椀間市布荷3-8-203 築28年/アパート1K・6/南向きトイレ窓あり /自社
夜十二時二十分。
アパート二階の六畳の和室。
秋村 梨香は、そろそろ寝ようと布団を敷いた。
風呂上がりのセミロングの髪も乾かし終えた。
明日は月曜日。会社で食べる弁当の準備も終わり、出勤時の服も準備完了。
パジャマ代わりのTシャツと短パンに着替える。さて寝るかと枕を軽く叩いた。
昨日まで、隣には男子大学生が住んでいた。
夜中になぜか床を転がる音、床になにかを叩きつける音、さらに怒鳴り声が聞こえてきて、うるさい人だった。
さほど壁の薄いアパートではないので寝られないほどではなかったが、非常識ではある。
折りをみて不動産を通じて苦情を言ったほうがいいだろうかと思っていた矢先に引っ越して行ったので、ホッとした。
今日はゆっくり眠れそう。
十二時半。
「はー」
誰に聞かせるでもなく声を上げ、梨香は布団に入った。
風呂上がりの火照った足に、少々ひんやりする布団が心地よい。
今年は暑い日が長く続いたが、ようやくエアコンなしでも寝られる気温になった。
手を伸ばして室内灯の延長コードを引く。
オレンジ色の常夜灯だけにした。
「はーおやすみ」
独り暮らしなので誰が聞いているわけもないのだが、そう呟いて布団の中で横になる。
独り暮らしをすると独り言が増えると友達から聞いたことがあったが、本当だなと思う。
「コーチ!」
不意に若い女の子の声が聞こえ、目を開ける。
小柄な体型の誰かが上に覆い被さり、梨香を見下ろしていた。
薄暗い中、目を凝らす。
中学か高校の運動着を着た子のようだ。
なんとなく腰のほうに目線を移動させる。履いているのは、ネットの噂に聞くブルマというやつでは。
梨香の生まれた前後の時代には廃止されたと聞いている。
なんなのと梨香は目を丸くした。
「ちょっとなに?! どこの子?!」
梨香は声を張り上げた。
これが男性なら恐怖に固まるところだが、女の子なら強気でいける。
「なにそれコスプレ?! 不法侵入って知らないの? 親はなにしてんの!」
梨香は布団を退けて上半身を起こした。
とっさに武器がわりに枕元の目覚まし時計を手にする。
「コーチ! 見ていてください!」
話も聞かず女の子はそう言うと、激しい動きで畳の上を転がり出した。
ゴロゴロゴロッと高速で転がり、梨香の布団の上でバレーボールのレシーブのようなポーズを取る。
「ちょっ……! なっ……?!」
梨香はあわてて踏まれそうになった脚を避けた。
「なんなの! ふざけないで!」
だいたい、どこから入ったんだろうと思う。
玄関の鍵は確認したはず。水場と部屋を仕切るドアもきちんと閉めてある。
「回転レシーブ、百回! 行きます!」
ゴロゴロゴロ、と女の子は転がりだした。
先ほどと同じように激しい動きで転がり、壁を突き抜けてとなりの部屋のほうへと消える。
梨香は布団の上に座った格好で後ずさった。
「ちょっ……」
全身に寒気が走る。
壁を突き抜けて行った。
もしかして幽霊。
ブルマを履いてるということは、昭和の……だろうか。
「やっ……! やだ!」
梨香は最寄りの壁に貼りついた。
なんで幽霊なんて。
ここは事故物件ってわけじゃないし、霊感もないので拾ってきたという経験もない。
しばらくしてから全身を保護したほうがいいだろうかと考え、布団に戻って掛け布団をかぶる。
かぶってから台所の塩を取ってくるべきだったと思ったが、怖くてもう出られない。
女の子が壁を突き抜けてこちらへと走って来る。
「コーチ! わたしやりました!」
頭から布団をかぶった梨香の前に、女の子が膝をついて座る。
「ややややや! いやぁ! なにやったの来ないでえええ!」
「どうでしたかコーチ! わたしの回転レシーブ!」
女の子が嬉しそうに詰めよる。
「知らない! そんな昔のスポ根用語とか知らない!」
梨香は布団の中で縮こまった。
「全国大会に向けて! もう百回行きます!」
女の子が立ち上がる。
「いや! やめて消えてえええ!」
玄関の呼び鈴が鳴った。
間を置いて、二回ずつ。何回か鳴らされる。
梨香は、手にしたままの目覚まし時計を見た。
午前一時近い。
こんな時間に来る知り合いなんかいない。
「な……なに?! 追加の幽霊?!」
梨香は布団の中で頭を抱えた。
「夜分にすみません。え……と」
玄関の外から、若い男性の声が聞こえる。続けて、かすかに紙をめくるような音。
「秋村さん、そちらにバレーボール部の女の子の幽霊が来てないですか」
「え」と梨香は目を見開いた。
なにその唐突にこちらの状況をがっつり察知しているかのような。
もしかして、超腕利きのスーパー霊能力者。
「た、助けて!」
梨香は布団から飛び出すと、玄関に走った。
背後でいまだ女の子が回転レシーブとやらをやっていたが、振り向くのが怖い。
急いで玄関に行き、ドアノブに手をかける。あわてて順序がバラバラになった感じで解錠した。
ドアを開ける。二十五、六歳ほどの黒いスーツの男性が書類を手に会釈をした。
「霊能力者さんですか?! 不法侵入って教えてあげて!」
「夜分おそれいります。華沢不動産の者です」
男性がそう言い、名刺を差し出す。
「華……え?」
梨香は目を丸くした。
頭の中がのろのろと動く。
華沢不動産。ここを管理している不動産の名だったか。
「となりの部屋に出ていた霊が、こちらに来ていないかと思いまして」
ものすごく非日常的なセリフだが、かなり事務的に言う。
「となりの……霊?」
梨香は名刺を受け取り、薄暗い通路の明かりで見た。
華沢不動産、事故物件担当と表記されている。名前の読みは華沢 空でいいんだろうか。
「となりの部屋に出没していないので、もしやお隣かと。手近な方をコーチと思いこんでしまうらしくて」
「事故物件?! えっ?」
梨香は室内を振り向いた。
畳の上では、女の子が相変わらずゴロゴロと転がっている。
「ここ事故物件だったんですか?!」
「いえ、お隣です」
不動産屋がとなりの部屋のほうを指す。
「お隣に住んでいた方が引っ越して空き部屋になってしまったので、代わりに秋村さんがコーチに見立てられてしまったらしくて」
「は?」
梨香は顔を引きつらせた。
「な……なんですか、それ。えと、それで」
「お隣の方も、害はないけどうるさくてついつい怒鳴ってしまっていたと言っていらして」
不動産屋はとなりの部屋のほうを見た。
「お隣が空き部屋になっている間、こちらを事故物件あつかいのお家賃にするかどうか検討いたしますが」
「あ……当たり前でしょ。ちょっ……」
理解が追いつかなかったが、梨香は懸命に頭を動かした。
「隣が空き部屋の間だけ? ずっととかじゃないの?」
とっさにそう交渉してみる。
「大変申し訳ありませんが、被害が続く場合ということで勘弁していただけたらと」
不動産屋が苦笑する。
部屋でいまだ回転レシーブとやらをやっている女の子に、不動産屋は顔を向けた。
口の横に手を当て、すぅっと息を吸いこむ。
「今日の練習は終わり! 帰宅して一ヵ月間ゆっくりと身体を休めること。解散!」
不動産屋はそう声を張った。
「ありがとうございました!」
女の子がお辞儀をして消える。
「これでまた間違えて出るようでしたら、お家賃検討いたします。では夜分すみませんでした」
不動産屋が礼をしてアパートの階段に向かう。
梨香は部屋を振り向いた。
お家賃安くなるかもしれないのか。
もう一回出てきてもらえないだろうか。できれば複数回。
ついそう考えてしまった。
終




