朝石市真峰北8-1 築13年/バス停真峰北徒歩8・アパート1K6 コンビニ徒歩9/自社
海の近くの実家に帰省したのは、三年ぶりだった。
お盆休みに入ってすぐに新幹線に乗り、実家に着いたのは夜遅く。
休み最終日の今日は、お昼すぎの新幹線に乗ってアパートに帰ってきた。
上夏 涼介は、せまいアパートの玄関から入り、奥の畳部屋に荷物を置いた。
ふぅ、と息をつく。
暑いなと思い、シャツの襟でパタパタと首元を扇ぐ。窓の外にはそろそろ夕陽が見えはじめていたが、それでもエアコンなしの部屋は蒸し暑い。
明日から仕事だ。
就職して三年。仕事にはすっかり慣れたが、もう一日早く帰ってここでゆっくり休んでも良かっただろうかと考える。
実家から持たされたお惣菜の詰められたタッパーやら缶詰めやらよく分からん買い置きのインスタント食品。
持って帰るの大変だからと言ったら、野暮ったい模様の買い物袋に詰められて強引に持たされた。
おかげで荷物は帰省したときの三倍ほどになり、指には荷物の跡がついてしまった。
手をじっと見る。
あっか、と小声でつぶやいた。
おもむろにリモコンを手に取り、エアコンをつけた。
すぐに涼しくなるなるわけはないか。
とりあえず風呂に入ろうかと思う。
風呂場に入り、シャワーを手にして軽くタイルの床にお湯を流す。
留守にしていたのはお盆期間中だけなので、そうそう念入りに洗うこともないだろう。
シャワーを浴びるだけで済ませても良かったが、どちらかといえば湯船派だ。
湯船に張ったお湯にゆったりと浸かりたい。
湯船の横の蛇口をキュッキュッとひねる。
しばらくして勢いよく出たお湯の温度を手で確認し、湯船の詮を確かめた。
「よし」
誰もいないのにそうつぶやいて、風呂場を出る。
湯がたまるまで持たされた荷物の整理でもしよ。そんな風に思った。
風呂場の方から、か細い話し声が聞こえた気がした。
誰だと思うが、独り暮らしのアパートに誰かがいるわけもない。
いちおう事故物件との説明を受けた部屋だが、住んでから三年、とくに霊現象が起きた覚えはない。
気のせいかと思い、冷蔵庫の前で実家に持たされた食品の整理をする。
入り切れねえじゃねえかよと思いながら、冷凍庫に冷凍食品をぎゅうぎゅうに押して詰める。
「ひしゃくをよこせ」
耳元でそう聞こえた気がした。
誰もいるわけがと思いつつ振り向く。
「おにぎり」
別の方向から、そう聞こえた気がした。
空耳かなと思い耳を軽く叩いてみる。
ふと風呂場のほうを見ると、バシャバシャと激しくお湯の音がしている。
もういっぱいになったのかと思い、風呂場のほうに行きながら服を脱いだ。
畳部屋と風呂場の間あたりの位置にある洗濯機に脱いだものを放りこみ、風呂場入る。
「ひしゃくを貸せ」
また聞こえた気がしたが、隣の部屋のテレビか何かだろと思い、気にせず湯船のお湯を洗面器でまぜる。
洗面器を蓋の上に放り投げて、湯船に入った。
「はー」
新幹線と駅と、そこから乗ったバスの中で、ずっと冷房にさらされていたせいか、熱いお湯が逆に気持ちいい。
「あー落ち着く」
涼介は声を上げた。
途端。
蓋の上に置いた洗面器が、湯の中に落ちる。
「お」
手に取り、蓋の上に戻そうとした。
だが洗面器は勝手に動くと、お湯を汲みそのお湯をザブンと湯船に戻す。
「は?」
またお湯を汲み、そのお湯を湯船に戻す。
涼介は眉をよせてその様子を凝視した。
「……えと?」
「ひしゃくをよこせ」
か細い声がまた聞こえる。
ここの部屋で亡くなったとかいうご老人の霊が、三年めにして現れたかと涼介は思った。
「あの……それ、ひしゃくじゃなくて洗面器」
口元をついつい歪めてそんなことを言ってしまう。
よう分からんが、いざ幽霊に会うとこんなもんか。わりと平然としちゃうもんだなと思う。
「ひしゃくとか無いです」
次の瞬間、湯船から数えきれないほどの手が湧きだし、涼介の顔や身体を這った。
「ひしゃくを貸せえええ」
「うわっ! うわわわわわっ?!」
涼介は湯船から立ち上がろうとしたが、無数の手にぬるぬると捕まれて、なかなか足が踏ん張れない。
「ちょっ! ぶわっ!」
口元までお湯が迫り、何度も飲みこみそうになる。
「なん……ぶっ」
縁に手を描けるが、グイグイと引き戻される。か細くて青白い手のくせに力だけはものすごく強い。
自宅風呂場で溺れ死ぬ。まじありそうで地味に恐怖を覚えた。
「……ぶっ」
顔が湯に浸けられてゴボッと音がする。そのたびに必死で抵抗して鼻だけは出した。
「不動産屋さん、こっち! 早く!」
老人の声がした。
風呂場の扉が開く。七十歳ほどの老人と、ここの物件を担当している不動産屋の人が顔を出した。
「この人、地元から船幽霊つれてきちゃったみたいで!」
老人が言う。
「とりあえず、鼻をふさいでいてください。海部さん」
不動産屋が老人に言う。
老人が両手で鼻をふさぐとほぼ同時に、不動産屋がこちらに何かスプレーを吹きつけた。
微香性のいい匂いがして、無数の手は湯に溶けるようにして消える。
「やっぱり効きますねえ」
不動産屋がスプレーのノズルを見る。
「すごいイヤな匂いですなあ」
海部と呼ばれた老人が苦笑する。
涼介は、呆然と二人を見つめた。
「こちらの海部さんの知らせで来まして。勝手に入ってすみません」
不動産屋が老人を指す。
「いやあ、お盆でここに帰って来たら気持ち悪いのが団体であんたについて来たからびっくりしましたわあ」
「え……はあ」
湯船の縁に両腕をかけ、涼介は呆然と返事をした。
「まあ、女性の部屋じゃなくて良かったです」
不動産屋が消臭剤を床に置き、書類を取り出して何か書いている。
何だこの事態、と涼介は思った。
霊現象なんか会ったこともなかったのに、立て続けにわけ分からん目に会ってしまった。
髪から滴ったしずくを拭うのも忘れ、涼介は二人を見つめ続けた。
終




