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63 約束とおまじない

***

「けほっ」


 身体が重い。喉が痛く、嚥下することさえつらい。額に乗せられた掌に心地よさを感じてゆっくりと瞼をあける。


「起こしたか」


 男は床に膝をつけ、心配そうな顔でこちらを見る。


「…………もう行くの?」

「ああ。お前がこんな状態の時に悪いな」

「いいのよ。仕方のないことだもの」


 心配そうにこちらを見てくる男は誰なのかわからない。しかしわからないはずなのによく知っている気がした。


「せめて町の外へ続く橋まではお見送りに行きたいのに……」

「いいって」

「…………ちゃんとご飯は三食食べるのよ」

「ああ」

「きちんと睡眠はとること」

「わかっている」


 自分の口から自然にスラスラと言葉が出てくる。


「お酒はほどほどにすること。……一緒に行けないのだから酔っぱらっても介抱できないんだからね」

「……………………なんか母親みたいだな」

「違うでしょう? 私はあなたの「奥さんだろう?」…………わかっているじゃない」


 なんだかはっきりと言われて照れくさくなる。新婚ということも理由の一つなのだろう。


「お前こそちゃんと休んでいるんだぞ。せっかく仕事で王都に行くんだ。滋養に良いものを持って帰ってくるからな」

「…………ええ」


 男は立ち上がる様子を眺める。

 少しの心細さを感じながらも目の前の彼には気にしないで仕事に行ってほしいという気持ちもあり、いつも通り見送ろうと目頭に力を籠める。


「行ってくる」

「ええ。いってらっしゃい。……私がいないからって仕事で下手打つんじゃないわよ」

「わかっているよ」


 男はゆっくりと家のドアに向かって歩き出す。それを寝台に横たわりながら見つめる。

 男はドアに手をかけるが、動きをぴたりと止めてしまう。


「あなた?」

「……………………」


 男はゆっくり振り返り、こちらに向かって歩いてくる。


「どうしたの? なにか忘れ物でもあった?」

「そうだな。…………確かに忘れ物だ」


 男はゆっくり床に膝を着き、寝台に横たわる女の頬に手を添える。そして熱で火照った額に口づけを落とす。


「…………!」

「はやく良くなるようおまじないだ。危うく忘れるところだった」

「…………バカ。…………早く帰ってきてね」

「ああ。……………………約束する」


 男は子どもっぽく笑い、今度こそ荷物を持って歩き出す。

 おまじないかなんだか知らないが、そんなことで病がよくなるわけはない。そんなことは分かっていた。しかし今だけは先ほどから感じていた重い身体から解放されたような気がした。


「いってらっしゃい」

「いってきます」


 男はもう一度振り返って朗らかに笑う。そしてゆっくりドアを開けて外へ出ていった。

 ドアはゆっくり、ゆっくりと閉まっていく。自分が愛した男の影が外へ飲まれていく。その様子をゆっくり、ゆっくりと見つめる。


(駄目……駄目……)


 なぜそう思ったのか女には分からない。しかしその時今まで靄がかって見えていた景色がくっきりと見える。


(私…………知ってる……このまま行かせてしまったら絶対後悔する!)


 女は重い身体を何とか起こす。


(駄目…………絶対に…………ここで見失ってしまえば……このまま見送ってしまってはもう……!)


 火事場の馬鹿力とはこのこと。女は勢いよく寝台から立ち上がり、家のドアを乱雑に開けて走り出す。


(速く…………もっと速く……追いつけるように)


 彼が出て行った後すぐに家を飛び出したはずなのに彼の姿は見当たらない。しかし女は勘を頼りに歩みを進める。


(ここで止まっちゃ駄目! 絶対に……絶対に!)


 あたりはまだ暗い。早朝だが、まだ日は昇っていない。周りに人もいない。


「もっと……もっと速く!」


 ひたすら足を動かす。しばらく走るとようやく見慣れた後ろ姿が見えた。


(よかった……見つけた……)


 右手を前に出す。大切な人を止められるように。引き戻すことができるように。

 しかしその手は届くことなく、後ろから伸びてきた誰かの手が彼女の腕を掴んで後ろへ引き戻す。


(あと少しなのに!)

 


***

「アイリス!!」


 低く、それでいてはっきりとした声が頭に響く。視界がぐにゃりと歪曲して違う景色になる。そこには二人の人がおり、どこか洞窟の中のようにも見える。


(誰……)


 しかしそれも一瞬。すぐに現実味のある感覚に引き戻され、景色も変わる。

 後ろから回された腕はアイリスを覆うように回されている。その腕は彼女を支えるように、それでいてどこかへ行ってしまう彼女を止めるような、ほどけない力加減だった。アイリスは後ろを振り返る。


「私の…………名前…………」


 アイリスは膝から力が抜け、意識が闇に落ちたのだった。

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