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朝石市西片吉1-3 築23年 アパート1K・6 キッチントイレ窓あり スーパーマルスミ近く 自社


「ごめんなさい、無理です。退去します」


 夜十時半。アパート二階、階段から二部屋めの玄関口。

 露口 和泉(つゆぐち いずみ)は、様子を見にきた不動産の事故物件担当にそう告げた。

 玄関脇にかけた身だしなみ用の小さな鏡には、おだんご頭でペコペコお辞儀をする自分が映っている。

 ここを管理する華沢不動産の事故物件担当者は、いつも黒いスーツをきっちりと着こなしている二十五、六歳の青年だ。

 和泉(いずみ)とほぼ同じくらいの年齢だが、実年齢よりも落ち着いている感じがする。

 契約時にもらった名刺には、「華沢 (そら)」と氏名が表記されていた。

 事故物件は、夜中に突然退去したいという人が時々いるので、夜に一度様子を聞きに回ると言っていた。

 独り暮らしでほぼ会社とアパートの往復の生活なので、同年代の感じのいい不動産屋と短いながらも雑談をするのは、生活にメリハリがついて良かったが。

 ここの幽霊については、やはり無理だ。

 和泉の申し出に、不動産屋はとくに表情も変えず「そうですか」と返した。

 築二十三年、事故物件と堂々と告知されていたこの部屋に住んでから二週間。

 数日前から「無理かもしれない」と言い続けていたので、特に驚かないのも納得だ。

 

 ベランダに男性の幽霊が出るというのは、もちろん契約時に聞いていた。


 以前、男性の幽霊が出る別の物件を女性に貸したところトラブルが起こったので、基本的に男性の幽霊がいる部屋は男性限定にしているそうだ。

 だが、この部屋の幽霊はベランダにしか出現しないので、平気ならば女性にも貸していると説明された。

 以前にも女性が何人か住んだとのこと。

 ツイッターで書きこんでみたところ、同じ部屋と思われるところに住んでいたという女性が一人だけリプをくれた。

 「大丈夫。ベランダにしか出ないってうか、あたしは全然見えなかったw」と書いてあったので、平気かなと思って契約したのだが。

「……わたしも電気代とか上がるし物価も上がってるんで、家賃が節約できるならと思ってたんですけど、ここまでだともう怖くて。すみません」

「いえ。そういう方はちょくちょくいますので」

 不動産屋が微笑する。

 他の人が住んだ際には出現することすら滅多にないらしかった男性の幽霊が、なぜか自分のときだけは毎晩ベランダに現れた。


 カーテンの隙間から、一晩中ジーッとこちらを凝視しているのだ。

 その間ずっとハァハァと息を切らすような呼吸音がしている。

 

 三日前には暴れるような乱れた足音と叫び声が聞こえ、その数十分後にはとうとう部屋の中にまで現れるようになった。

 暗い部屋の中、片隅に人影が立っているのを見つけたときには恐怖で動けなくなり、とっさに寝ているふりをした。

 布団をさりげなく頭から(かぶ)ったので、いつ消えたのかは分からなかったが、朝にはいなかったのでホッとした。

 そんな出来事だけでも恐怖だったのに。

 夕べはとうとう、ベッドのすぐ横に立たれた。

 一晩中ジーッと顔を見下ろされる気配を感じ続けて、眠れるわけがない。

 蒸し暑くなってきたこの季節に、布団にくるまるようにしてじっとしていた。

 男性の幽霊がブツブツとなにかを訴えている声が耳に届いていたが、耳をふさいでいた。

 会社の昼休みに軽く仮眠を取ったが、こんなことがずっと続いたら体調まで崩してしまう。

「……わたし、前のアパートでストーカーというか変な人に付きまとわれていて。それで急いで引っ越ししたんですけど」

 和泉は泣きそうになった。

「そういうご事情でしたら、やはりセキュリティのしっかりした物件の方が」

 手にしていた書類に何か書きこみながら不動産屋が答える。

「でもあの、そういうところは家賃が」

「まあ……ここよりは張りますねえ、やはり」

 不動産屋が考え込むようにボールペンを米噛みに当てた。

「命には代えられないのかな……」

 和泉は呟いた。

「お話変わりますが」

 不動産屋がベランダの方を見る。

「生ゴミのような匂いがするんですが。失礼ですが、ここのお部屋ではないですよね?」

「え……ああ。わたしも朝から気になってて」

 和泉はベランダの方を振り向いた。

 微かだがそんな匂いを窓際に行くと感じていた。心当たりは無いので、他の部屋の住人だと思っていたのだが。

「昨日こちらに来たときは、こんな匂いはなかったような」

「わたしも気づいたのは今朝です」


 雨が降りだしてきた。


 一階の方から掃き出し窓を開け閉めする音が聞こえる。

 ここのところ少し蒸し暑くなり始めたので、窓を開けていた人がいたのだろうと思った。

 少し騒がしい気がするが、友達でも呼んでいるのか。

 このアパートのすぐ前には、少々幅のある植え込みがあり、物件を選んだとき、一階だと蚊が来そうなどと思った。

 実際はどうなのか。


「すみません。ちょっといいですか?」


 不動産屋の後ろから、警察官がこちらを覗きこんでいた。

 開けっ放しの玄関扉からこちらの顔を伺い、警察手帳を開いて見せる。

「お友達?」

 警察官は、和泉と目を合わせて不動産屋を指した。

「ここを管理している不動産の方ですが」

「ああ……ならちょうどいいのかな」

 警察官は一階の方を見た。

「下の植え込みで男性の遺体が見つかりまして。どうも二、三日前にここのベランダから落ちたと思われるんですが」

 警察官が説明する。

「一階の人が、朝から腐乱臭がして気になって植え込みの根元の方を見たそうで。──こちらで腐乱臭は? やはりしてましたか?」

 和泉は、不動産屋とほぼ同時にうなずいた。

「こちらの部屋に侵入しようとして、何かに驚いて落ちたと今のところ見られてるんです。驚いたような声を聞いた方が複数いるので」

 和泉は不動産屋と目を合わせた。

 警察官が、少し顔をかたむけ奥の方を伺う。

「ベランダを調べさせてもらいたいんですが。女性警察官が入りますので、よろしいでしょうか?」

 警察官が尋ねる。

 和泉はコクリとうなずいた。

「じゃ、のちほどまた」

 そう挨拶し、警察官が立ち去る。

「僕も立ち会った方がいいんですかね……」

 不動産屋が少々面倒そうな顔で警察官の背中を眺めた。

 しばらくしてから、こちらを見る。

「ああ、退去でしたね。手続きしますので」

 和泉は振り向いてベランダの方を見た。


 もしかして、遺体の男性はベランダの幽霊に驚いて落ちたのだろうか。

 落ちたのはつきまとっていたストーカーか。


「えと……とりあえずもう一日だけいいですか?」

 和泉はそう答えた。



 終





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