のよい声だ。

 高木はキッチンの窓を開けて、そこから答えた。

「キーボー、ちょっとまっとけ。今、出るから」

「雨、すごいですよ。ワックス、持ってったほうがいいですよ」

 キーボーはいつでも、高木のヘアスタイルを気にする。高木の金色の細い髪の毛は湿気に弱く、出先にしっかりキメても、こんな雨の日には学校に着くまでに崩れてしまうからだ。ただ、高木自身は髪型に執着はなく、冗談でいじったこの頭もサッサと元の五部刈りに戻してしまいたいのだが、キーボーの羨望の眼差しの手前、もう三回も同じ色に染め直していた。

 茶漬けをササッと流し込むと、高木は二階の部屋に戻って、謹慎中の課題と、あとはなるべく薄くて軽い教科書を数冊、カバンにぶち込んだ。授業の準備をしようにも時間割を知らない。まあ仕方ないと、雨の中で自分を待っているキーボーの元へと急いだ。

 玄関を出た時の風景は、酷く懐かしいように感じた。このところ、外の風景の一部には、必ずあの何軒も先の家に咲く桜の花があった。それが今、久しぶりに玄関を出たこの通りの角度からでは、向かいの家が遮って。遠くは見えない。

 ああそうか、戻ってきたのかと高木は感慨にふけった。


「ところで高木君、『番犬』の噂って知ってる?」

「番犬…、誰かん家の犬の話か?」

「違うよ、校門のところに立っている一年生の噂だよ」

 ふーん、と空の相槌を返すだけの高木に、キーボーは少しでも興味を示してもらいたい一心で。若干わざとらしい声の抑揚を心掛け、会話を続けた。

「名前は忘れたけどね、そいつは昼休み前とかになると現れて、ずっと校門のところに立ってるんだ。一年の奴らの話だと、始業式以来、そいつは一回もクラスに顔を出したこともないんだって。どうやら学校には来ているらしいけど、どっかに潜んでいるらしく、校門に立ってる以外に見かけることはないらしいよ」

「そんなら、ちょっと変わった不登校児ってことだろ?」

「でもね、三年の敏光たちが最初に『ハチ公』ってあだ名をつけてからかったんだ。そうしたら、次の日から敏光は休みで、これがやっぱり番犬の仕業らしいんだ」

 キーボーが敏光の名前を口にした途端、高木は笑って言った。

「キーボー、そしたら敏光は俺に殴られたうえに犬にまで噛まれたってことか?何が西中スリートップだよ、勘弁してくれよ。身内相手に、しかも後輩相手に春先から何連敗してんだ?」

「あれ、高木君、スリートップて呼び方、イヤなんじゃなかったっけ」

「最低だよ。俺と敏光と武川君でスリートップとか、センスのない呼び方すんなよな」

 高木はポケットから手を出してキーボーの背中を叩いて言った。

「そういったことは俺の得意分野だからな。な、『キーボー』?番犬やら、ハチ公やら、センスがねえって。つまらねえだろ?」

「じゃあ、高木君はその一年生のこと、なんて呼ぶの?」

「それは会ってからでないと決められないからな。よし、早速今日の昼休みにでも、そいつのこと、観に行くとするか」


 高木は、どうして自分の感情が徐々に高揚しつつあるのかが分からなかった。謹慎が解け、久しぶりの学校に興奮しているのか、キーボーとこうして一緒に登校できるようになったことに日常回帰を覚えたからか、番犬の存在なのか、敏光が一年生に負かされたことがおかしいのか…。


 高木は、謹慎中にずっと、窓の外の桜の移ろいを眺め、それを楽しんだ。それは確かに高木特有のユーモアが為す遊行であった。しかし、この感情の根底を、いまだ高木は知る由もない。高木の本性、何事へも揺るがない、根っから、底なしの支配欲。目に留まる興味関心の一から十を身に宿し、失うことを嫌い、鎖をはめる。身近な玩具は俺のもの。俺のものは俺のもの。

 うん、謹慎の日々が去り、高木が家を出た途端に感じた衝動は正直だ。『戻ってきた』という感慨こそ、高木特有の、底なしの支配欲が発した素直な衝動さ。


 高木と番犬は、出会うべくして出会う。鎖は結ぶ。一期一会、とは滑稽。結んだ絆は固く、ほどこうと企てる者に容赦はしない。


 男同士が、どうやって愛情表現をするのかを、ふたりはまだ知らなかった。


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