い、いつから、気づいてました…?
亜里沙は、金曜日17時、私用車に搭乗し、自宅を出た。
公務時の普段の華やかな装いとは異なり、落ち着いた色のワンピースに、つばの広い帽子を目深にかぶっている。大きなサングラスで顔の大部分を隠し、普段とは違う眼鏡をかけていた。念のため、ヘアスタイルも少し変えている。これで誠太郎からは別人に見えるはずだ。
日本橋の商業施設に到着すると、目立たない入り口から静かに入館した。目的の個展会場は、商業施設の一角に設けられた特設スペースだった。事前にオンラインで購入しておいたチケットを手に、受付に向かう。
入口付近には、誠太郎が立っていた。来場者一人一人に、にこやかに挨拶をしている。
ほんの一瞬、誠太郎と目が合った。心臓が跳ね上がったが、亜里沙は平静を装った。
視線を合わせることなく、挨拶をし、素知らぬふりで通り過ぎた。
誠太郎は、特に気にする様子もなく、亜里沙に入場の挨拶を行い、次の来場者に対応していた。亜里沙は、安堵のため息をついた。変装は成功したようだ。
会場内は、落ち着いた照明で照らされ、様々な鉱石が展示されていた。壁際には、パライバトルマリンの鮮やかな青、水晶の透明な輝き、天然の砂金の複雑な形など、誠太郎が採掘・集めた鉱石が、丁寧に解説とともに展示されている。
亜里沙は、一つ一つ熱心に見て回った。説明書きにもしっかりと目を通し、その鉱石が持つ歴史や特性に、知的好奇心を刺激される。誠太郎がそれぞれの石に込めた想いが伝わってくるようだった。
個展の中央には、ひときわ大きなアズライトマラカイトが展示されていた。メイン展示ということもあり、周りには人が集まっている。亜里沙は、人混みを避け、一番最後にゆっくりと見ることにした。
しばらく他の展示を見て回った後、個展の終了時間が近づき、最後にアズライトマラカイトの前に立った。
それは、誠太郎から贈られたものよりも、さらに大きく、力強い存在感を放っていた。
深い青と鮮やかな緑が複雑に混ざり合い、息を呑むほど美しい。隣には、同じアズライトマラカイトを加工した髪留めが置かれていた。繊細な細工が施され、原石とはまた違った魅力を持っている。
展示スタッフが、熱心に見入る亜里沙に近づき、説明を始めた。
「こちらのアズライトマラカイトは、今回の個展の目玉となっております。特に、こちらの髪留めは、オーナーである日比谷が、ある女性に贈るために作られた非売品でして、今のところ、誰かに販売する予定はないとのことです。」
亜里沙は、その説明を聞きながら、胸が締め付けられるような感覚を覚えた。
特別な女性…それは、誰のことだろうか?期待と不安が入り混じった複雑な思いが頭を駆け巡る。
展示時間の18時が近づき、閉場の案内が流れ始めた。亜里沙は、名残惜しい気持ちを抱えながら、個展の出口へ向かう。出口方面には、またしても誠太郎が立っている。
そして、彼は満面の笑みで、こちらに近づいてきた。
「お客さま、本日はご来場誠にありがとうございます。」その声を聞いた瞬間、亜里沙の心臓が跳ね上がった。
まさか、話しかけられるとは思っていなかった。
誠太郎は微笑みを深め、言葉を続けた。
「お客さまは、今回の個展の500人目の来訪者です。よろしければ、こちらを受け取っていただけないでしょうか。」
そう言って、鮮やかな花束を差し出した。
予想外の展開に、亜里沙は戸惑いを隠せない。周囲を見回すと、他の来場者もこちらを見ている。
注目を集めていることに、わずかな焦りを感じた。マスクを軽く付け直し、深呼吸を一つ。
落ち着け、私は別人だ、と心の中で繰り返した。
幸い、誠太郎は変装に気づいていないようだ。
そうでなければ、こんな風に話しかけてくるはずがない。
おずおずと花束を受け取った。色とりどりの花は美しく、かすかな香りが鼻をくすぐる。
「ありがとうございます…」
精一杯小さな声で言った。
「一般展示はこれにて終了ですが、これから20分間の特別展示ツアーがございます。500人目のお客様への、特別なサービスです。お時間のご都合はいかがでしょうか?」
亜里沙は、一瞬ためらった。
特別展示ツアー…特別展示が気になる気持ちと、逃げ出したい、という気持ちが、激しくぶつかり合う。
(…どうする…?断るべき?でも…)
アズライトマラカイトの展示を見た時の、あの特別な感情が蘇る。彼の創り出す鉱石の世界をもっと見たい、という純粋な好奇心。そして、彼の口から直接、鉱石の話を聞いてみたいという、抑えきれない衝動。
(…鉱石を見るだけ…彼に会いに行くわけじゃない…)
そう自分に言い聞かせると、ほんの少しだけ、勇気が湧いてきた。
「…お時間は、大丈夫です。」
誠太郎は、嬉しそうに微笑んだ。「それは良かったです。では、こちらへどうぞ。」
彼は、展示の中央へと亜里沙を案内し始めた。周囲の視線が、再びこちらに集まっているのを感じたが、亜里沙は覚悟を決めた。今はただ、彼の鉱石の世界に身を委ねよう。そう思った。
特別展は、他の来場者がいない状態で行われた。誠太郎は、ショーケースの前で足を止め、鍵を取り出した。カチリ、と小さな音が響き、アクリルケースが開かれる。
ケースが取り払われると、そこには、先ほどまでとは全く違う、鉱石たちの姿があった。光を反射する角度が変わったことで、今まで見えなかった輝きが顔を出す。むき出しになった鉱石たちは、より一層、その存在感を主張しているようだった。
「特別展では、これらの石に直接触れていただけるんです。」
誠太郎は、嬉しそうに言った。彼は、手袋をはめ、丁寧に一つの鉱石を持ち上げた。
「これは、ラピスラズリです。古代から、幸運を呼ぶ石として珍重されてきました。この深い青色は、ラズライトという鉱物によるものなのですが…」
誠太郎は、ルーペを亜里沙に手渡した。
「このルーペで見てみてください。表面に、パイライトという鉱物の金色の斑点が見えるはずです。」
亜里沙は、言われた通りルーペを覗き込んだ。確かに、深い青の中に、小さな金色の点が散りばめられている。まるで、夜空に輝く星のようだ。
「本当に、星みたい…」
思わず、心の声が漏れた。
「そうなんです。だから、古代の人々は、この石を天からの贈り物だと考えたのでしょうね。」
誠太郎は、熱心に説明を続けた。その言葉は、鉱石への愛情に満ち溢れており、亜里沙は、彼の話にすっかり引き込まれていた。
その後も、誠太郎は様々な鉱石を紹介してくれた。水晶の透明な輝き、砂金のきらめき、そして、彼が採掘した場所の物語…。一つ一つ丁寧に説明してくれる誠太郎に、亜里沙は積極的に質問を投げかけた。今まで、鉱石にこれほど興味を持ったことはなかった。誠太郎の熱意に感化されたのか、あるいは、彼の視線が、亜里沙の心の奥底にある好奇心を呼び覚ましたのか…。理由は分からなかったが、亜里沙は、子供のように目を輝かせ、彼の話に耳を傾けていた。
そして、最後に、二人は再びアズライトマラカイトの前に戻ってきた。ショーケースから出されたそれは、先程よりもずっと近くで、その複雑な模様を観察することができた。
「これは…本当に、特別ですね…」
亜里沙は、思わず呟いた。
「ええ。僕にとっても、特別な石です。」
誠太郎は、優しい眼差しでアズライトマラカイトを見つめた。
「この石は、僕にとって、大切な出会いを象徴するものなんです。この石が繋いでくれた縁に、心から感謝しています。」
誠太郎は、亜里沙を見つめた。その瞳は、真剣そのものだった。
「亜里沙さん…今日は来てくれて、本当に嬉しいです。」
誠太郎は、優しい声でそう言った。
その言葉を聞いた瞬間、亜里沙の心臓が大きく跳ねた。彼は、私の名前を知っている…?変装が、バレていたのか?
完璧を期したはずだったのに、一体どこで…?驚きと、ほんの少しの、言いようのない恥ずかしさが、彼女の表情に浮かんだ。顔が熱くなるのを感じた。
「い、いつから、気づいてました…?」




