朝石市片吉9-1 築25年/アパート1K6 南向きキッチン窓ありスーパー、コンビニ近く/自社
近所のコンビニの駐車場に植えられた満開の桜が、外灯に照らされる。
長いこと閉まったままのコンビニだった。
介護で経営者が忙しいらしいとか人伝に聞いたが、引っ越して来たときにはもう閉めっ放しだったのでよくは知らない。
暗くなった空に白く浮かび上がった桜の花を温崎 陽真は見上げた。
重苦しい溜め息を吐く。
住居はこの先の安いアパートだが、帰る気になれない。
今の企業に入社して五年。
仕事にすっかり慣れたところで、学生の頃から住んでいた下宿を出てこのアパートに引っ越した。
なるべく節約したくて、ネットで知った不動産で事故物件というものを借りることにした。
いろいろヤバい話は聞いていたが、霊感も無いし何よりあまり霊とかは信じていない。
まあ、出るとかないでしょと思っていた。
自身のアパートに辿り着く。玄関扉の前で、陽真はもう一度溜め息を吐いた。
唐突に玄関扉が内側から勢いよく開き、額にぶつかりそうになる。
「はるくん、おっかえりぃ」
キャピキャピ声が出迎えた。
くるくる癖毛セミロングの二十歳ほどの女の子が顔を出す。
名前はさくら。やや季節外れのセーターにピンクのエプロンを付け、新妻よろしく陽真のスーツに付いた桜の花びらを払う。
「どうしたの? 元気ないね」
さくらが大きな目で陽真の顔を覗き込む。
「食塩、買ってきてくれた?」
陽真は無言で靴を脱いだ。上がり框に上がり、すたすたと六畳の和室に向かう。
「もーお。忘れたの? 買ってきてって言ったでしょ」
さくらは唇を尖らせた。
「しょうがないなあ。この盛り塩もらうね」
小振りの食器棚に置いた盛り塩を指先で摘まむ。
陽真は黙って卓袱台そばに長クッションを持ってきた。はぁ、と溜め息を吐き座る。
ガス台の上では、グツグツグツと鍋の中の食材が煮えている。その音を何とも言えない気分で聞いた。
「はるくん」
改まった顔でさくらが目の前に正座する。
陽真は目を逸らした。
「はるくんが置いて行ってくれたご飯、いま温め直してるの。パイナップルは後で二人で食べようね」
陽真は答えずに更に顔を逸らす。
「でね、はるくん」
さくらは構わず明るく話しかけた。
「はるくん、お使い頼んでもいつも忘れて来るの何でなのかな? 若年性認知症とかなのかな?」
真面目に言っているんだろうか。それとも煽りなんだろうか。
「はるくんが忘れないように、メモ書いてあげるね」
さくらは卓袱台の上に転がっていたボールペンを手に取ると、卓袱台の脚に貼り付けていた御札をベリッと剥がした。
「これに書いてあげるね、はるくん」
「う……」
陽真は堪らず頭を抱えた。
「うわああああああああ! 何なんだよお前ええええええええ!」
「なになに、どうしたの、はるくん」
さくらが大きな目を丸くする。
「何で幽霊の癖に御札だの盛り塩だの平気で触ってんだよ、お前えええ!」
陽真は叫んだ。
毎日、気が重いのはこれだ。
事故物件に出る幽霊なんか信じていなかったが、引っ越し二日めに明るく朝起こされ、それ以降、平然と陽真の部屋の家事全般をやっている。
御札を貼っても盛り塩をしても効果なし。
相談した不動産に至っては、ここの霊は姿を現したことは一度もないと言う。
最近は怖くて、毎日ご飯とスイーツを供えてから出かける。
今日はちょっと奮発して台湾産パイナップルをドンと置いてやったが、お供えものを奮発すれば成仏するという訳ではないらしい。
隣から、壁をドンドンと叩く音がした。
「あっ、すみませぇん」
さくらが声を上げて返す。
「はるくん、うるさくすると怒られちゃうよ」
さくらが首を傾げる。
「何なんだよお前えええ! 呪い殺すんならさっさと殺せえええ!」
「もう、はるくん」
さくらが陽真の頭を撫でる。
再び壁を叩く音がした。
「すみませぇん」
さくらがもう一度言う。
玄関の呼び鈴の音がした。
時計を見る。
午後十時半。
不動産屋だろうと陽真は思った。
事故物件は、夜中に突然出たいと言う人もいるので、いちおう夜に様子を見に回っているとか。
やっぱり幽霊出てるんですがと言ってやる。そう思い立ち上がった。
今日も朝食はさくらが作ったものだった。多分このあと夕食もそうなるだろう。冷蔵庫の食材を勝手に使って作るのでもったいなくて棄てる訳にもいかない。
食べるたびにあの世に引きずられて行くかのような寒気を感じる。
最近は、夕飯の残り物で弁当まで作る。昼も生きた心地がしないのだ。
事故物件なのは承知で借りたので損害賠償とまではいかんだろうが、姿は現さないって話だったのだ。文句言ってやる。
「様子はどうですか」
上がり框から手を伸ばして扉を開けると、黒いスーツの青年が顔を出した。
陽真とさほど歳は変わらない。
内覧の際にもらった名刺には「華沢不動産 事故物件担当 華沢 空」と表記されていた。
童顔だが、雰囲気としてはずっと歳上のような気もする。実際にはいくつなんだろうと思う。
「いやあのさ……不動産屋さん」
陽真は顔を顰めた。
「やっぱり幽霊出まくりなんですけど。御札も盛り塩も効かないし、ノイローゼなりそう」
陽真は髪を掻き上げた。
「出まくってますか?」
不動産屋が身体を少し傾け、六畳の畳部屋の方を伺う。
「姿はないようですが?」
なに惚けてんだかと思い、陽真は畳部屋を振り向いた。
誰もいない。
「ちょっと姿消してるとかでしょ。いつもキャピキャピキャピキャピって。本当うるさいですよ」
「キャピキャピ……」
不動産屋は緩く腕を組み、宙を見上げた。
「ここで亡くなった方は、おとなしい性格の男性なんですが」
「え……」
「契約時にご説明したかと」
どうだったかな。陽真は髪を掻いた。
幽霊なんて出るか出ないかが問題なので、細かいことは右から左だった気がする。
「まあ、うるさくしていると壁をドンドンと叩くことがあるようですが」
そう言い、不動産屋が書類に何か書き込む。
陽真は目を見開き、もう一度部屋を見た。
さくらの姿が突然消えた。
成仏したんだろうか。すげえ唐突だなと思いながら二週間が過ぎた。
ここ二週間は、不動産屋には毎夜「現れていません」の報告をしている。
食事も弁当も作ってくれる人がいなくなったので、コンビニ弁当やスーパーの惣菜で済ませるようになった。
同僚の中には彼女に振られたのではという目で見ている奴もいるようだが、どうでもいい。
しょっちゅう聞こえていたキャピキャピ声が急になくなると、どうしていいか分からんと思う。
食事をするたび恐怖で鳥肌を立てていたが、美味しいのは救いだった。
近所のコンビニの駐車場に植えられた桜が、外灯に照らされている。
もうすっかり花は散ったが、照らされた葉桜というのもまあまあいいんじゃないかと眺める。
そういや、あの幽霊の名前、さくらだったっけ。
今更ながら思った。
どこから来たのか、いまだに分からん。不動産屋も近くで死んだ若い女の子に心当たりは無いと言っていた。
「あれ……」
駐車場がいつもより明るいのに陽真は気づいた。
ずっと閉まったままだったコンビニが開いている。
何で気づかなかったのかと思う。
介護とやらは、もうしなくてよくなったのだろうか。ここで葬式を挙げていた覚えはないが、介護していた相手は回復したのか。
何にしろ今後の食事の選択肢が広がって助かると思い、陽真は店内に入った。
ハンバーグ弁当とカップの味噌汁、おにぎりを適当に手に取り、レジに持って行く。
レジにいたのは、くるくる癖毛セミロングの二十歳ほどの女の子だった。
「へ……」
陽真は目を見開いた。
「はるくんだ」
女の子が呟く。
「ええええええええ!」
陽真が声を上げるより先に、女の子が後退り大声を上げる。
店内の他の客が、何事かという表情で一斉に振り向いた。
「ええええええええええ! なんでなんで! なんではるくん実在してるの!」
女の子が喚く。
「何でって……は?」
陽真は目を丸くした。
「あああああたし、この前までずっと昏睡状態で、あのあの大学で階段から落ちて。昏睡状態の間、親切なイケメンの家に転がり込んで新婚さんみたいに過ごす夢見てて!」
何だそりゃ。陽真は呆然となった。
つまりここのコンビニ経営者が介護してたってのは、この子なのか。
「やだ恋愛もののラノベみたいな夢見ちゃったぁとか思ってて」
彼女の胸元の氏名章に「四月一日 桜」と書いてある。
この名字は、「わたぬき」って読むんだっけ。わたぬきさくら。
ともかくあのさくらなんだと陽真は思った。
終




