息とつららと極光と
久しぶりに書いたので、暖かい目で見ていただけると幸いです。
どうか最後までお付き合いください。
冷たく雪の降り積もった外とは対照的に、店の中は暖炉のおかげもあってか暖かく、出発の前に体の調子を整えるという意味では、とても居心地の良い場所であった。
目的地であるホルンに一番近い街で、俺とリヴヤは旅の準備をしていた。
一月前、国の南方で国境警備にあたっていた際、遭遇した盗賊団と戦闘になりリヴヤの魔力回路はひどく損傷を受けた。魔力回路の損傷は、体内で魔力を過剰に消費し、患者の体力を奪い、最後には魔法が暴発することで患者を死に至らしめる。
その魔力回路の損傷というのは不可逆的なものであり、当然不治であるとされているが、リヴヤはこの土地に伝わる迷信に縋って、この旅を提案してきた。
俺はまだリヴヤからもほとんど何も聞かされていないが、ただこの街を北に進んでいったホルンという山に向かうということだけは伝えられている。真冬の登山ということもあって、必要な装備をしっかりと揃えるために、この店に立ち寄ったわけだ。
俺は店の端のベンチに座っているリヴヤに度々チラリと目をやりつつ、棚にあるロープや食料を抱え、カウンターの上まで持って行った。
ドサっという音が店内に静かに響くと、奥から店主が出てきた。口の周りにたっぷりと髭を蓄え、革の着物を何着か重ね着している。年老いている、というほどではないが、それでも、その姿は貫禄のある人物であるように思えた。
「……お前さん方、ホルンに行くんかい」
カウンターの上に置かれた商品を一つ一つ確認しながら、その店主が聞いてきた。
俺はリヴヤの方に一瞬目をやると頷いたので、そうだ、と店主に返した。すると、大きなため息を一つつき、先ほど以上に入念に装具の不備がないのかを確認し始めた。
「この時期にホルンに登るのはおすすめできんな。森には魔獣が出るし、何より雪で体力が取られる」
店主はそう言うともう一つ大きなため息をついた。そしてリヴヤの方を少し見ると真剣な目で俺のことをじっと見てきた。
「あの嬢ちゃんが病気かい? ホルンに行くってことはその覚悟なんだな?」
「え、えぇ……ですがなぜ彼女が病気だと?」
「そらぁ、この時期にホルンに行くのにそれ以外の理由があるかよ」
魔力回路の治療のことだろうか。リヴヤから聞かされた話では、冬にそのホルンに登ると、どんな不治の病であっても治すことができるという。だが、元々俺もこの地域の美しい景色のことは耳にしたことがある。
「観光に来る人はいないんですか?」
ふと気になり、そのまま質問した。店主は眉をひそめながら、また大きなため息をつく。
「いいか若造……この時期のホルンまでの道ってのは、まず雪でまともに進めねぇ。そんで体力が奪われたところに魔獣が襲ってきたりするんだ。夏になりゃ雪も溶けて歩きやすくなるおかげで観光客も来るんだが。とにかく、ここ2ヶ月でそんな自殺みたいなことするやつはお前らしか俺の店に来てないな」
引き返すか、と聞こうと思い、リヴヤの方を見る。ホルンに行くのは絶対だとでも言うような目でこちらを見つめてくる。相分かったと俺も軽く頷いて返す。
「それでも、行くと決めたことですので。よろしければ、何か用意すべき装備があれは教えていただけますでしょうか」
店主に向き直って俺がそう言うと、店主は再度、しかし先ほどまでとは違ったため息をついた。
「その決心があるなら他にはいらねぇと言いたいとこだが……ちょっと待ってろ」
店主はそう言ってカウンターの上に置かれた商品を持ち、店の奥の方に入って行った。
店の中では、暖炉の中でパチパチと燃える薪の音と、俺とリヴヤの息の音だけが、その場を満たしていた。
一応、旅の前にもこの地域の魔獣や、注意すべきことなどは一通り調べていた。とはいえ、店主がこれほどまでに忠告をするとは思いもよらなかった。何か、俺たちをホルンに絶対に近づけたくない理由があるようにすら思えるほどだった。
そうして色々考えていると、チリンという鈴の音と一緒に店の扉が開き、それと同時に雪を孕んだ冷たい空気が店の中に広がった。
「これを持ってけ」
そう言う店主の隣には、大きなソリが置いてあった。人が3人は少なくとも乗れるくらいの大きさだ。そして、ソリのすぐ側にはそれを引くのに相応しい大きさのトナカイが立っている。
「こいつさえありゃ雪道でもある程度は進みやすくなる。ほれ、さっきカウンターに置いてあったやつは全部この袋に入れておいた」
「あ、ありがとうございます。ですが……そのソリとトナカイの代金はいくらでしょうか。それほどの大金を持っているわけではないので……」
「あぁ、こいつらはタダでいい。あんたらの旅を応援しようってわけじゃないが、餞別みたいなもんだ」
店主は鼻の下を擦りながら、バシバシとソリの手すりの部分を叩く。よく見れば小さな傷がついているものの、どれも丁寧に修復されていた。
「ただ、この袋の中身分はもらうからな」
「もちろんです」
深々と頭を下げながら、店主に感謝の言葉を何度も伝えた。
懐から財布を取り出し、紐を緩めて中から金を取り出す。袋の中とはいえ冷たい空気の中にずっとあったせいか、触れた瞬間にひんやりとした冷たさが指先に伝わる。
「おや兄ちゃん、あんた軍人さんかい」
財布を取り出した時に、ローブの下の胸の部分に刺繍された国章でも見えたのだろう、店主がそう聞いてきた。
「えぇ、一月前まで南方国境付近で任務に当たっていました。ホルンに行くのは、任務中に負った彼女の負傷のためであります」
「そうか……そうかい」
俺が話しながら金を渡すと、店主はそれだけ言って黙ってしまった。
俺はリヴヤをソリの後ろ側に乗せ、その隣に荷物を置くと、俺もソリに乗ってトナカイの手綱を握った。何も忘れ物がないことを確認し終えると、俺は手綱を緩めてトナカイに合図を出し、ソリを発進させた。
「……ありがとうございました」
リヴヤが初めて口を開き、店主に向かって挨拶をした。
「こう言うのもなんだが、達者でな、嬢ちゃん」
少しずつ小さくなっていく店主は、リヴヤに向かってそう言った。俺にはそれがどんな意味を持つのかははっきりとはわからなかったが、それでもリヴヤの顔が少し明るくなったように思えた。
静まり返った街の中をゆっくりソリで進んで行き、街と山との間にある門まで辿り着いた。門のすぐ側には、槍を構えた門兵が二人、こちらを見ながら立っている。
手綱を引いてソリを止め、挨拶のために立ちあがろうとすると、全て理解しているとでもいうように、軽く頷くと門を開いた。その門兵の視線は、ソリに付いた紋章に向かっていた。このソリをくれた店主の店の看板と同じ紋だ。
「行ってらっしゃいませ」
門兵のその言葉を背中に受けながら、俺とリヴヤを乗せたソリは、一面白に覆われた大地へと進んでいった。
ギシギシと、雪の軋む音を聞きながら森の中を進み続ける。三日間でかなりの距離を移動した。完全に凍結した川や、雪に覆われた平原をなど越え、既にホルンまでの道のりの半分近くは進んでいるはずだ。魔獣も店主に忠告されたほどは出ず、出たとしても小さな、それほど脅威にはならないものだけだった。
「ねぇ、あの森がそうじゃない?」
傾き始めた西陽に照らされ淡い橙色になっている雪原の先に、巨木が立ち並ぶ森が見えた。静寂の森、地図には店で買った地図にはそう書かれていた。ちょうどその静寂の森がホルンまでの単純距離の半分であるので、ずっとその森に辿り着くことを目標にこの三日間進み続けていた。
森と書かれていて、樹海であるならば道に迷うかもしれないと考えていたが、木々が並ぶのも、ある程度の間を空けてであるおかげで、太陽を見れば方角を見失うことはなさそうである。
「森の手前まで着いたら休むか?」
「いや、森をある程度進んでからでもいいんじゃない? この子もまだやれるって感じだし」
休息を提案すると、リヴヤは前でソリを引っ張るトナカイを指差しながらそう言った。俺としては森に入る前に再度装具の確認をしたいところではあるが、魔獣が出なさそうなら後でもいいかもしれない。
手綱を片方の手に握り直して、俺は側に置いてあった地図を開いた。地図通りであれば、今のペースで半日森を歩けばその先の平原には出られそうだ。陽が傾き始めた今からだと、日入り前に森を抜けられるかは急いでギリギリというところだろう。それならば、休みは最小限にして、今少し無理をしてでも森を抜けるべきかもしれない。
そんなことを考えながら地図を睨んでいると、視界が急に暗くなった。
「森に入ったんだから前見なよ」
リヴヤにそう言われて視線を上げる。すぐ隣には、人が手を繋いで囲むのに5人は必要に思えるほどの太さの木があった。まっすぐと空を突き上げるように伸び、圧巻と言うほかない。
そのまま木々の合間を縫って、森の中を慎重に進んでいく。
静かすぎる、ふとそう思った。以前、ここではないが似たような冬の森に入ったことがあるが、その場所では鹿やアナグマなんかの鳴き声や、うさぎなんかが少し遠くの場所を駆けていく音なんかが聞こえた記憶がある。もちろん、この森にその類の動物がいない可能性は十分にあるが、それでも妙な胸騒ぎがした。
「リヴヤ、後ろに何かが見えたら教えてくれ」
「魔獣? あまり気配はしないけど……」
「念の為だ。もしいた場合お前は魔法を撃たなくていい、俺がやる」
確かに魔獣の気配がしないとはいえ、もし遭遇して戦闘になった時、魔力回路に障害があるリヴヤに無理はさせられない。念の為、長剣を手元に置いておくべきだろうか。
そう思った瞬間、目の前のトナカイの息が上っているのに気がついた。無理をさせ過ぎただろうか。なんにせよ、一度休息を挟んで森を抜けるまでのことを考えるにはちょうどいいかもしれない。
「一旦、休憩にしよう。一度トナカイも休めたほうがいい」
トナカイから曳き綱を外し、近くにある木に頭絡をロープでくくりつける。それが終わると一度ソリから薪を取り出し、そこに火をつけて暖を取る準備をする。
「ひとまずあたりに気配はないよ」
ソリに乗ったまま周囲を見渡していたリヴヤが報告をする。そしてソリから降り、少しの食料と毛布を持って積まれた薪の近くまで歩いてくる。
「体は大丈夫か? キツくなったらすぐに言えよ」
リヴヤは一月前以降、目に見えるほど衰弱していた。少しでも明るく元気に振る舞おうとしているが、元々の嵐のような快活さはなくなり、目には少しの卑屈さも窺えた。
「とりあえずこれでも食え」
薪に火をつけ、串に刺して炙った肉を差し出す。以前の彼女であれば受け取ってすぐにかぶりつき、ものの数秒で平らげそうなくらいだったが、今の彼女は一口ずつ小さく噛み切って食べていた。俺ももう一本の串にかぶりつき、大して噛みもせずにそのまま喉の奥に押し込んだ。
風が雪面を撫でるように吹いていき、それと一緒に雪が風とともに舞っていく。風に運ばれた雪が顔にあたり、針で刺されたような痛みが頬に広がっていく。あたりは相変わらず静かで、変わったことがあるとすれば、その静かすぎるということのみであった。
その静けさの中に身を置いて、火に手をかざしている時だった。
バツン、とロープが勢いよく張られる音がした。鼻息を荒くさせながら、トナカイが木から離れようと、死に物狂いで木と繋がれているロープを引きちぎろうとする。
なんとかなだめようとして近付くと、軽い金属音とともに頭絡の金具が壊れ、逃げるようにしてトナカイは森の奥に消えていった。
「どうしたの?」
少し寝ていたのだろうか、目をこすりながらうっすらと開けた目で、リヴヤがこちらを見る。
「今すぐ移動しよう。何かがおかしい」
焚き火の近くに散らばった荷物を急いでソリに乗せるとリヴヤも急ぐようにソリに乗り、何度か指笛でトナカイを呼び戻そうと試みるも、無理だと判断し、諦めてトナカイに与える予定だった餌を雪に向かって投げ捨てた。
「行くぞ」
先ほどまでトナカイにつけていた曳き綱を肩に背負い、ソリを曳き始めた。曳けないほどに重いとは感じないが、それでもこの雪の深く降り積もった状況では、体力が消費されていくことは明らかだ。
幸いと言っていいのかはわからないが、すでに森の半分近くは進んでおり、これならば数時間で森は抜けられる。
「降りようか?」
「いや、いい。お前は座っておけ」
申し訳なさそうな顔で聞いてきたが、この雪道の中をずっと歩かせるのは体に対する負担が大きすぎる。そう判断して返すと、リヴヤの顔が少し暗くなったように見えた。
トナカイが逃げた方角に向かって、一歩一歩雪を踏み締めながら歩いていく。足を前に出すごとに、その出した足は膝下まで一気に沈み込む。ここが森でなければ、もっと風が吹き雪も締まってまだ歩きやすかっただろう。かんじきを履くことも考えたが、木の多いこの辺りでは、根に引っかかって足が取られる危険がある。
「待って、何か見える」
リヴヤが後ろで叫んだ。
「何が見える? そいつらはこっちに向かってきているか?」
「あれは……多分狼だ。しかもこっちに向かって走ってきてる」
「冗談だろう」
冗談ならよかったが、リヴヤはこんな状況で冗談を言うタイプではない。
少しでも狼との距離を取ろうと、俺は雪を強く踏み締め、走り出した。先ほどより足が深く沈むが、その沈んだ足をすぐに抜いて前に出し、また強く踏み締める。いつか雪中行軍をしたことがあったが、その時と同じほど体力が消耗されていく。
「ヴィーゴ、もうすぐそこまで来てる!」
「あぁクソッ」
曳き綱をその場で下ろし、ソリの後方に移動しようとすると、リヴヤが手のひらを狼たちに向けて、魔法を放とうとしているのが見えた。
「よせリヴヤ」
腰から剣を抜きながら、リヴヤを制する。狼程度、リヴヤの魔法があれば一瞬で蹴散らせるだろうが、そんな無理はさせられない。俺も魔法が使えたら。そんなことを思いながら剣を構えて、向かってくる狼たちを睨みつける。
目の前に迫ってくる狼たちに向かって剣先を向けた。もはや今までの全ての戦闘よりも緊張している気さえした。しかし
「えっ」
喉の奥から意図せず出てきた変な声は、狼たちの足音と息の音でかき消された。雪煙を立ち上らせながら森を駆けていくそれらは、俺もソリも無視し、何かから逃げていくように、一瞬で姿を消していった。
考えたくもないことが頭に浮かんだ。
俺は急いで曳き綱を再度肩にかけ、必死になって雪の上を走り始めた。森を抜けるまで、あとどれくらいかかるかなど、気にする余裕すらなかった。
一時間は走り続けただろうか、日は大きく傾き、冷えた手は綱と擦れて血が滲んでいた。雪に埋まった足を引っ張り出す速さも遅くなり、今すぐにでも目の前の冷たい布団の上へ倒れてしまいたいと幾度か思うほどだった。
だが、その疲れも一瞬で吹き飛んだ。疲れてずっと下げていた視線を上げると、奥に森の端が見えた。その先には森に入る前と同じ、大雪原が広がっている。あと少しと自分に言い聞かせながら、先ほどよりも強く雪を踏み締めて進んでいく。
「……ヴィーゴ、まずいかも」
「なん──」
聞き返そうとして後ろを振り向くと、森の奥から黒い集団が周囲の木々を揺らしながら進んでくるのが見えた。魔獣だ。遠目ではどんなものなのかはまだ判別できないが、あたりに放たれていく瘴気で、それが魔獣だとすぐにわかる。
俺はそれを見た瞬間、息をすることすら忘れ、前だけを見て走り始めた。後ろでは、リヴヤがいらないものを捨てて少しでもソリの重量を減らそうとしている。
それでも、後ろから伝わってくる地鳴りのような音との距離は、どんどんと縮まっていく。森を抜ける前に追いつかれる。そう判断して、引っ張っていた曳き綱をその場に投げ捨てるように置き、剣を抜いて後ろに迫っている魔獣の群れにそれを向けた。
白い息が視界を埋め、目の前に濃い霧を作る。その霧の奥の黒く、狼と似たような姿はしているが、その3倍以上はあろうかという体格の魔獣にしっかりと目を据える。
先ほどの狼とは比べ物にならないほどの恐怖が心の中に広がっていく。
膝も肩も指先も震えているが、それが迫ってくる魔獣の足音で揺らされているわけではないということは、考えるまでもなかった。後ろで聞こえる息の間隔が早まっているのを感じる。
魔獣の群れの一番先頭で走り込んでくる比較的小さい個体の動きを、一つ一つ注視する。一歩、一歩、黒い巨大な塊は近づき、そして目の前まで迫った瞬間、それの喉に向かって剣を突き立てた。
魔獣が振り回した爪がわずかに頬を掠め、血が垂れる。直後、その垂れた血がわからなくなる量の血液を頭から被った。
剣を抜き、軽く血を払いながら次に迫ってくるものに対しても剣を突き立てようとする。魔獣の爪を掻い潜り、懐に潜り込んで喉を突き刺す。二体目。今までで最も集中している気がした。
また別の個体に対しても同じように突っ込んでいく。爪をかわし、懐に潜り込む。そのまま喉に剣を突き刺す、はずだった。おそらく後ろ足だろう、左腕が爪で引き裂かれ、肉がえぐれた。骨が見えていた。
間髪入れずに、また別の個体が攻撃を加えてくる。なんとか身を捩ってそれをかわし、雪に倒れ込んだ。まだ使える右手で体を起こし、次の攻撃に備えようとする。しかし、構える暇もなく今度は左肩の肉が削がれた。
まずいな、死ぬ。目の前に迫ってくる魔獣の牙を見ながらそう思った。牙が眼前に迫る中、俺は最期にリヴヤを見ようとした。守るなどと勝手なことを言いながら、何も貢献できずに死ぬのが、ただひたすら申し訳なかった。視界の隅で捉えたリヴヤは、手のひらをこちらに向けていた。
ザク、という音を立てて目の前の魔獣が倒れ込んだ。側頭部に大きなつららが刺さっていた。
「ソリ曳いて! こいつらは私がやるから!」
呆然としていた俺の頭に、リヴヤの叫び声がこだまする。うまく動かない体をなんとか引っ張りながら、ソリの前方まで移動し、右肩に曳き綱をかける。使い物にならなくなった左腕をだらんと垂れ下げ、片腕だけでソリを曳き始めた。
後ろの方からは魔獣の咆哮と、つららの飛ぶ風切り音と、魔獣が雪に倒れ込む音とが、絶え間なく聞こえてくる。
クソが。そう自分に叫んでやりたかった。リヴヤに魔法を使わせないために俺が魔獣の相手をしていたはずだ。だというのに、俺は死にかけた挙句、リヴヤの魔法で助けられた。情けない、腹がたつ、悔しい、それらのどれなのかはすぐにはわからなかった。
走って、走って、走って、赤く細い線を雪の上に残しながら走っていく。体はどんどん重くなり、前を向くことすらできなかった。
しばらく走り続けると、急に眩しい光が目に飛び込んできた。今にも沈みかけている西陽が、雪に反射して顔を照らしていた。ようやく、森を抜けた。森を抜けた安心感からか、周りを少し見ることができた。後ろから聞こえる音は未だ止むことがないが、それにリヴヤの荒くなった息が混じっているのに気がついた。
なぜ、今俺ではなくリヴヤが苦しんでいるのか。そんなことを考えたところでリヴヤの負担を減らすことはできない。後ろから聞こえる音が、ただただ俺に自らの無力さを突きつけてきた。
顔面に冷たい風を受けながら、周囲を見渡した。どこか、少しでも状況がよくなりそうな場所はないか。一面に広がる雪原の右手には凍り切った川が、左手には高く聳え立った山が見えた。
頭の中で、森に入る前にずっと見ていた地図を思い出す。静寂の森を抜けて、その先の雪原に今はいる。だとすれば、右に見える川を進んだところの滝壺に、大きな洞窟があるはずだ。
「リヴヤ、この先の洞窟まで一気に走り抜ける。そこで一旦やりすごそう」
「……了解」
絶え絶えな息の返事を聞き、さらに加速して川の先を目指す。右肩の曳き綱を担いでいる部分が擦れ、焼けるように痛むが、もはやそれは気にならなくなっていた。今なら雪の上のトナカイよりも速いのではないかとまで思えるほど死ぬ気で走った。
後ろから聞こえる咆哮が、少しずつではあるが小さくなってくる。それと一緒に、つららが飛ぶ音も減る。
雪の中にある石や、小さな木に足を取られて転びそうになるのを堪え、冷たくなってくる風を切る。気づけば、陽もすでに沈んでいた。月明かりのみを頼りに、目を凝らして滝を探す。奥に山の側でキラキラと光る大きな氷の柱が見えた気がした。
それとほぼ同時だっただろうか、バタン、という音が後ろのソリで聞こえた。音だけでリヴヤに何かがあったのはわかったが、それを確認する余裕はなく、滝の方へと走り続ける。
走り続け、滝がそばに迫った瞬間、俺は急に一回転をして宙を舞った。滝壺が凍っており、それに気づかないまま足を滑らせたのだと、立ち上がりながら理解する。
ソリを曳き、そのまま凍った滝の後ろにある洞窟の中へ逃げ込んだ。
「ッ──」
滝の裏側に隠れてすぐ、リヴヤが魔法で洞窟の入り口を氷漬けにする。そして一拍置いて、魔獣がその厚い氷の壁にぶつかってくる音が、洞窟の中に響き渡った。
すぐ先も見えない暗闇の中で立ち上がり、微かに聞こえる息の音を頼りにソリのそばまで行く。ソリに触れると、おそらく勢いよくこの洞窟に入ったからであろう、ちょうど曳き綱をソリに接続していた部分の木が破損しているのがわかった。
「大丈夫か」
ソリの後ろに横たわるリヴヤの方を軽く叩いて起こそうとするも、返事はない。視界が悪く顔色を伺うことはできないが、それでも不規則な息の音を聞けば、非常に危険な状態だと考えられた。
急いでソリから薪を取り出し、近くで組み立てる。雪まみれになってしまった着火具を用いて、火をつけるが、薪が足りていないのに気づき、先ほどの壊れていたソリの前部分を薪の足しにと火の中に突っ込んだ。
それからまたソリまで戻り、リヴヤを火の近くまで運ぼうとする。
「すまん、担ぐぞ」
左の腕に力が入らず使い物にならないせいでうまく抱き抱えられず、右肩にできる限り優しく担いだ。火の側にリヴヤを寝かせ、火で照らされた彼女の顔を見ると、眠っていた。
ひとまずソリに置いてある毛布をかけ、食料の入れてある袋に入っていた蜂蜜酒を杯に入れ、火のそばで温めた。
揺れる光で照らされるリヴヤの寝顔は、とても美しかった。
少しでも苦しそうな呼吸が整えばいいと、念を込めるように毛布の上から彼女の背中さする。次第に呼吸も落ち着き、指先が微かにうごいた。
「ん……あれ? ここは?」
良かった。リヴヤの声を聞いた瞬間、心の底から安心していた。
「俺らが逃げ込んだ洞窟の中だ。もう音は聞こえないが、魔獣らは多分まだ外にいる」
「そう……」
リヴヤは腕で顔を隠すようにして、また目を閉じた。明らかに体調を崩している。魔力回路の損傷は不治の病ではあるが、それほど早く進行するとは聞いたことがない。
「これでも飲めよ」
火の側で温めていた蜂蜜酒をリヴヤに渡すと、渋々受け取って、一気に飲み干した。体が温まって少しでもよくなってくれると良い、そう願った。
「……ごめん」
しばらくの沈黙が続いたあと、リヴヤが俺に向かってそう言った。
「……君を巻き込んで、ごめん。本当に、ごめん」
いつになく弱々しい声で謝罪する姿は、以前の彼女を知っているせいか、より一層見るのが辛かった。
「お前が謝るな。俺は同意してこの旅をしているし、何よりお前の体のためだろう……それに、謝らなきゃいけないのは俺の方だ。散々お前を守るとか言っておきながら、結局今までと変わらずお前に守られここまで来てしまったんだ。だから──」
「いいよ……ごめん、本当に私が悪かったんだ。君にそんな傷まで負わせて。ごめん、ちょっと寝させて……」
「あ、あぁ」
どんなに励ましの言葉をかけても、今のリヴヤには意味がない、そんな風に思えるほど自分を責め立てているように見えた。ただ、俺の言葉に偽りは一つもない。俺はリヴヤの病を治すためにここまで来た。俺はリヴヤを守ると言っておきながら、何もできなかった。
薪がパチパチと燃える音を聞きながら、リヴヤの横でずっと座り続けていた。先ほどまでの外の凍てつくような空気とは違い、風もなく、焚き火のおかげで少し暖かかった。炎で照らされた洞窟の壁は、一面がごつごつとした岩で覆われており、そこからたまに水が滴り落ちる。
ポタリと、手に液体が落ちた。生暖かく、上から落ちてきた水ではない。左腕の傷から血が流れ落ちていた。それに、折れているのだろう、ズキズキと内側から痛んでくる。側にあった蜂蜜酒で傷口を流し、消毒をする。激痛が走った。
腰に携えていた剣を火で炙り、それを傷口に当てた。ジワリと皮膚の焦げる匂いが広がり、その傷口から流れる血が止まった。幸い動脈は傷ついておらず、それほど血は失われていなかったが、それでも少し体が重く感じる。側の木を掴んで、腕に当てる。その上から包帯を巻いて添木にし、服を着て強めに縛った。これで多少は痛みも減るはずだ。
隣で寝るリヴヤは、動くことなく、火に背を向けながら毛布にくるまっている。その首にひどい量の汗が見えたのは、しばらくしたあとだった。急いでそばに寄り、顔色を伺う。まぶたは小刻みに震え、浅い呼吸を繰り返し、たまに眉間に皺が寄っていた。
そっと手を伸ばし、おそるおそる首筋に触れる。指先に伝わった異様な熱さで、リヴヤが高熱を出しているとすぐにわかった。
「……おい、リヴヤ、起きろ。返事だけでいいから、少しだけ起きてくれ」
懇願するような悲痛な声が、洞窟の中に響き渡る。目を覚ましてすぐ水が飲めるよう、急いで氷を削り出して椀に注ぎ、それを火の近くで溶かした。
リヴヤからの返事はなく、その間にもリヴヤの肩を揺らし続ける。額や首に滲む汗を拭き、少量だけ口に水を含ませる。喉が動き、少し安堵の息が漏れる。これならば、軍医が患者の治療をするところをもっと見ておけばよかったと、今となってはもう遅い後悔が募る。
また汗を拭い、水を少量飲ませる。何度も、何度も繰り返した。焦りからなのか、自分が動いたからなのかはわからないが、俺の額からもずっと汗が流れ続ける。
しばらく続けると、リヴヤの顔色が良くなったような気がした。椀を口元に近づけるたびに、彼女の熱い息が指にかかる。
「ん……」
椀をリヴヤの口元につけた瞬間、彼女が目を覚ました。
「あっ」
目を覚ましたことで緊張が一気に解け、持っていた椀を地面に落としてしまった。念の為と用意していたもう一つの水の入った椀を渡すと、リヴヤは何も言わずにそれを飲み干した。
「なぁ……リヴヤ、お前のそれ、どこまで酷いんだ?」
直球すぎただろうかと、言ってから少し後悔した。リヴヤはわずかに俯いて何かを考えたあと、決心したような口ぶりで話し始めた。
「元々、一月前から本当は安静にすべきってくらいには体調が悪かったんだ。ただ、軍への報告も身の回りの整理もしなきゃいけなかったから、少し無理をして体を動かしてた。でも、そこ時はほとんど悪化しなかったよ。君にホルンに行きたいって言ったのはちょうど十日前かな……その前日から急に眩暈で倒れたり、突発的に熱が出たりしてね。昔ホルンの噂を聞いたのを思い出して、道中付き添ってくれって君にお願いしたんだ」
そこで一度リヴヤは唾を飲み込み、そしてまた深呼吸してから口を開いた。
「……筋肉痛の時に体を無理に動かすと筋肉がもっと痛むのと同じなんだろうな。私はさっきたくさん魔法を使っていただろう? それで多分、症状が一気に悪化したんだと思う……」
「それは……」
なんと言っていいか分からなかった。いろんなことを考えるが、喉を通ろうとする言葉がどれも違うような気がして、結局意味のない口の開け閉めを繰り返すだけだった。
「ごめん、言い方が悪かった。別に君のことは責めてなんかないし、むしろ感謝してる。君が居なきゃ私はここに来るまでに死んでたはずだからさ」
本当にそうだろうか。先ほどの魔獣の時も、何もできずにただ守られてばかりだった。今に始まった事ではない。ずっと、軍務中の頃もずっとだった気がする。そうだ、リヴヤの魔力回路が損傷したのも、その蓄積のせいではないのか。
自嘲的な考えばかりが頭をめぐり、リヴヤの体に気を使うのを忘れそうになる程自分を責めていたような気がする。
「君は、私がどうして君にホルンに連れて行って欲しいってお願いしたかわかる?」
「いや……分からん」
俺が何も言えず、静かであるのが気まずかったのか、リヴヤが俺に尋ねた。
なぜリヴヤが俺に頼んだのかは、正直言って分からなかった。それなりに出来る方だと自負しているが、それでも軍の中には俺より戦える奴はいるし、何よりホルンまでの護衛であるならば、俺だけでなくてもよかったはずだ。事前に魔獣が出るということは把握していたし、それについてリヴヤに説明もしたが、彼女は俺だけを道連れとして指名した。
「君がどう思っているのかは分からないけど、実は、私にとって一番気が楽でいられるのは君なんだ。他の誰でも代わりは務まらない。私は、最後になるかもしれない旅で、君と一緒に少しでも楽しみながら進めればいいと思ったんだ。そんな身勝手な理由で君を巻き込んだのは申し訳ないと思っているよ。それでもわがままを言わせてくれないか」
洞窟の天井から滴り落ちた雫の音が反響し、薪の爆ぜる音と共に妙な二重奏を奏でていた。
「……この先の道も一緒についてきて欲しい。ホルンの頂で極光を一緒に見るまで、君と一緒に楽しくいさせてくれないか」
視界が明るくなったような気がした。鼓動が早くなったような気がした。外で唸る吹雪が止んだような気がした。そうだ、リヴヤはずっと笑って旅をしていた。だというのに、俺が勝手に俺を責め立てて暗く重くなっては、彼女の笑顔を踏み躙るのと同じだ。
視線をリヴヤの目にしっかりと据え、決意を固めた。ここから先、何があろうと弱音を吐くことなしない、何があろうと俯かない。ただ、リヴヤの側で彼女が笑えるように共に進もう。
「あぁ……もちろんだ」
俺の声が反響したあと、笑う声が洞窟の中を満たしていた。
「これじゃ引っ張るのは無理だな……」
松明を作り、それを手に持ってソリの損傷具合を調べていた。引き綱が接続されていた部分は完全に破壊され、ソリを運ぶとすれば後ろから押すくらいしか考えられない。だが、それでは移動が遅くなる。リヴヤの状況を考えるなら、ホルンに辿り着くのは早い方がいいはずだ。
なんとか修理しようと試みるが、割れた木を再度くっつけるために必要な道具を、今は持っていない。
「ヴィーゴ、洞窟がこの先も続いてることってある?」
どうしようもなく途方に暮れていると、リヴヤが少し大きな声で言った。先ほどからある程度体調は戻ったが、それでも本調子ではない体を少し起こして、周囲を見渡している。
「炎が奥からこっちに流れてきてるんだ。多分、奥から風が来てるんじゃないかな」
確かに、この洞窟はまだそれほど調べられていない。地図にはこの洞窟に奥の道があるとは書いてはいなかったが、もしリヴヤの話が本当であれば、調べてみる価値は十分ある。そう判断して、松明を持って洞窟の奥へ一歩ずつ足元を確かめながら歩いていく。
少し進んで不思議に思ったのが、滝壺から離れるごとに凍った水たまりのようなものが多くなってくるというところだ。普通に考えれば、滝壺に近いほどそういうものはありそうだが、この洞窟は奥に進めば進むほど、地面の凍結部分が増えていく。次第にその凍結部分の割合は大きくなっていき、気づけば目の前の足元全体が氷で覆われていた。片足を岩肌部分にかけているから滑りはしないが、これ以上進めば一瞬で滑ってしまうだろう。
松明を高く掲げながら、上を確認した。先ほどいた洞窟の入り口付近より天井はかなり低くなっており、跳べば手がつきそうなほどである。
そして、前の、少し視線を上げたあたりに目を凝らすと、本当に小さなものではあるが、明かりのようなものが見えた。
見えにくくはあったが、それが月明かりの滲む冬空だと気付くのに、それほど時間はかからなかった。
「リヴヤ、当たりだ。この先を進めば洞窟を出られそうだぞ」
振り返って伝えようとした時、リヴヤのいる場所が自分の目線よりも明らかに下に見えた。おそらくここまでに軽い傾斜を登っていたのだろう。
足元に気をつけながらその傾斜を駆け降り、火の側まで戻った。
「リヴヤ、あの先を進んで一旦洞窟を出よう。多少風が流れているとはいえ、この場所は空気が溜まる。長居しているといつか呼吸ができなくなる。とりあえず、ソリに乗れるか?」
リヴヤが頷いて立ち上がろうとするも、それにもたつくのを見て、一気に抱え上げる。そのままソリの上に寝かせる。そして、側に置いてある袋の中から鉄鋲を取り出して、靴の裏に取り付けた。
ソリの後ろに回って、ソリを押しながらゆっくりと進み始めた。幸い、洞窟の中ではあるが地面の凹凸は少なく、滑走部が壊れることはないだろう。
火の側までソリを進めると、松明を二つ作ってソリの前部に取り付けた。
進むほどに洞窟は狭くなっていき、ソリがなんとか通れるくらいまでになっていた。その時には地面は完全に凍っており靴裏の鉄鋲が氷に突き刺して、しっかりと踏み込んでから前に足を出す。傾斜も大きくなっていき、ソリが重く感じられた。
「これ、出口まで行けそう?」
松明に照らされたすぐ側の岩壁を見ながらリヴヤが呟く。奥がこれ以上狭いということはなさそうに見えるが、それでも足を滑らせれば、ソリをぶつけてしまいそうである。
「こういう時は行けるって信じるもんだぞ」
出口が近づくごとに、外の月明かりに照らされて洞窟の奥がはっきりと見えるようになる。外からは一切の音も聞こえず、むしろ鉄鋲が氷に刺さる音が、洞窟を抜けた瞬間に外の空気に吸い込まれて消えていくように思わせた。
それと同時に、外の冷気が体を突き抜け、先ほどの焚き火の周りで過ごしていた時よりも、一気に寒くなった。リヴヤは毛布をぐるぐると体に巻き、さらに首元まで布で覆い切っていた。
奥があると気づいてから二十分も経たずに、洞窟の外まで出た。
「わぁ……」
リヴヤの口から、自然と感嘆の声が漏れるが、それも無理もない。どんな人間が、目の前に広がる光景に感動せずにいられるだろうか。
洞窟を抜けて月明かりが照らし出したその景色は、あたり一面に広がる凍った湖に、冬空の星々が反射し、まるで上にも下にも天が広がっているようだった。
ソリを少しだけ進め、滑走部を完全に氷の上に載せる。鉄鋲のおかげで滑らずにいるが、油断をすればすぐにソリがどっかに行ってしまいそうだ。その瞬間、俺はあることを閃いた。閃いたというより、氷の湖を見た瞬間に、やってみたいと思ったと言う方が正しいかもしれない。
ソリにロープをくくりつけ、それを洞窟の出口にある岩の出っ張りに引っ掛けて固定する。そして、袋の中から鉄刃のついた鉄板を取り出し、それを足に装着した。それからロープを解き、ソリの後ろを掴んで、氷を全力で蹴り出した。
「ハハハッ、何これ!」
リヴヤが楽しそうに笑う声が氷湖に響き渡る。
氷面を蹴るごとにソリは加速し、まるで矢のように風を切って進んでいく。
「こんなに速く移動するのは、初めてかもな」
馬よりも速く、これほどまでの速さは今まで出したことがなかった。
時折星で方角を確認しながら、ホルンに向かって突き進む。おそらくあの洞窟は、かなり昔に湖の水が流れ込んでできたものなのだろう。
記憶を辿って地図を思い返せば、確か、ホルンのすぐ側の大きな氷河が湖に通じていた気がする。とすれば、このまま上流に向かって進んでいけば、ホルンの麓に着くはずだ。
しばらく進んでいるうちに、風が頬を擦り付けるせいか、顔が軽い霜焼けのようなものになっているのに気がついた。リヴヤが心配になり様子を伺うと、風からうまく守るように首までだった布を顔全体に覆い、目だけを出して辺りの景色を楽しんでいた。
ある星を目指して進んでみると、景色は視界の端から端へと流れていくが、その星にはどうしても届かない。そんなことを楽しみながら、どんどんとホルンに近づいていった。
寒空の下で、俺とリヴヤの笑う声が氷面の上を伝い、どこまでも響いていった。
どれくらい氷の上を滑っただろうか。月の傾き具合を見るに、滑り始めて一時間は経っていそうである。
ずっと風を受けていたのもあってか、手袋をしていてもソリの後ろを握る手は軽い凍傷のようになっていた。顔にも霜がついており、前から吹き続ける風はなかなかに堪えた。
ソリの上では、笑い疲れたのか、リヴヤは毛布にくるまって眠りについていた。洞窟の中でのように、寝ながら病状が悪化しないか心配になったが、寝顔も寝息も穏やかである。ずっと気を使い続けてくれていたのだろう、とその眠っている顔を度々眺めながら、星空の下を進んだ。
進行方向の空には方角星があり、それを頼りに北へ北へとソリを滑らせる。もうしばらくすればホルンが見えてもいいはずだと思っていると、氷湖を囲む山の奥に、靄に覆われてわずかではあるが、切り立った、周りよりも一際大きな山が見えた。
地図を思い返すまでもない。その山の放つ神秘性だけで、それがホルンだと分かった。
ホルンの両側には大きな氷河があり、それが氷湖に接続している。
近づけば近づくほど靄は晴れ、その比較的いい天気のおかげで、その山頂まで捉えることができた。麓のあたりは雪で覆われ、それが山頂まで続いている。そしてその山頂は、まるで天を突き刺すかのように尖り、たまに岩肌を露出させている部分もあった。
氷湖から氷河に移り、少し滑りにくくなる。靴裏の鉄刃は変えずに、そのままホルンの麓まで一気に進んでいく。
麓に近づけば近づくほど雪の積雪量は増えていき、ソリもうまく滑らなくなった。
一度立ち止まり上を見上げると、ホルンがいかに大きく、険しいのかがよくわかる。普通の山であれば、麓から山頂を見上げたとしても首をそれほど折らなくてもいいが、ホルンの山頂を見上げようとすると、真夏の昼間に太陽を見上げる時と同じくらい上を見上げなければならない。
ソリを雪の中に少し沈めて固定し、リヴヤの肩を叩いて起こした。目を軽く擦りながらソリから降り、ホルンを見上げると感嘆のため息を漏らす。
俺はそんなリヴヤを見ながら靴裏の鉄刃を取り外し、袋の中に入れていたかんじきに取り替えた。この先ホルンを登る時には、ずっと雪の上を歩くことになる。その時に足が毎回沈んでいれば、時間も体力も奪われてしまう。
「ソリはどうするの?」
荷物をまとめながら、リヴヤがソリを撫でながら言う。まるで別れを惜しんでいるようだった。
「解体して持っていこう。リヴヤはそれに乗ってくれ」
「解体? どうするの?」
「少し運びやすく小さくするだけだ。すぐに終わる」
そう言ってソリの板を外していく。ホルンのこの急勾配をリヴヤに歩かせるわけにはいかない。能率よく解体し、滑走部と乗る場所のみの小さなソリが完成した。街の店主には悪いが、しっかりと弁償をしよう。
リヴヤはそれに乗り込み、俺もソリを引いた。雪を踏み締めると比較的硬く、新雪というわけではないようだった。
歩き始めると、少しずつ風が強くなった。氷湖を滑っていた時と同様、顔も目以外を完全に覆い隠しているからなんとかなってはいるが、それでも関節部分の布が伸び切ったあたりは、風の冷たさが直に肌に伝わってくる。
雪は踏み締めるごとに、それぞれの場所で違った音を出した。雪で湿った枯れ木が踏まれて折れる音、雪の中の空洞が潰れる音、たまにネズミの鳴き声のようなものまで聞こえてきた。
音が沸いては消える。振り返って周りの景色を見ようとすると、すでにかなりの距離を登っていた。それと同時に、風が強くなり、吹雪のようになり始めていることに気づく。
急いで何か身を隠すことができそうな場所を探すと、もうしばらく登ったところに大きな洞窟のような穴があるのが見えた。少し歩くペースを上げて、その大穴を目指す。
山に大きく開いたそれの中に入ると、先ほどまで吹き付けていた風は消え、少し空気が暖かく感じた。大穴の少し奥の方まで行き、リヴヤをそこに座らせる。
もう少し奥にも空間がありそうではあったが、月明かりがギリギリ届いている場所で腰を下ろす。雪道をかなり歩いたこともあり、一度腰を下ろすと、そこから立ち上がるのがなかなか億劫に感じられた。
座ったままソリの袋に手を伸ばし、中から薪を取り出した。中の薪はもう少なく、帰りの分が足りるか怪しいほどだった。最低限の分だけを並べ、そこに火をつける。火に照らされて初めて、自分たちのいる大穴が自然の洞窟ではないことに気がついた。
壁には大きな石が積まれていて、明らかに人工物のものであるのは確かだった。神殿のようなものだろう、手入れがされていないのを見るに、当分使われていないのだろうが、それでもホルンのような山では神祇祭なんかが行われていてもおかしくない。
火に手をかざしながら、俺とリヴヤは同じ毛布の中に包まった。彼女の腕が、俺の左腕の添木に触れ、驚いた顔をする。俺が何も言わないでいると、彼女もそれ以上何も言わなかった。
月明かりと焚き火の明かりが混じった淡く広い空間の、隅の狭いところで、互いに互いの体を温め合っていた。
たまに触れるリヴヤの手は冷たく、まるで氷のようだった。
「これじゃ私が温められてるだけだね。君の側はいつでも暖かくて安心するよ」
「……お前が安心するなら、それでいい」
「なにそれ」
そう言いながらリヴヤは、俺の肩に頭を預けた。もっと他のことを言おうとしたはずだったが、どれも喉の奥で詰まって、結局愛想のないことしか言えなかった。
「もう少し気の利いたことは言えないの?」
「俺がそういう人間じゃないのは知っているだろう」
「フフッ、まぁね」
リヴヤも照れ隠しなのだと気づいているだろう。それでも言うならせめて山頂まで辿り着いてからにしようと思った。今言えば気持ちが切れてしまいそうだった。
外の風が少し弱まり、雲が少し薄くなったのか、月明かりが少しだけ強くなった。
雪山の中を歩き続けて疲れたせいか、次第に瞼が上から落ちてくる。横のリヴヤも、半分寝そうになっている。
「ねぇ、ヴィーゴ」
リヴヤの囁くような声が洞窟に響いた。
「なんだ」
「ホルンの頂上まで、いけると思う?」
「行く。俺がお前を一番上まで連れて行く」
洞窟で暗くて、その上すぐ側に火があって良かった。もし陽の下の明るい場であれば、リヴヤに揶揄われていただろう。自分でもわかるほどに頬が熱かった。
「……うん」
リヴヤは一言答えて、そのまま目を閉じた。すぐに優しい寝息がすぐそばから聞こえ始めた。彼女の今までの言動にどれほど助けられてきただろうか。そんなことばかりを考える。
安心し切った顔で眠っているリヴヤを見て、それを自分の目に焼き付けていた。なんとしても、そう思った。そして、次第に睡魔に負けていき、俺も目を閉じて眠りについた。
肩揺らされて目を開けると、目の前にリヴヤの顔があった。
「ようやく起きた。もうすぐ日が上りきる頃だよ」
そう言われて寝起きの重い体を起こし、洞窟の外の方へと歩いていく。外の明るさを見る限り、夜でないどころか、既に昼間というくらいの明るさだった。
洞窟から顔を出し、空を見上げる。雲に隠れてはいるが、太陽がほぼ南を向いていることはすぐにわかった。
山の斜面の方に視線を移すと、おそらく昨晩、俺が眠った後に降ったであろう雪に、小さな小動物の足跡がついていた。一面の銀世界を、時折風が吹いてはその雪面から粉雪を巻き上げる。顔にそれが当たると、一瞬で目が冴えた。
小走りでリヴヤのところまで戻り、荷物の準備を始めた。昨日焚いていた薪は完全に炭になっており、地面に黒い跡をつけている。
袋の中から軽い食事を取り出し、一つをリヴヤに渡し、一つを自分の口に咥えた。袋の中を確認してみると、薪と同様、帰りの分は足りるかどうかギリギリだった。
ソリにリヴヤを乗せ、洞窟の入り口まで出る。雪が崩れないかどうかを慎重に確認し、雪の中に足を踏み出した。昨日の少し硬い雪とは違い、柔らかい新雪であるせいで、かんじきを履いていても足が一気に沈み込む。しばらく歩いてから後ろを確認すると、ソリで潰されてわかりにくくはなっているものの、大きな足跡が残っていた。
歩き続け、雪の斜面を登るごとに、顔に吹き付ける風も強くなり始めていた。もう少し早く起きていれば、風が弱いまま山を登れたかもしれないと少し後悔したが、過ぎたことは仕方がないと割り切り、今はリヴヤを連れて出来る限り早く山頂に辿り着くのを優先しなければならない。
ギシギシと雪を踏みつけて進み続ける。変わることのない景色の中で、ただただ足を動かす。風はどんどんに強くなり、いつの間にか吹雪のようになっていく。
「リヴヤ、大丈夫か──」
リヴヤの様子を確認しようと振り返ってすぐ、言葉を切って立ち止まった。滑らないように踏ん張りながらソリの側まで行き、リヴヤの顔色を確認する。額に触れると、一瞬氷のような冷たさが指先に広がったあと、奥からとてつもない熱さが伝わってきた。
「ヴィー……ゴ」
そう呼ぶリヴヤの口は、ほとんど言葉を紡げないままに動いている。それでも、笑いかけようとしてくれていることだけは伝わった。
首元では滲んだ汗が一瞬にして凍りつき、霜のようになっていく。冷気がリヴヤの体表から出ていた。
俺は先ほどよりも速く斜面を駆け上り始めた。
体調が悪くなったリヴヤに何が出来るか考えるのに時間はほとんど使わなかった。何もできないとわかっていた。俺が出来るのは、ただ早く山頂に辿り着いて、リヴヤに極光を見せることだけだった。
ソリを引く肩が痛む。雪を踏み込む足が痙攣する。前方を捉える視界が歪む。山頂まで、何時間もソリを引いて雪の斜面を駆け続ける。体の各部が順番に黙っていくようだった。肩が、次に指先が、そして足が。最後に残ったのはソリを引くという動作だけだった。
山頂に近づけば近づくほど吹雪の勢いは増し、次第にに前も見えなくなっていく。五歩先も見えない中、足元の感覚だけで斜面を登らなければならなかった。肉体的にも精神的にも疲弊し、何度も足が止まりそうになる。
たまにリヴヤの方を振り返って様子を確認するが、体調が良くなることはなく、むしろ悪化している。今思えば、氷湖に出たあたりの少し良かった体調は、死前快調だったのだろう。なぜそれに気が付かなかったのだろうか。自分を責めるようにして、雪を強く踏み締めた。
リヴヤの体表は一部凍り始めていて、それと一緒に、つららが勝手に放たれることも増えてきた。魔法の暴走が始まっている、それ以外考えられなかった。
ホルンを目指したりせず家で療養していたなら、もっと一緒に寄り添いながらいられただろうか。そんなことを一瞬考え、頭を横に何度も振る。
猛烈な吹雪で俯きながらも、足を前に出すことをやめない。段々と斜面の傾斜も大きくなり、力の入らない左腕を地面について少しでもバランスを取ろうと試みる。膝が崩れてバランスを失い、左腕が雪の中に突き刺さった。これほどの吹雪だというのに、指先に少し、雪とは別の岩のような感触があった。山頂が近いと、直感的に感じた。
そのまま左腕を使いながら斜面を登ると、すぐに服の中にあるはずの包帯が凍りついた。ロープを持つ右手も、ずっと吹雪に当てられて重度の霜焼けを起こしている。頭でそれを理解していても、それを気に止めることはなかった。
足を前に出す。左手で体を支える。雪を踏み締めてソリを引き上げる。それを何度も何度も繰り返す。どれくらいそれを続けたのかわからなくなっていた時だった。急に視界が開けた。
後ろを振り返ると、ソリのすぐ後ろに吹雪が迫っていたが、それ以上近づいてくることはない。周囲を見渡せば、既に暗くなっている空の下で、月と星の光に照らされた銀世界が、上に向かって広がっていた。前方を見上げる。尖った、槍の先端のようなものが見えた。山頂だった。
最後の力を振り絞るようにして、残りの斜面を駆け上る。不思議と体のどこも痛くなかった。むしろ、謎の高揚感のようなもので満たされていた気がする。
それ以上登ることができなくなってから、ようやく息を吐いた。ソリが滑り落ちないように固定し、雪の上に腰を下ろす。あまりに幻想的なその景色に、気付かないうちに心を奪われていた。
山頂には風もなく、音もなかった。あるのは星空と、すぐそばのリヴヤの呼吸の音だけだった。その静けさに、身体が溶けていくような感触に襲われた。
疲れ切った身体は、気を抜くとすぐに膝から崩れ落ち、仰向けに雪の上に倒れ込んだ。一面に広がる星空を前に、次第に思考が鈍くなっていく。
沈み始める意識の中で、ここに来た理由を思い出す。重い身体をなんとか起こし、ソリの側に戻った。
「……着いたぞ」
首を振って呆けた頭を叩き起こし、ソリの上でうずくまっているリヴヤを起こした。ほとんど衰弱し切っており、あとどれくらい持つのかわからないほどだった。
抱き抱えてソリから下ろし、そのまま雪の上に仰向けに横たわらせた。少しでも体を冷やさないように、リヴヤの下に毛布を敷く。
俺もすぐそばで天を見上げるように寝転び、ただ空を見つめ続けた。先ほどまで唸るような音で側を吹き抜けていた吹雪は完全になく、静まり返った世界の中で、隣からリヴヤの呼吸の音だけが聞こえてきた。
二人で見つめ続ける空には一つの曇り空もなく、ただ星空が視界の端から端まで続いていた。その空の中で必死に光の揺らぎを探したが、何も見つからなかった。自分の心の中に、何かぽっかりと大きな空白が開いてしまったような気がした。
「君には見えるかい?」
リヴヤがそう聞いてきた。見えるはずない。それを言葉にすることはできなかった。
「リヴヤはどうだ? 見えるか? 俺はまだ見つけられてないな」
「んーーー、見えるような見えないような。あ、あそことかどう? それっぽくない?」
そんな会話がしばらく続いた。本当に綺麗な星空だった。どんな奇跡でも起きてしまいそうだった。それでも、リヴヤの周りに広がる冷気は、消えることがない。笑って誤魔化してはいるが、身体もほとんど限界なのだろう。
「ハハハッ、そんな顔しないでよ。心の目で見れば多分見えてくるよ」
寒さで身体がこわばっているのか、リヴヤの声が震えている。笑顔を絶やさず、ずっと明るい声で喋りながら空を見ていた。
ずっと空に極光が出るように祈り続けた。ここまでリヴヤを連れてきて、体力を徒に消費させ、これ以上何もすることができないその無責任さに、自分で呆れ果てていた。もし旅に出ることを選んでいなければリヴヤとこうして星空を眺めることはなかっただろうが、それでももっと他の笑える楽しいことが、もっとたくさん、もっと多くの時間できたのではないか。捨てたはずのそんな考えが頭をよぎってしまう。
「いいんだ別に。本当に、君と一緒にここまで来れただけで私は嬉しいんだ。言っただろう、私は君と最後の旅ができて本当に幸せなんだ。だから、君が自分を責めることなんてない」
俺の顔を見て、何かを察したようにリヴヤがこちらを向きながら言った。そんなリヴヤに対して謝罪の言葉など、口にすることはできなかった。
「それにしても、ここで終わりかぁ。楽しかった、な……」
リヴヤはそう言いながら、まるで諦めるように目を閉じた。これが運命なんだと言うようだった。
もし俺にも魔法があって、そしてそれが光を映し出すものなら、何をしていただろうか。光を映し出さなくてもいい、魔法があれば何かできていたりしたのだろうか。ありもしないものを考えることなど、してはならないとわかっているのに、そう考えてしまう。
そのまま俺も諦めて、目を閉じようとした時だった。先ほどまで見つめていた空が、少し歪んだ。目を擦って、もう一度空を見つめた。
星空を泳ぐように、大きな光の帯が漂っていた。奇跡があるとすればこんなことを言うのだろう。そう思った。
「リヴヤ、もう一度目を開けてくれ」
隣で目を閉じ、ただ死を待っているリヴヤを呼んだ。一緒にこの神秘を見たかった。
「……ハ、ハハッ、綺麗だな、これは。本当に奇跡が起きそうな美しさだよ」
ひたすらに美しい光の帯は、空全体に広がり続け、小さな光の散りばめられた海の上で踊り続けている。リヴヤが横で、心の底から笑っているのが見える。その笑顔が、目の前の極光よりもよっぽど美しく見えた。
その直後だった。風切り音と共に、つららが一本、極光に向かって伸びているリヴヤの手の先から放たれていた。気づけば、リヴヤの周りに広がる冷気も、先ほどより濃く、強くなっていた。笑っているせいでわかりにくいが、頬も紅潮し、発汗もひどくなっている。症状が悪化していた。
何も言えなかった。リヴヤの笑う横で、俺だけがずっと沈黙し続けていた。ホルンの頂上で極光を見れば、どんな病も治る。そのはずだった。
「ごめん。元々……元々私は知ってたんだ。ここで極光を見ても治らないって」
俺はどんなに酷い顔をしていたんだろうか。俺の顔を見てリヴヤが言った。
「ならなんで──」
「ホルンで極光を見ればどんな病も治るなんて噂はそもそもなかったんだ。騙すようなことをして、悪かった」
ならなんでここまで連れてきたんだと聞こうとしたが、その答えをリヴヤがどう伝えれば良いのか悩んでいるようで、それ以上の追求はできなかった。
ただ、もう一度沈黙が流れ、二人で空を見上げる。目の前の極光は今までよりも激しく踊り、炎のようだった。
そうしている間にも、隣から伝わってくる冷気は強くなり、リヴヤの側の雪が、まるで氷のように変わっていった。隣で空を見上げるリヴヤは、このまま消えてしまいそうなほど儚く見えた。
「……ホルンの頂上で極光を見れば、魂が巡る。昔、この近くに遠征に来た時に、病に伏している貴族の奥様がそう話していたよ。彼女はその後、家族でここに来て極光を見たと、風の噂で聞いたんだ。誰かと一緒に極光を見れば、来世で再会できる。彼女は来世でまた会いたい人に家族を選んだんだ」
淡々とリヴヤの口から出てくる音は、どれも美しく響きながら雪に吸い込まれていった。
「それを思い出したのは本当に偶然なんだ。ただ、それでもそれに縋りたかった。私は死ぬ前に、ここで君と極光が見たかったんだ」
口から出て行こうとする言葉を捕まえては、また喉の奥に押し込む。何を言っても自分の言いたいこととは違う気がした。
視線の先にある美しい空が、より一層体に沁みてくる。隣から伝わる冷気も、暖かく思えた。自分がどんな顔をしているのか、自分でもわからなかった。ただ、頬に冷たい感覚があったのだけは、はっきりとわかった。
俺の手に、リヴヤの手が触れた。それはとても冷たく、そしてとても温かかった。
「ハハ、もう暗くて君の顔もよく見えないな。この温かい手ともお別れをしなきゃいけないのか……寂しいな」
二人で、雪の上で向き合った。
「俺はお前を……リヴヤをここまで連れてきたことを誇ろうと思う。これから、一人で彷徨っても、この場所に俺がいたことを忘れないでくれ」
「君は、ずるいな。わかった、次また会う時まで、君がここにいたことを忘れないと誓うよ。ありがとうね、ヴィーゴ」
燃えるような冷たい空の下で、二人で笑い合った。最後の笑顔だった。そこに涙はなく、ただ戦友を見送る場でまたの再会を誓い合って笑い合っていた。
極光が大きく広がり、まるで迎えにきているようだった。リヴヤのこれからの旅路を祈るように、彼女の手に口付けをした。
リヴヤは嬉しそうに笑っていた。何かを言おうとして、それを飲み込む。表情が少し曇った。申し訳なさそうな、そんな表情をしていた。彼女の手が俺の肩まで伸び、そして強く押し込んだ。
「ごめんね」
俺は訳がわからないまま宙に浮き上がり、リヴヤに手を伸ばしていた。斜面に激突し、ホルンの頂上から転がり落ちた。ただ自分が斜面を転がっていると言うことだけが理解できた。雪に埋もれるように転がり、そして止まった。
何もわからないまま顔をあげ、上を見上げた。そのときだった。パキンという音と共に、極光の下をつららの矢がいくつも飛び交った。そしてそれが止むと、吹雪が山頂を覆った。
それが見えた次の瞬間には、俺の足は山頂に向かって動いていた。何も考えられなかった。頭はただ、足に駆け上れと命令を出すだけだった。何度も躓き、真っ白な雪に顔から突っ込んだ。それでもすぐに顔をあげて、また斜面を駆け上る。血が回らず、視界が暗くなっていく。
大きく息を吸い込んでは一気に吐き出す。冷気を肺に出入りし、凍りつきそうだった。躓くたびにつく手が、何度も雪に打ち付ける顔が、雪の中で動かし続ける足が、今にも凍りそうだった。もはや帰ることなど頭になく、ただひたすらに斜面を駆け上った。
必死になって駆け上った先に、雪の壁があった。雪を孕んだ暴風が、山頂を取り囲むように壁を作っていた。
躊躇うことなく、その中に足を踏み入れた。雪がむき出しの肌を切りつける。寒さなどとうに感じられなくなっていた。
すぐ先も見えない吹雪の中を進んでしばらくすると、急に視界が晴れた。
吹雪の中で凍りついた瞼をなんとか開き、前を見ると、大きな氷柱が一本立っていた。極光がそれに反射し、生きているかのようにさまざまな輝きを見せる。
呼吸のたびに、曇る息がその氷柱を隠す。氷柱の側まで行き、そして触れた。冷たいはずのそれは温かく、くすみ一つなく透き通っていた。気づけば視界が歪み、雪に膝を突き立てていた。氷柱に頭を預け、肩を揺らす。
その旅路が良いものであるように、ただ祈り続けていた。
ここまで読んでいただきありがとうございます。正直ヴィーゴが可哀想な気がするので、いつか報われる日が来てほしいところ。できるならばさっさと二人には再会してもらいたいのですが、ヴィーゴもヴィーゴでこの後の日々で楽しみを見つけて生を謳歌してもらいたいです。
さて、最後にお願いなのですが、ポイントと感想を頂けると筆者は泣いて飛んで喜びます。ですので、筆者のバカみたいな姿を想像しながらポイントのところをポチッとして、そのまま感想を送っていただけると大変嬉しいです。どうかお願いします




