岩川県岩川市臼沼字手地44-7
コロナの影響で、帰郷したのは三年ぶりだ。
川澄 千帆は、ようやく着いた実家の日本家屋を見上げた。
手にした帽子でパタパタと顔を扇ぐ。お団子に結った髪からほつれた数本の髪が、軽くなびいた。
代々庄屋だった家なので、家屋だけは大きい。
今では公民館で済ます地域の集会や、葬儀場や結婚式場でおこなう冠婚葬祭、そういったことをむかしはすべて庄屋や本家の家でやっていたので、人が集まったときのために広さと部屋数だけはある。
駅からタクシーに乗ろうと思っていたが、なかなか捕まらないので歩いてきた。
三十分ほどだし、まあなんとかなるだろうと思ったが。
ふう、と千帆は庭先でしゃがみこんだ。
山あいなので、ふもとの街よりは気温はいくらか低い。
帽子もあるし、途中の自販機でスポーツドリンクも買ったし、なんとかなるだろうと思ったが。
やはりしんどかった。
今どきエアコンも付けていない家なので、中に入っていきなり別世界のように涼しいのは期待できないが、まあ日陰になるだけましだろう。
去年くらいからは帰郷してきたと言っていた同僚が何人かいたが、自家用車で帰郷できる距離ならともかく遠距離、ましてまだ新幹線のない県なので、長時間公共の乗り物に乗ることを考えると、帰省は躊躇していた。
三年ぶりに乗った特急列車は、帰省ラッシュというほど酷い混雑ではなく快適だったが。
それにしても。
庭先でこんな風に座りこんでいたら、誰か出てきそうなものだが。
いまの時間帯に家にいそうなのは、祖母と母、あとは兄のお嫁さんと小学生の子供くらいか。
誰も気づかないのかなと玄関先を見つめた。
夕方すこし前だ。
専業農家だった時代には、昼ごはんのあとにみんなそれぞれの場所でお昼寝という習慣があったが、いまはその習慣はあまり残っていない。
スマホを取り出し、時間帯を確認する。
午後三時半。
時間的にお昼寝って時間でもないよねと思う。
となりの県で事故があったというニュースがステータスバーに表示されていたが、とくに詳細を見ず削除する。
千帆は立ち上がり、のろのろと玄関口に向かった。
鍵などかけたこともない玄関戸をカラカラと開ける。
誰も出迎えてこない。
「おーい」
小声でなんとなくそう言ってみた。
誰も来ない。
夕飯まえの今ごろの時間帯なら聞こえていそうな、母と兄嫁の台所での雑談すら聞こえてこない。
耳がおかしくなったんだろうかと軽く耳を叩いてみる。
蝉の声は、先ほどからずっと聞こえていた。
耳がおかしいわけではないと思う。背後の林檎畑を振り返った。
「もしもしぃ?」
家の奥に向かって声を上げる。
「誰かいないのぉ?」
大きな声を出してみる。
「ただいまぁ!」
さらに大声で言ってみたが、誰も出てこない。
横のほうで、カタッと音がする。
音源はどこかと振り返った。
母屋のとなりにある物置小屋。
トラクターの車庫や農具置き場も兼ねているので一戸建ての家なみに大きいのだが、そちらのほうから犬が駆けてくる。
実家で飼っている犬だ。
しっぽを激しくブンブンと振り飛びついてくる。
千帆は、やや押されて後ずさりながらも受け止めた。
「誰もいないのかい?」
いつの間に来ていたのか、玄関前に高齢の女性がいた。
たしか三軒先の家のお婆ちゃん。
ようやく知っている顔に会えて、千帆はホッとした。
「なんか、みんな出かけてんのかなって」
「まあ、そのうち来るべ」
高齢女性が言う。
「そうですね」
千帆は愛想笑いをした。
しっぽブンブン状態でなでてもらっていた犬が、はしゃいだ様子で林檎畑のほうへ走って行く。
おいおい、繋いでおかないのかと千帆は内心で実家の家族を咎めた。
「あんたも大変だったねえ、汽車で来て」
高齢女性が言う。
「ああ、暑かったですね。駅から歩いてきちゃった」
あははと千帆は笑った。
「それ、けいたいでんわかい?」
千帆の手元に目線を移し、高齢女性が問う。
手にしたままだったスマホを千帆は見た。
「えと……携帯というかスマホです」
「いまの若い人は、ここにそういうものも持ってくるのかい」
高齢女性がフムフムとうなずく。
「なんていうか……いまはたいていの所で電波通じますし」
愛想笑いをして千帆は答えた。
「家の人に電話かけてみたら?」
「あ、そうですね。スマホ持って出かけてると思いますし」
千帆は答えた。
「んじゃ、あたしは畑に行くから」
高齢女性はそう言って庭から続く一本道のほうへと歩いて行った。
「あ、お気をつけて」
そう返し、千帆は手を振った。
手を下ろそうとして、ふと怪訝に思う。
三軒先の家の畑って、もう耕してなかったんじゃ。
たしか、あそこのお婆ちゃんが亡くなったあとは家族全員が街に引っ越して。
さっき駆けてきた犬。
数年前、老衰だったと家族からメールがあったような気が。
林檎畑。
千帆が小学校のころにすべて切り倒して、いまはそこに兄と兄嫁が住む離れがある。
空がきれいな夕日になった。
周囲が急激に明るいオレンジ色に染まりだす。
千帆の中に、なにか深い穴に突き落とされたような異様な不安が広がった。
「……あれ」
「こんばんは」
背後から声をかけられる。テノールの男性の声だ。
二十五、六歳ほどの黒いスーツの男性が玄関横に立っていた。
やや童顔だが、なんとなく実年齢よりも落ち着いた雰囲気がある。
「華沢不動産の者です」
男性は、そう言い名刺を取り出した。千帆に差し出す。
「華沢不動産 事故物件担当 華沢 空」と表記されている。
「華沢不動産って……いま住んでるアパートの?」
なんでこんなところにいるんだろ。かなり遠い県なんですけどと思う。
「川澄さんのお住まいだった部屋は事故物件ではないので、本来僕の担当ではないんですが」
不動産屋は、言いながら名刺入れを内ポケットにしまう。
「亡くなったのもアパートではなく特急列車の外の畑でしたので、川澄さんのいらした部屋が事故物件になることもないんですが」
千帆は目を丸くした。
「亡くなった……誰が」
「川澄さんご自身です」
不動産屋が答える。
「ここに来る途中のとなりの県で、乗っていらした特急列車が事故を起こしまして。窓から外に投げ出された形で」
なんの話。
千帆は目を丸くした。
「ただ僕としては、川澄さんがお盆明けにアパートのお部屋に戻られるようだと、いちおう幽霊が出る可能性を次に貸す方にお知らせしたほうがいいかと思いまして。意思の確認に来てみたんですが」
この人の話を信じるなら、ここは死後の世界ということになるが。
それでこの不動産屋さんは、どうやってここに来たの。
かなり頭の混乱した状態だったが、この不動産屋に対する違和感が、千帆にはなによりいちばん強かった。
終




