椀間市八橋保字拝天2-3 高内ビル3F ㈲拝天クリア・サービス
はあっと大きく息を吐くと、簾 香南子は、掃除道具一式をアパート空き室の流しの前に置いた。
小柄な身体に身に付けた青色の作業着。胸元には「㈲拝天クリア・サービス」とロゴが入っていた。
これから六畳一間、キッチン風呂トイレ付き物件の掃除を開始だ。
ポニーテールの髪を直す。
ゴム手袋を付けると、よしっと小さな声で言って、薄オレンジ色のカーテンを開けた。
遮られていた陽光が、傷んだ畳を射す。
窓の外に設置されたベランダに両手を掛け、外側から這い登ってきた女性がいた。
ぐい、と手を突っ張り自身の身体を持ち上げてこちら側に登ると、すぐにくるりと向こうを向き飛び降りた。
暫くすると、また這い登り、再び飛び降りる。
何度も同じことを繰り返した。
香南子は真顔でベランダに背を向けると、モップを取り出した。
業務用のモップ絞り器に水を汲むため風呂場に向かう。
外からは、重みのある物を叩きつける音が定期的にしていたが、気にしなかった。
水が溜まるまでやや時間がかかるので、もう一度畳の部屋に戻る。
畳や押し入れの襖に、先ほどまでは無かった殴り書きの文字がいくつもあった。
「死ね」「死んでやる」などと書かれていた。
先程この部屋に来たときには、気付かなかった。
カーテンで陽光を遮ってたせいかなと首を傾げた。
文字の傍に座り、顔を近付けてまじまじと見る。
口紅で書いてあるようだった。
「……落ちにくそう」
香南子は童顔の顔を顰めた。
前の住人は女性か、と思った。
しかも使われた口紅は、非常に特徴のある匂いがしていた。
某有名ブランドのものだ。
「勿体ない。高いのに」
ピンク系のリップを塗った唇を香南子は尖らせた。
あたしなんか、海外旅行のお土産で一回貰っただけなのに。そう思った。
雑巾にベンジンを付け、畳の目に沿って拭く。
ベランダの下の何かが落ちる音は、まだ続いていた。
襖の方はアルカリ系の洗剤で少しずつ落とす。
水染みが心配だが、新しく入居者があるときは、取り替えるのかもしれない。
風呂場の水音が変化した。
モップ絞り器の水が溜まったなと思い、風呂場に行く。
血のように真っ赤な水がたぷたぷと溜まり、タイルにまで流れていた。
「んん? 錆び?」
暫く流れるのを見ていたが、透明になる気配はない。
鉄分みたいな匂いがする。やっぱり錆びだな、と香南子は鼻を鳴らした。
キッチンの流しの水を出してみる。
こちらからは、赤い水に混じって長い髪の毛のようなものが流れた。
「うわ。塵も溜まってんのかあ」
眉を寄せる。
ここまで想定しての準備はして来なかった。
後から来る不動産屋さんに相談してみるしかないなと香南子は思った。
流しから部屋の方を見ると、畳の真ん中に女性が座っていた。
長い乱れた髪をばさりと前の方に垂らし、俯いて正座している。
あ、と香南子は声を上げた。
「不動産の担当さん、変わったんですかあ? 華沢さんは?」
女性は俯いたままだった。
「あの、水が赤くて。錆びだと思うんですけど」
言いながら香南子は女性に近付いた。
女性は俯き黙っていた。
「あの」
香南子は屈んで女性の顔を覗き込んだ。
「……殺す」
「はい?」
「あいつ、殺すううう! 呪い殺してやるううう!」
女性は顔を上げると、両手で香南子の作業着の腰にしがみついた。
目を剥き、噛み付かんばかりに歯茎を剥き出し、香南子の背中に両手でぎっちりと爪を食い込ませた。
「なに? ゴキブリでもいた?」
香南子は部屋を見渡した。
「うちの新入社員の人? じゃあ、そう言ってえ」
香南子は女性の手をぐいっと引っ張り外した。
踵を返すと、掃除用具を取りにスタスタと流しの方に移動した。
「清掃会社の社員がゴキブリ怖がってどうするの? あんなの付き物でしょ」
ねえねえ、あんたさあ、と言って香南子は振り向いた。
「掃除くらいなら簡単そうと思ってうちに就職した?」
部屋を見る。
女性はもういなかった。
「逃げたな。最近の子は根性無いわあ」
香南子は溜め息を吐いた。
自分も、ついこの前まで未成年だった年齢ではあるが。
玄関扉がノックされた。
返事をする間もなく入って来たのは、黒いスーツの若い男性だった。
華沢不動産の事故物件担当、華沢 空だ。
「すみません、香南子さん。こんな夕方近い時間帯に来ていただいて」
愛想の良い笑顔で不動産屋は言った。
「いえええ。全然構いませんん」
香南子は、語尾にハートマークが付きそうなほど上擦った声で言った。
「うちの他の社員の人たちぃ、何でか知らないけど、華沢さん担当の物件の掃除嫌がるんですよお」
香南子は可愛い子ぶった仕草で言った。
「まあ、普通はそうでしょうね」
不動産屋は微笑した。
「そういうの、失礼だと思うんですぅ」
香南子は手を組み、唇を尖らせてみせた。
「あたしが全部引き受けてるから、ちょっと遅い時間帯になっちゃいますけどぉ」
可愛く小首を傾げてみせる。
「この前は真夜中すぎて、燻煙剤炊きながら転た寝しちゃって、思わず助け求めちゃいましたけど」
あははは、と香南子は笑った。
「でも華沢さんって、どちらにしろ、あんまり早い時間帯に会えないみたいだし」
「あまり爽やかな時間帯に出ると、幽霊っぽくないでしょ?」
不動産屋はにっこりと笑った。
「やだ、幽霊なんている訳ないじゃないですかあ」
あはははは、と香南子は声を上げて笑った。
「あたし、見たことありませんし」
「そうですか」
不動産屋は言った。
「あ、でも、ここに幽霊が出ないなんて余所で言いませんから。営業妨害になっちゃう」
「ありがとうございます」
不動産屋は会釈した。
「では僕、弟がお供え物を供えてくれる時間なので」
「ああ、はい」
香南子は言った。
弟さんと一緒に仏壇のお供え物するのか。
仲いいんだなと思った。
香南子はほっこりしながら畳の部屋に戻ろうとした。
水道の水のことを言い忘れたと気付き、再び玄関扉を開け外の通路を見た。
不動産屋は、もういなかった。
「足はや……陸上でもやってたのかな」
カッコいいと呟いて、香南子は口元を弛ませた。
終