女の影
翌朝、目覚めてすぐにスマートフォンを確認するが、誠太郎からのメッセージは届いていなかった。
その日の公務は、昨日以上に身が入らなかった。
心配した田中が、声をかけてくれる。
「亜里沙様、どうかされましたか?顔色がすぐれないようですが…」
「…少し、寝不足なだけよ。」
「左様ですか…」
(!!!!あの寝つきの良い亜里沙様が、寝不足!?ただ事じゃないわ)
田中は、内心、ものすごい衝撃を受けたが、それ以上は何も聞かなかった。
午後になっても、誠太郎からの連絡はない。
亜里沙は、仕事への集中力を完全に失っていた。
「…もう、帰るわ…」
亜里沙は、予定より早めに公務を切り上げ、自室へと戻ることにした。
スマートフォンを握りしめ、何度もメッセージアプリを開いては閉じる。
「亜里沙様、お疲れでしょう。何か、リラックスできるものをお持ちしましょうか?」
心配そうに声をかけてくる田中に、亜里沙は、弱々しく微笑んだ。
「…ありがとう、田中。でも、大丈夫よ…」
「…そうですか。…あの、亜里沙様。」
「…何かしら…?」
「…もし、何かお悩み事があれば、いつでも、私に話してくださいね。」
「…」
「…お力になれることがあれば、いつでも、仰ってください。」
「…ありがとう、田中。」
田中は、静かに微笑み、部屋を出て行った。
(ずっとスマホを持っていらっしゃる。もしかして、これは、、、!?)
一人になった亜里沙は、再びスマートフォンを手に取る。
時刻は午後3時。
いつもなら、仕事に励んでいる時間だ。
その時、スマートフォンが振動した。
すぐに中身を見る。誠太郎からのメッセージだ。
『連絡が途切れてしまってすみません。体調を崩して、ホテルで寝込んでしまいました。元気になったら、また連絡します。』
亜里沙は、メッセージを読み、一瞬で状況を理解した。
そして、同時に、誠太郎の体調を心配する気持ちが、強く湧き上がってきた。
すぐに返信を打つ。
『熱は高いのですか?病院には行きましたか?』
すぐに、返信が来た。
『今は38.7度です。ホテルの医師が来てくれて、インフルエンザとの診断です。』
『水分は足りていますか?不足しているものがあれば、教えてください。』
『ホテルのコンシェルジュに助けてもらってますので、ご安心ください。…不足しているものといえば、この前、僕が撮った亜里沙さんの、写真が欲しいです。』
冗談めかした言い方だったけれど、私に心配かけないようにしているのが伝わる。弱っているのに頼ってもらえないのが、少し悲しい。彼のために何かをしてあげたい。亜里沙はそう思った。
『部屋番号を教えてください。差し入れをお持ちします。その後、写真を送ります。これは、取引です。』
『一番奥の2140です(即答)。写真ください。』
『では、仕事が終わり次第、差し入れをお持ちします。』
公務はもう終えているが、帝国ホテルに向かう支度に時間がかかる。
亜里沙はすぐに田中に声を掛ける。
「田中さん、今から少し出かけたいの。スーパーで買い物をして、帝国ホテルへ向かうわ。車を手配してくれる?」
「はい、承知しました。警護はいかがいたしましょうか。」
「警護は出入り口まででいいわ。施設の中は一人で行動します。」
「はい、ではいつものスーパーに立ち寄るようにさせていただきます。」
亜里沙は身支度をして、車に乗る。顔を隠すため、帽子を目深にかぶり、眼鏡をかける。
スーパーでは、飲み物やゼリーなど、療養に適したものを買う。飲み物は温かいものと冷たいものを選び、温かい飲み物は、保温のためにハンカチで包む。
そして、ホテルに着くと足早に、彼の部屋へと向かう。
2140号室。彼が言っていた通り、一番奥の部屋だった。
部屋番号を確認した、その時。
ドアの中から、女性が出てきた。
(…え…?)
想定外の事態に思考が停止する。
相手の女性も驚いたようだが、すぐにビジネススマイルに切り替え、こちらに話しかけてくる。
女性「2140号室に、何か御用でしょうか?」
亜里沙「日比谷さんが体調を崩されたとのことで、こちらを渡しに参りました」
亜里沙も皇女モード全開の笑顔で応戦する。
女性「では、私が渡しておきます。彼は今薬を飲んで寝ておりますので」
女性は亜里沙の荷物を少々強引に引き取る。その視線は、明らかに敵意を含んでいた。
「…では、私はこれで…」
亜里沙は、そう言って、女性に背を向けた。
しかし、すぐに、女性が、亜里沙を引き留めた。
「あの、あなた、誠太郎さんをロンドンで振った人ですか?」
亜里沙は、足を止め、振り返った。
「…だとしたら、何なんですか?」
「迷惑してるんです。彼にはもう構わないでください。それでは」
女性は、そう言い放つと、誠太郎の部屋に戻る。その場を後にした。
亜里沙は、一人、廊下に残され、呆然と立ち尽くしていた。
胸のざわつきが、止まらない。
(あの人…誰なの…?)
彼との関係は、分からない。
しかし、あの女性は、部屋のルームキーを持っていた。誠太郎にとって、特別な存在であることは、間違いないだろう。
その時、初めて、亜里沙は、誠太郎の魅力を、客観的に認識した。
爽やかで、ハンサムで、冒険家で、事業家で、背が高くて、優しくて、才能があって、気遣いもでき、頼りがいもある。
そんな彼が、女性にモテないはずがない。
今まで、自分に向けられていた誠太郎の優しさや、真っ直ぐな言葉を思い出し、そして、彼が他の女性にも、同じように優しく接している姿を想像すると、胸が締め付けられるような痛みを感じた。
今まで心の奥底に隠していた、誠太郎への恋心が、はっきりと輪郭を持ち始めた。
(私は別に彼女じゃないし、彼の人付き合いに口を出す権利はないのだけど…、あの人にだけは、負けたくない…)
今まで感じたことのない、強い感情が、亜里沙の中で燃え上がっていた。
それは、誠太郎に対する独占欲を自覚した、一人の女としての、初めての闘争心だった。
そして、その出会いが、今までとは違う新たなステージへと、導いていくことになるのだった。




