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「ママ、お爺ちゃんの会社のやくいんやってるから、ひだりうちわ」
沙梨衣は、何か気が抜けそうな感覚を覚えた。
米噛みが引き攣るような気がするのは、精神的に疲れているんだろうか。
「……それじゃ、少しくらいお金貰っても大丈夫だね」
「めんせつの人? まず電話でごれんらくしてください」
ママの仕事中の台詞でも真似ているんだろうか。聖は淀みない口調でそう言った。
「しよう期間は三ヵ月です。冷暖房かんび」
意味分かって言ってないな。沙梨衣は額に手を当てた。
「そんなのはいいの。お姉さん、身代金貰うんだから。ママの電話番号は?」
「かいしゃの広告にあると思うよ?」
「……個人で使ってる番号ね」
ふと聖の首にかけてある紐に気づいた。
もしかしてこういうのって。ピンと来る。
聖の服の襟に指を掛け、紐をツツッと引っ張る。
案の定、小さなパスケースが付いていた。
「かのう ひじり ママのばんごう」とマジックペンで書いた紙が入っている。
その下に、大きめの字で書かれた携帯番号らしき数字。
「これこれ」
沙梨衣はスマホを取り出し、書かれた番号に掛けた。
スマホの料金だけは確保しておいて良かった。これだけは死守していた。
だいぶ待たされたが、根気よく呼び出し音を聞いていると、てきぱきとした感じの女性の声で「はい、叶野です」と聞こえる。
ドキドキドキドキと沙梨衣の心音が大きくなった。
こんなときのあの定番の台詞を口にしたら、その時点で犯罪者確定になる。
迷ったが、要求する金額を低く抑えれば通報されずに内々で済むんじゃないかな。そんな法律なかったっけ。違ったかなと考える。
「あ、あの、お宅の息子さんを」
「え?」
女性が聞き返す。女性の周辺から聞こえるプルルルという音は、会社の固定電話の呼び出し音だろうか。
「ひ、聖くん、今わたしの所にいます!」
言ったーっと沙梨衣は服の心臓の辺りを握った。
「聖が? そこにいるんですか?」
女性が怪訝そうに尋ねる。
「で、でも大丈夫です。怪我とかはさせてません。元気……」
言いながら沙梨衣は聖の方を見た。
聖は、なぜか先程の包帯だらけの顔に戻っていた。
滴った血や、内出血で青く腫れた肌がリアルで見事すぎる。
「きゃああああああ!」
沙梨衣は悲鳴を上げ、畳の上を横座りで後退った。
「そのメイクやめて、怖いじゃない。いつの間に戻したの!」
「怪我が……無いんですか」
女性が沈んだ声でそう聞き返す。気のせいか、鼻をすすっているようだ。
「あの子……凄い怪我だったから……」
何言ってんの、この母親も。沙梨衣は包帯だらけの聖の顔とスマホとを交互に見た。
「け、警察に通報したら息子さんの命はっ」
「あの、夫も一緒でしょうか」
女性が鼻をすすりながら尋ねる。
「は? え? お父さん近くにいたんですか?」
さっきの死んだってのは何。
沙梨衣は慌てて室内を見回した。父親がここに連れ込むところを見ていたかもしれない。
とっくに通報されているかも。いきなり入って来て殴られたらどうしよう。
不意に、玄関扉が開いた。
心臓が跳ね上がる。
若い男性が七、八人ほど入って来た。それぞれの方向を見て雑談しながら靴を脱いだが、沙梨衣の姿を見て全員が不審げな顔をした。
どれがお父さんだろ。ともかく全員に謝ってしまえと沙梨衣は思った。
「ごめんなさい! 誘拐は嘘です! 謝ります!」
畳にセミロングの髪の毛先が付いてしまうくらいに頭を下げる。
「誘拐……?」
男性達が互いに顔を見合せた。
「つか、お姉さん何? うちの大学のOG?」
口々にそんなことを尋ねる。
「あれ?」
男性達の後ろから黒いスーツの青年が現れた。三和土で靴を脱ぎ、こちらに歩み寄る。
童顔だが、他の男性よりも少し歳上のようだ。
「また来てたんだ」
スーツの青年は聖を見下ろしそう言った。
「ここ、大学のサークルに物置みたいな感じで貸しているので。置いてあるものが面白いらしくて、ちょくちょく来てるんです、この子」
「で、あなたは」という感じで青年が目を合わせてくる。
「あ、わたしは、お、OGで」
両手を振りつつ沙梨衣はそう答えた。
青年が懐を探る。名刺入れを取り出し、沙梨衣に名刺を差し出した。
「せっかくですから。何かあれば」
名刺を受け取る。興味は無いが、ざっと表記されているものを見た。
「華沢不動産、事故物件担当」と書いてある。名前は、華沢……空でいいんだろうか。
事故物件にわざわざ住むユーチューバーなんかがいるのは知っていたが、不動産には担当がいるのか。いろんな仕事があるなと沙梨衣は思った。
「この子は亡くなったのはここではなくて、近くの県道なんですけどね」
不動産屋が苦笑しながら名刺入れを仕舞う。
「あ、ここで死んだのは、俺ね、俺」
男性のうちの一人が手を上げる。何の冗談だろうと沙梨衣は思った。
別の男性が「あれ」と声を上げる。
「衣装、一つ多くね?」
他の男性達が不可解な表情をした。
「ここの部屋で何かやると、必ずあるらしいぞ。一人分多いっての」
一番年長らしき男性が言う。
手を上げた男性が、ニッと笑いながら自分のことを指差した。
な、何これと沙梨衣は臀部で畳を擦り後退った。不意に、この部屋が事故物件だと前に聞いていたのを思い出す。
聖の母親とまだ通話が繋がったままだ。
とりあえず誘拐は止めておこうと思った。この状況で監禁なんて無理だし。
買い物袋も外の植え込みにうっかり置きっ放しにしていたと気づく。
スマホのを片手で持ち、通話を切ろうとした。その瞬間。
「めんせつの人でぇす」
聖が身を乗り出し、スマホに向けて声を上げる。
就職のチャンス。もしかして正社員の。そんな事柄が沙梨衣の頭に咄嗟に浮かんだ。駄目元で乗ってしまえ思いつく。
「そそそそそうです! あの、め、面接受けたいんですっ」
聖の母親はしばらくの間、話の流れがよく分からないという風に沈黙していた。ややしてから「なら……」と面接の日程を説明する。
「すみません。うちの子がまた来てますか?」
玄関にいつの間にか中年の男性がいた。苦笑している。
「パパー」
聖がそう言い無邪気に手を振る。
あれが父親か、と沙梨衣は思った。穏やかで優しそうな人だ。殴られることはなさそうな気がする。
「さっき言ったでしょ。死んじゃったパパだよ」
こちらを向き聖がそう説明する。
「ぼくと一緒に、じどうしゃじこで死んだの」
沙梨衣は全身を固まらせた。
聖の先程からの包帯だらけのメイク。事故物件担当者が、県道がどうとか。まさかと思う。
ワイワイと仮装の準備を進める大学生達を横目に見て、沙梨衣はぎこちなく立ち上がった。
「ご、ごめんなさい。かかか帰ります!」
脚を縺れさせるようにして駆け足で玄関に向かう。
「めんせつ、応援に行くねぇ」
聖が大きく手を振る。
「あ、んじゃ俺も。ハロウィン終わったら暇だし」
大学生達に混じって着替える幽霊の男性も手を振った。
玄関の扉を開けた瞬間、沙梨衣は足元からじわじわと鳥肌が立つのを感じた。
終




