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雨粒が奏でる不規則なリズムが、昼下がりのリビングを包み込んでいる。
ピアノの椅子に腰かけて、あたしはぼんやりと窓の外を眺めていた。
久しぶりに何の予定もない休日は、しめやかな雨音にくるまれている。お父さんやお母さん、お兄ちゃんは出掛けているせいか、一人きりのリビングにはふしぎな静けさが満ちていた。
今は梅雨。空気がじめじめとして、すぐに雨が降って、気温が上がったり下がったりする時期だ。
この季節は髪の毛がまとまらないし、体調も崩しやすくなるけれど、あたしはわりとすきだったりする。
今日みたいに家にこもってピアノを弾くのもいいし、温かい飲み物を片手に雨音を聞くのも落ちつく。のんびりと本を読んだり、お気に入りの傘をさして散歩をするのもすきだ。
夏は暑くて冬は寒いから雨を楽しむことはできないし、春や秋は晴れの方が気分がいい。
だからあたしは、梅雨の雨をことさらに愛していた。
部屋が暗くなっていることに気づいて、電気をつけようと椅子から立ち上がる。
インターホンが鳴り響いたのは、その時だった。
あたしが玄関に向かうよりも早く「お邪魔しまーす」と声が聞こえて、ぺたぺたという足音がリビングに向かってくる。小さな頃から繰り返している行為だから、もう遠慮なんて言葉はどこかに行ってしまった。
バッタン、とドアが乱暴に開く。
「ゆーうーちゃーん」
間延びした声と共に顔を出した悠麻を見上げて、あたしは眉をひそめた。
「……なんでびしょ濡れ?」
訝しげな声を上げたあたしを見て、悠麻はほろ苦い笑みを浮かべて肩をすくめる。
悠麻はずぶ濡れ状態だった。
ぽたぽたと髪から落ちる雫に、ぐっしょりと濡れて肌に張りついた服。朝から雨が降っていたから出掛けに傘を忘れるはずがないし、雨脚だってそこまで強くない。
いったいどうしたんだ。
「ちょっとねー」
のんびりとした調子で答える悠麻の横をすり抜けて、あたしは洗面所からバスタオルとバスマット、お兄ちゃんの部屋から悠麻の着替えを引っ張り出した。中学生になった頃、悠麻の両親は出張で家を空けるたびに、悠麻をあたしの家に預けていた。その名残で、高校生になった今もお兄ちゃんの部屋には悠麻専用のタンスが置かれている。
急いでリビングに戻ると、悠麻は濡れそぼった服を脱ごうとして、じたばたともがいているところだった。
……ちょっと。ここ、あたしの家なんだけど。
いくら入り浸っているからって、リビングで堂々と服を脱がないで欲しい。
「こら悠麻、人様の家で勝手に服を脱がない!」
悠麻にバスタオルを投げつけたあたしは、その足元にバスマットを広げて着替えを置いた。ぽんぽんと床を叩いてバスマットの上に誘導すると、悠麻はバスタオルでガシガシと頭を拭きながら、ありがと、と呟く。
「どういたしまして」
一仕事を終えたあたしは、部屋の電気をつけてからピアノの前に戻る。楽譜を引っ張り出して楽譜立てに広げ、椅子に腰を下ろした。両足でペダルの感触をたしかめてから、鍵盤の上に手を乗せる。
そしてそっと、指先に力をこめた。
低くひそやかに響いた音が、単調な旋律を奏ではじめる。淡々と音を重ねて厚みを増し、少しずつ変わりながら深くなっていく。
この曲の名前は、パッヘルベルの「カノン」。
悠麻が一番、だいすきな曲だ。
「カノン」を弾いている間に、悠麻は着替えを終えたらしい。
いつの間にかクッションを引きずってきて、悠麻はあたしの左側に座り込んでいた。椅子の脚に背を預けて、ぼんやりと壁を眺めている。右側に座られるとペダルが踏みにくい、と前に怒ったからか、あたしがピアノを弾いている時、悠麻はいつも左側に座る。
「……悠麻、服は?」
あたしは指を踊らせながら、悠麻に声をかけた。
「絞って洗濯機に入れておいた」
「そっか」
「おー」
それっきり、悠麻は黙る。あたしも黙る。ピアノの音だけが、部屋に響いて消えていく。
ちらりと悠麻を見下ろすと、悠麻はぼんやりとあたしのピアノを聞いていた。
こういうところは、昔から変わらない。
「カノン」はあたしにとって、かなり弾きにくい部類に入る。悠麻にリクエストされなければ、絶対に手を出さなかった曲だ。だから普段はめったに弾かないし、曲が進むごとに指使いもたどたどしくなってしまう。
だけど悠麻は、あたしの演奏を、黙って聴いてくれる。どんなに間違えても、拙くても、基本的には口を出さない。
それは小さな頃から存在する、暗黙のルールだ。余程のことがないと、悠麻から口を開くことはない。
「……悠里」
頁をめくった時、珍しくきちんと名を呼ばれた。
「なに?」
あたしは手を止めて、悠麻を見下ろす。
悠麻はあたしを見上げて、少しだけ瞳を揺らした。髪をぐしゃぐしゃと掻き上げて、決まり悪そうに、そして申しわけなさそうに視線を逸らして、ぽつりと一言。
「……ふられちゃった」
悠麻はいつも、ルールを破らない。
たとえば傷つくことがあって、どうしようもなく辛くて、あたしに甘えたい時、以外は。
その言葉に、一瞬だけ言葉に詰まる。
あたしは楽譜を確認して、もう一度「カノン」を最初から弾き始めた。さっきよりもたどたどしい指使いで、不格好な音に乗せて口を開く。
「そっか」
「おー」
悠麻がのんびりと答えた。ルールを破ったということはそれなりに傷ついているはずなのに、まったく傷ついているように見えない。
高校生になってから、悠麻は少しだけ変わってしまった。落ちついた茶色に染めた髪を入念にセットして、ピアスをつけて、だらしなく見えない程度に制服を着崩すようになった。
そして彼女を作っては短期間で別れるという、あたしにはなんとも理解しがたい学生生活を送っている。
「なんでふられたの?」
あたしが首を傾げると、悠麻は居心地が悪そうに身じろいだ。
「……浮気したから」
「どっちが?」
「俺が」
「駄目じゃん」
内心「またか」なんて思いつつ悠麻に突っ込む。こんな奴に遠慮や気遣いは無用だ。
「どう考えても浮気した悠麻が悪いでしょ、それ。男子は知らないけど、女の子は浮気されたら傷つくんだからね」
「男もムリ。へこむ」
「……じゃあ、やらなければいいのに」
呆れた、とあたしはため息をついた。どうして浮気されたくないのに、自分は浮気するんだろう。悠麻の行動は、ときどき謎だ。
「結構好みだったんだけどなー」
あたしが腰かけている椅子の縁にこつんと頭をぶつけて、悠麻がぼやく。
「たとえば?」
「脚とか」
「変態。女の敵」
「……ゆーちゃんうるさい」
むっとしたような声を上げて、悠麻は顔をしかめた。あたしはすでに曲のていを成していない「カノン」を放棄して、悠麻へと手を伸ばす。
「おだまり女の敵」
ぺしんと悠麻の頭を叩くと、悠麻は「いて」とたいして痛くなさそうな声を上げた。暴力反対、なんて言いながら、あたしに手を伸ばしてくる。
その表情が、ふと真剣なものになった。
「……ゆーちゃん」
伸ばされた手が肩で切り揃えたあたしの髪をなでて、ほんの少し、ためらうように肩に触れる。
『なぐさめて』
唇だけで紡がれた言葉に、あたしはぴたりと動きを止めた。
なぐさめて。悠麻があたしに甘える時に紡がれる、お決まりのセリフだ。
けれど最近、あたしは少しだけ、この言葉が苦手になりつつある。
「よしよし」
少し迷った末に、あたしは悠麻の頭を両手でぐしゃぐしゃとかき混ぜた。濡れそぼった悠麻の髪からは、雨の匂いがする。指で髪をすいてみると、悠麻はちょっとくすぐったそうに身じろいだ。
「ねえ、ゆーちゃん」
「なに、ゆーくん」
あたしを見つめて、悠麻はへらりと笑う。
「すきだよ」
軽やかな口調の中にほんの少しの真摯さと祈りのようなものをこめて、悠麻はささやいた。ほろりとこぼれ落ちた言葉は優しくて、春の日だまりのような、ふしぎな温かさを持っている。
すきだよ。それは本来なら、相手に告白する時に使われる言葉なんだろう。
けれどあたしと悠麻の間に限って、それは違う意味を持つ。
「あたしも一応、すきだよ」
マシュマロみたいにふわふわとした言葉を転がして、あたしは悠麻の頭をもう一度くしゃりとなでた。すきだよ。あたしも一応、すきだよ。ときおり交わされるこの会話は幼なじみの証で、ずっと一緒にいるためのおまじないだ。寒い日のココアみたいに、焼きたてのクッキーのように、安心を得るための言葉。傍にいるよ、と伝えるための、分かり辛いメッセージ。
あたしの言葉に、悠麻はそっか、と嬉しそうに呟いた。こちらに向き直ったかと思うと、あたしが腰かけている椅子の隅に腕を乗せて、その腕に頭を乗せる。満足そうになでられるさまは、さながら猫のようだ。ここ数年でずいぶんと身長が伸びたから、よくなついた虎とかライオンとかの方が合っているかもしれない。
「悠麻さー」
黙ってなでられている悠麻に、あたしは声をかける。
「相手のこと、すきだった?」
「……どうだろ」
悠麻はまじめな表情で考えこんだ後、困ったように首を傾げた。
またか。ぽろりとこぼれそうになる言葉を押しとどめて、あたしは悠麻の額を弾く。悠麻は相手のことを「好み」だというけれど、「すき」とは言わない。
「……告白されたからって、つきあわなくてもいいと思うんだけど」
「すきになるかもしれないじゃん」
理由はこれだ。すぐに彼女と別れる原因も、多分これ。
悠麻は来る者を拒まなくて、すきでもない相手と平気でつきあう。そのくせに変なところで誠実さを発揮して、つきあってから相手のことをすきになろうとする。そして、別れた時に傷つく。
はっきり言って、自業自得だ。
「それなら、すきになってからつきあえばいいでしょ。またお気軽に女の子とつきあって、結局浮気してふられるなんて。お姉さん呆れちゃうよ? 見捨てちゃうよ?」
「だーれがお姉さんだよ、俺より三日早く生まれただけのくせに」
「双子だって兄弟の順番があるでしょ。あたしは三日も早く生まれたんだから、間違いなく悠麻よりもお姉さんだもん」
「……ちっ」
あっ、舌打ちした。
あたしは少しだけむっとして、悠麻の頭をぺしんと叩く。
「いて。ゆーりの鬼」
悠麻が呟いて、あたしの手を掴んだ。そのまま指をからめてぎゅっと握りこみ、引き寄せた手を頬に押し当てて笑う。悠麻の冷たい掌に、頬に、あたしの体温が吸い取られていく。
あたしのことを鬼、なんて言うくせに、悠麻はいつも、遠慮なく甘えてくる。
だからあたしは、悠麻をなぐさめるのが少し苦手だ。これは家族や幼なじみの距離ではない気がして、言葉にならない違和感がある。
けれどあたしはなにも気づかないふりをして、もう片方の手を伸ばした。いつものように、昔から変わらない動きで、悠麻の頭をそっとなでる。
少しはなぐさめられた、かな。