椀間市吉津7-4 築21年 アパート1K6クローゼット有 コンビニ徒歩8分 自社
午後七時三十九分。
アパート二階の部屋。
秋武 駿は、となりの部屋がわの壁を見た。
そろそろ来る頃か。
アパートまえにある公園の時計台を窓から眺めた。銀杏の葉が静かに街灯に照らされている。
七時四十分ジャスト。
玄関の呼び鈴が激しく鳴った。
はいはいまた今日も来たと、おもむろに立ち上がり玄関口へと向かう。
「すみません! おとなりのかた!」
女性のヒステリックな声と、ドンドンドンドンと玄関扉をたたく音。
「あのさあ」
駿は呆れた声を出して玄関扉を開けた。
「うるさいんです! 毎日毎日!」
「だから、物音なんか立ててないって言ってんの俺は!」
二人ほぼ同時に声を上げる。
玄関前には、スーツを着たOL風の女性が立っていた。
ほっそりとして整った顔に、長いハーフアップの黒髪。すらりと細い肢体。ふつうに見てたら美人さんだと思うが。
女性は開いた扉のすきまから駿の部屋の玄関を軽く見回し、ポカンと口を半開きにした。
「わたしが来ると音を立てるのをやめるなんて、姑息じゃないですか?!」
「んじゃ、二十四時間ずっと音立ててたらいいわけ?」
駿は眉をよせた。
「ほら! やっぱりあなたが立ててるんじゃないですか!」
「例えばの話だろ! アスペかあんた!」
女性は、頭を抱えるようにして自身の黒髪を両手でグッとつかんだ。
「毎日毎日毎日毎日、四六時中ガタンガタンガタンガタンって音やめてください!」
「そんな音出るものないし。四六時中もなにも、昼間は会社でいないんだけど、俺」
駿はそう答えた。
「うそ! ずーっと部屋にいますよね?!」
女性が駿を指差す。
「いないし。何なら会社に問い合わせたら?」
駿はそう返した。
女性が、グッと喉を詰まらせる。
「……携帯、いま使えなくて」
止められてんのかと駿は思った。きちんとした会社のOLさんぽいのになと思う。
「んじゃ使えるようになってからでいいから」
何かやりにくい会話に突入してきたなと思った。
話題を変えようとするが、女性が顔を両手で覆ってうつむく。
うわ、泣いてんのかと駿は顔をしかめた。
「お給料安いから……お家賃安いところ選んだのに……こんなのひどい。たしかに事故物件って不動産の担当の人言ってたけど」
うわーあ、と顔を歪めて駿は顔を逸らした。
はたから見たら俺が泣かせたみたいじゃないかと心地悪くなる。
「あのさあ……ほんと、そんなうるさい音立てた覚えないから。いちど耳鼻科とかで診てもらったら?」
女性が顔を覆ってじっとうつむく。
「耳じゃなくて脳のほうに問題あるのかもしれないし。……あ、変な意味じゃなくてさ」
「分かってるんです。わたし、前々から鬱っぽくって。周りにも迷惑かけてるし」
よけいに面倒くさい話に入ったと駿は眉根をよせた。
何とか言いくるめて話を終われんかなと思う。
「この前も事故にあって、みんなに迷惑かけちゃったし。病院の人とか、病院に運んでくれた近くの工事現場の人とか」
「事故って」
駿は宙を眺めた。
話の先を促してないで強引に扉を閉めてしまったほうがいいんだろうと思うが、タイミングが難しい。
「あーそう。大変だったね。車の?」
「いえ。電車の事故です」
そういえばそんな事故あったようなと思う。たしか死者も出ていたような。
「……何ていうか、そういうのは迷惑って言わないんじゃないのかな」
何を俺、相談に乗ってるふうなことしてるんだと思うが、話を打ち切るタイミングがない。
「事故のとき電車内で親切にしてくれた人もいたんです。自分も事故にあって血まみれなのに、通勤カバンをわたしのほうに引きずってよこして、頭乗せると楽ですよって」
くすんくすんと女性がしゃくり上げる。
「ああ、うん、親切な人だね」
どう返していいか分からず駿は適当に答えた。
個人的には、そんなに飛び抜けて親切なことかなと思うが。
「なのにわたし、迷惑かけっぱなしで、いまだに恩を返せなくてえええ!」
女性が声を上げる。
「その人に直接お礼言ってきたら?」
そもそも何の話だっけと思いながら駿はそう返した。
はたとべつのことに思い至る。。
「……もしかしてその人、亡くなった?」
どんどん話が泥沼になるなと駿は思った。
早くやめたい。
「どこの人か分からないんです。わたし、すぐに意識失くしちゃって。その人が “おとなりさん?” って言った気はするんですけど」
すんっ、すんっと女性がしゃくり上げる。
「……ごめんなさい。ここにいても音、ぜんぜん聞こえませんね。本当にわたしの勘違いかも。ごめんなさい」
女性は鼻をすすりながらとなりの部屋へと帰った。
「あ……うん。お疲れさま」
意味のよく分からない挨拶をして、駿は女性のうしろ姿を見送った。
「ようやくお帰りになりましたか」
いつの間にか二階の通路に来ていた黒いスーツの青年が、となりの部屋のドアを見つめる。
このアパートを管理する華沢不動産の事故物件担当、華沢 空。
「不動産屋さん」
駿は呼びかけた。
「なに? となりの部屋って事故物件だったの?」
「ええ」
不動産屋がそう答える。
「何で教えてくれなかったの」
「基本、お家賃を払ってくださる方がお客さまなので」
「客じゃないから知らせる必要もないのか。割り切りすご」
駿は声を上げて笑った。
「電車事故で亡くなった人だったのか、おとなりさん。ガタンガタンって何のことかと思ってたら」
駿は玄関口の縦枠に背中をあずけた。
「事故のさいには救出されたんですが、ケガがもとで二週間後にとなりの部屋でお亡くなりになりまして」
不動産屋が説明する。
「外で死んで、住んでた部屋に戻っちゃった俺とはちょっと違うんだな」
ははっと駿は笑った。
「いちおう人に見えちゃった場合は生前の設定にしてるけど」
「あなたの場合も、とりあえず住む人には告知してるんですけどね。けっこう平気で出てくるようですから」
不動産が軽く顔をしかめる。
「俺は自分が死んだときのことよく覚えてないけど、おとなりさんはトラウマになってるみたいだね」
「あなたも同じ電車事故ですよ」
不動産屋が言う。
「では」
そう言い立ち去っていくうしろ姿を、駿は笑うのをやめて見送った。
終




