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どうすべき、ではなく、どうしたいか

翌朝、亜里沙は日本への帰国の途についた。ヒースロー空港は相変わらずの喧騒。いつものように専用ゲートを通過する際、ふと、一般ゲートの賑わいが目に入る。あちら側には、どんな出会いや別れがあるのだろう。搭乗前、スマートフォンを取り出し、誠太郎のインスタグラムを開く。新しい投稿はない。

十三時間のフライト。映画を観るでもなく、文庫本を開くでもなく、時折窓の外に広がる雲海を眺める。出された機内食には、あまり箸が進まない。普段なら、長いフライトは思索を深める良い機会。しかし、今の亜里沙の心は、ざわついて落ち着かない。誠太郎の、あの子供じみたハンガーストライキが、頭から離れないのだ。「まさか、本当に…」そう自分に言い聞かせるものの、小さな不安が消えない。

日本に到着。十三時間と九時間の時差。体内時計はまだ夜なのに、窓の外は朝の光。着陸態勢に入ると、亜里沙は慣れた手つきで身支度を始めた。皇室御用達ブランドの控えめなブラウスとスカートスーツ。薄化粧を施し、髪を整える。深紅のドレスを纏っていた昨夜の自分とはまるで別人。まるで、これから始まる舞台に向けて、役衣装に着替えるかのようだった。

飛行機が停止し、ドアが開くまで、亜里沙は深く息を吸い込んだ。

タラップを降り、ターミナルビルへ。数台のテレビカメラと、それを囲む報道陣。通路の両側には、出迎えの人々、そして、物珍しげな視線。亜里沙は、完璧な微笑を浮かべ、軽く会釈をしながら歩を進める。穏やかで、優雅な皇女。しかし、その内面では、無数の視線が肌を粟立たせていた。「皇女」という記号を見つめる、値踏みするような視線。

(帰ってきてしまった…)

華やかなロンドンの喧騒から一転、静かで重苦しい空気。まるで、水槽の中に戻された熱帯魚のように、亜里沙は息苦しさを感じた。

手配された車に乗り込むまでの、ほんのわずかな距離。永遠にも感じられる。ドアが閉まった瞬間、張り詰めていた糸が、ぷつんと切れた。疲労感。しかし、時差ボケ対策のため、眠るわけにはいかない。

皇居へと向かう車中、スマートフォンを取り出す。誠太郎のインスタグラム。

(誠太郎のストーリー)(昨日と同じように俯いている写真)「ハンガーストライキ二日目…だいぶお腹が空いてきたけど、諦めません。#ハンガーストライキ #届いて #待ってる #奇跡を信じてる」

「まさか…」

小さな石が、胸の奥底に落ちた。他人事ではない。そう思った瞬間、指は勝手に「絶食」「断食」「危険性」と検索していた。医学的な見地からの注意喚起、断食のリスク…。誠太郎は、そんなこと何も考えていないだろう。無鉄砲にも程がある。

皇居に到着。亜里沙を出迎えたのは、国王の父、道真と、王妃である母、紫苑だった。

「お帰りなさい、亜里沙。長旅、疲れたでしょう」

国王は、温厚な笑みを浮かべ、亜里沙の肩にそっと手を置く。その眼差しは優しい。

「ただいま戻りました、お父様」

亜里沙は短く答える。

「ロンドンは、楽しかったかね?」

道真の声には、かすかな期待が込められているように聞こえた。

「…はい、お父様」

亜里沙は、曖昧に答える。

紫苑は、亜里沙をじっと見つめる。

「少し顔色が良くないように見えます。きちんと食事は取れているの?体調管理は一番大事な仕事よ」

心配しているようにも聞こえるが、どこか厳格な響き。

「…少し、時差ぼけが残っているだけです。今日はもう失礼させていただきます」

亜里沙は、精一杯の笑顔を作り、自室へ向かう。

自室に戻り、荷物を整理する。ドレッサーの引き出しから、誠太郎から贈られたアズロマラカイトを取り出した。

(彼は、今、どうしているのだろう…)

ロンドンは今、深夜。誠太郎はおそらく眠っている。

亜里沙は、アズロマラカイトを、いつも身につけている宝石の隣に配置した。新しい自分と、古い自分。共存できるのだろうか。

アズロマラカイトを見つめながら、誠太郎の言葉を思い出す。

「…何か新しい変化が始まったら嬉しいなって…」

変化…。それは、私が最も遠ざけてきたもの。あってはならないと教えられたもの。完璧な微笑、淀みのない所作、適切な言葉遣い。精巧な、良くできた仮面。でも、私の心は…。

「私は、どうしたいの…?」

自問自答する。

「もし彼が体調を崩したら…?」

様々な思いが交錯する。時差ボケによる眠気。ソファに横になる。浅い眠り。

目が覚めたのは、夜の7時。飛び起き、時計を見る。午後七時。ロンドンは今、午前十時。

亜里沙は迷わずスマホを手に取った。誠太郎のインスタグラムをチェックしないといけない。もし、まだハンガーストライキを続けているなら…。



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