第四話 「殿下はやめてください!」
ヴァイケルはフィールスを睨む。肩で息をしているものの剣を持つその手は揺らぐこともなく、切っ先は左の胸上で止まっていた。
「あなた……」
イエッタが呟くように夫の名を呼ぶ。外にアズライアの兵が駆け寄りヴァイケルを知らぬのか、この不測の事態にどう対処すべきか躊躇した。兵は誰何するが、ヴァイケルはまだ睨んだまま、舌下に溜まった唾を飲み込む。躊躇しているのは他の誰でもない、ヴァイケル自身だった。
「シーラ……」
ヴァイケルの口にその名を呼ばれた少女は心なし震える。
「ヴァイケル殿。そなたは誰に剣を向けている?この私の体のことを言っているわけではない。誰に向けているのだ?」
騎士は視線を再び目の前の男に戻す。
「五月蝿い」
「騎士の誓いを忘れたか」
「だ、まれ……」
「先王の恩義を忘れたか!」
ヴァイケルは震えた。先王の言葉を思い出す。その誇り高き魂を思い出そうとしシーラを見る。そこに何か答えが見つかるかもしれないと思った。
違う。シーラは先王ではない。当たり前の事を理解していても心が迷っていた。
ヴァイケルの名を聞いた兵たちは顔を見合わせ安堵し、ヴァイケルの背後へと回った。
「ヴァイケル様!その男は逆賊でございます!何を躊躇うことがありましょうぞ!なんなら私めがっ!」
ヴァイケルは目をつぶり、背後の兵を左手で制し、そして剣を下ろした。
シーラを真正面に捉え、再び目を開いた。許しを乞うかのようにヴァイケルは跪く。
「殿下。私は許されざるものでしょうか」
シーラは困惑した。何故に許しを乞われるのか理解できない。だが、目の前の騎士が自分の言葉を待っている。
「ヴァイケルさん、あの、えっと、た、立ってください」
シーラは跪く騎士の手を取って立たせる。自分より高い位置にあるヴァイケルの顔をみて困ったように微笑んだ。
「あなたは最初に会った時、逃げろとおっしゃいました。それは多分、私を救おうとされたのでは?そう、最初から私を傷つける気なんて、なかったんです。そしてそれは私が父の子、と聞く前の、お話です。私は騎士様に、感謝することはあっても、一つも悪い感情は持っていません。私にはそれしか言えません」
騎士はシーラの言葉を一つ一つ確かめながら、徐々に目に力を取り戻す。治癒魔法、とやらで肺に刺さっていただろう激痛は消え、不思議なことに以前と変わらないような感覚がある。
だがまだ痛みはある上、体力は未だ完全ではない。魔法を使うシャイネリアが言うところ治癒に本人の体力を大量に消耗する、と言っていた。
本調子ではない。ではないが。
足元の剣を拾い上げ、少し掲げた後剣先を地面に向け柄を胸に当てた。
それは騎士が王の前で行う儀礼作法の一つだった。
「伯爵!聞きましたぞ!その女は卑しくも先王の子を名乗る売女めです!なんと汚わらしい女!このガストがその舌を切り取って」
ガストと名乗る兵は剣を抜き一歩踏み出したが、音もなく振り出された剣が自分の喉元に突きつけられたと気づいたのは、その暴力的な力で振られた刀身から金属的な振動音を耳にした後だった。
「は、伯爵。なんのご冗談で」
ヴァイケルはゆっくりと振り返った。
「殿下の御前だ。その命だけは助けよう。そして戻ってアズライアに伝えよ。誰の命で兵を動かした、とな。兵はすべからく、この殿下の為にあるものぞ。後見人であるヴァイケルがそう申したとな!」
フィールスは肩をすくめ、グラディアスは瞑想のため目を閉じていたがその言葉に微笑んだ。
「伯爵、ご自分のお言葉が何を意味をするのかお分かりか?この男らになにを吹き込まれたが知りませぬが、『狼』の二つ名を貶める様な事だけはどうか」
ヴァイケルが柄を握りなおし、剣先を取り囲む兵たちに向ける。
ああ、そうだ。もう既に堕ちる名など持っていなかったのだ。ファラスの言葉に踊らされ己では何も考えず状況に流され続けていただけの男に名などもういらぬ。
「名は既に腐り堕ちていた。行け」
数では斥候兵が勝っているが、ヴァイケルの剣技はもはや神の手そのものであると国内で知らぬものはいない。ましてや徴兵されてきた農民上がりの斥候隊では相手にはならない。舌打ちしながらリーダー格のガストは背を向けずに引き下がり、そして部下を従えて走り去っていった。
「どういうおつもりか」
フィールスの問いに首を振る。
「俺にもわからぬ。俺は騎士だ。自分の為に振るう剣は持っていない。騎士は王の為、家の為に、そして領民の為に剣を振るうことが許されている。だがこれで俺は家を追放されるだろう。守る領民さえもいなくなる。だが」
ヴァイケルはシーラを見た。
「守るべき王がここに」
ヴァイケルは頭を垂れた。
シーラは首を振った。その表情は苦痛と非難の目を携えてヴァイケルに訴えた。
「どうか私に頭を下げないでください!私は王になるつもりはありません。お城であなたが言ったように、私は国外に身を隠します。すべてを、忘れます。いえ。父のことは忘れませんが、決して口にはしません。だから、だから、どうか、私のことは、放って、置いてください!」
シーラは床へとへたりこんだ。そして膝の上のきつく握った拳の甲に落涙した。
イエッタはシーラの隣に座ると赤髪を愛しげに撫でた。耳元で何かを呟くと、シーラはイエッタの膝の上で嗚咽ながら泣き出した。
「ほんとに馬鹿な人たちね。自分たちが何を言っているのかわかっているのかしら?この子はただの女の子だってあれほど言ったのに。自分の運命は自分で決める、そんな当たり前の事をこの子は知っているのに、男どもったら」
何かが風を切る音が聞こえてきた。音は次第に大きくなり、屋根で大きな音を立てた。時をおかず軒先にも火矢が落ちた。
「そろそろ本格的にくるぞ」
ヴァイケルは剣を鞘に収め、フィールスを見た。
「案ずることはない。わが息子の準備が終わったようだ」
「魔法か?」
フィールスは頷いた。
グラディアスは部屋の中心で、両腕を宙に差し出した。宙に何かを描くように右手の指先を動かす。左手は胸の前で手のひらを床に向けている。
「古のアスリンは森で迷い精霊王に出会いて、うつくし歌声を聴く。混沌と困惑が混濁し、己が刃が血の花を己の胸に咲かせ、己が声が歓喜に変わる頃、幽世より浸み出でたる吐息はアスリンを抱き、砕き、裁き給う。おおアスリンよ、呪われし霧の虜囚となりしアスリンよ、嘆くなかれ。望み通りの永遠の夢につけるのだから」
ヴァイケルは背筋に冷たいものを感じた。それは気のせいでもなく実際に部屋の温度が下がり、吐く息が外より白くなっていった。グラディアスの足元から白い靄が湧き出て、地面を這うように外へと出て行く。シャイネリアも胸の前で両手を組んだ。
「駆けるエーンヴァルーの愛馬を見よ!雄々しき嘶きは音を超え、波を穿った。頬撫でる主の手を感じよ。お前の腹を叩く鐙を感じよ。そして蹄鉄を鳴らせ!その脚で雲を裂き、月を蹴り、星を砕け!ここに足跡を示せ!その名はファントマイズ!」
いきなり巻き起こった風は霧を乗せ、家を中心に渦をまいた。径を次第に広げ、やがて外は霧が立ち込める別世界となった。グラディアスは次の呪文の準備かかった。
ガストはいきなり視界を塞いだ霧にうろたえ仲間の名を呼んだ。手を伸ばすと手のひらが霞んで見える。
「ランジー、バリッタ!」
すぐそばでバリッタと呼ばれる男の声が聞こえた。
「無事だったか」
「なんとかな」
声のするほうにいくと人影が見えた。心ならずも安堵して引きつった笑いを見せる。耳が何かの音を捉えた。地面を蹴る音だ。剣を握り締め音のするほうを目を凝らした。霧が渦巻き、その中心から影が飛び出した。影がガストの頭上を越え、バリッタの影に覆いかぶさったかと思うと勢いを殺さずに体を持ち去った。
男の悲鳴が遠ざかりやがて消えていく。
「バリッタ!」
ガストは身を屈め、剣先をあちらこちらに向け突き出す。自分の吐息がやけにうるさかった。
首筋に息がかかる。それは生臭く、戦場でよく嗅ぐ匂いも混じっていた。
震えながら後ろ見る。ダガーのような歯をむき出しにしてそれは唸る。霧と見まがうばかりの白い毛皮の巨体を支える四足は音も立てずにガストに飛び掛った。人の四、五倍の重さを持つフロストティガーの体重を支えきれずにガストの肋骨は嫌な音を立てた。
混乱を通り越し狂乱化したアズライア軍は、霧と得体の知れぬ怪物から逃れようと四散し、霧の中で同士討ちさえ始めていた。
「おちつけぇ!隊伍を組みなおし、互いの背を守れ!」
バイエル・アズライアの老いた声は霧の中でもよく響いたが効することもなく騒乱は続いた。老将は舌打ちをして手綱を引く。
「引くぞっ!こうも得体も知れぬ相手とは迂闊だったわっ!」
なにが簡単な命令だ。いまだかって経験のない幻術と、ヴァイケルの乱心。おかしなことばかりではないか。忌々しく唾を吐く。この事をどう伝えるかを考えると、こめかみに痛みを覚える。バイエルは自ら王都に出向かねばならないな、とひとりごちた。
アズライアがわずかな手勢を引き霧を抜け出した頃、フィールスたちは、敵本隊の反対方向へと抜け出し、北へ向かう街道を歩んでいた。不安を覚えたシーラは先頭を歩くヴァイケルに問うた。
「何処へ行くんですか?」
ヴァイケルは鎧を脱ぎ捨てて、ごく普通の旅客姿になっている。他の四人もみすぼらしい外套を羽織っていた。
「もう、やだ。こんな格好」
シャイネリアはぶつくさと文句を続け、グラディアスが父親に支えられながらその愚痴を聞いている。ヴァイケルは後に続くエバンス家四人を見て溜息をついた。
「叔父に頼ろうと思っています。ここから二週間はかかるでしょう。馬なら速いんですがね。目立つ行動は避けたいので殿下にはまことに申し訳ないですが」
「殿下はやめてください!」
「左様ですな。人目があることですし」
シーラの本意を分かっていながらヴァイケルは話を逸らす。
「あなたの叔父でここから北に二週間というと……」
シャイネリアは頭の中にある地図を引っ張り出す。
「……キオエム伯爵?本気なの?」
ヴァイケルはシャイネリアを見て、
「ヴァイケルで結構。もはや爵位はないも同然だ。その問いの答えだが、私は本気だ」
グラディアスは二人のやり取りを見て首を傾げる。
「なんだよ。分かるように説明してくれ」
シャイネリアは兄の世間知らずに辟易するかのように溜息を漏らす。
「この騎士様はね。バシュタット国のアエロスにいる、事実上、人質となってるチェンバリン候の所に厄介ごとを持ち込むつもりなの」
「ほぅ。自ら厄介ごとと弁えているのは感心なことだ。終始大人しくしていただけると俺としても助かるんだが」
シャイネリアは燗にさわったのか、ふんと鼻で笑うと、
「元老院の一人でもあるチェンバリン候ですけど、信頼に置ける方かしら?案外、バシュタットに懐柔されてたりして」
ヴァイケルは顔を赤らめ喚き散らしたが、シャイネリアは涼しい顔で聞き流す。イエッタは愛娘を見て微笑んだ。それに気づいた夫は耳を寄せた。
「あの子、ヴァイさんが気に入ったみたいね」
フィールスは、そんなものなのかと苦笑いをした。
「女の勘よ」
そんなやり取りもシーラの耳には入らなかった。自分の周りが勝手に動いていく。自分の意思は何処に行ったのだろう。何故か自分が空っぽになってしまったような気がした。