於曾方市津ノ煤26 戸建て築35年2K/南向き 楚洲下線津ノ煤駅/自社
今年は梅雨明けが早く六月下旬から猛暑だったが、七月に入ると一転、雨が止まず洪水になった地域も各所にあった。
岸部 和人は、大きな白百合の花束を抱え、表面だけは何とか乾いて歩けるようになった泥の道を進んだ。
一ヵ月前、この辺り一帯に洪水による土砂崩れが起こった。
歩きにくさを覚悟して動きやすい服装とスニーカーで来たが、舗装された所でもない道を歩くのは予想以上にしんどい。
前方に、伯父が独り暮らしをしていた小さな一軒家が見える。
家自体は無事だったが、日課の朝の散歩に出掛けてた伯父は、三軒ほど先の家が押し流された土砂に巻き込まれ、病院で死亡が確認された。
別居していた伯母へ一応死亡の連絡をした流れで、何となく花束を供えに行きたいと思ったものの、周辺が長いこと立ち入りが出来なかったのと、仕事の都合とで今頃になった。
見回すと、見事なほど見渡しの良くなっている景色に恐怖を覚える。
ユーチューブでの報道を観た際には被害地域はさほど広くは思えなかったが、こうして見ると真っ直ぐに吹き抜けていく風が怖い。
顔を上げ、土石流の起点となった裏山の上部を見上げる。
住宅街の背後から、突然切り立ったようになっている崖。ビル三階、いや五階分くらいはあるか。
当日は三箇所ほどから鉄砲水が吹き出したと報道されていたが。
鉄砲水を見たことが無いので想像が付かんと和人は軽く眉を寄せた。
周辺では、後片付けをしている人達が大勢いた。
一輪車を押し泥を運ぶ男性、ゴム手袋を付け、泥の付いた日用品を外に運ぶ初老の女性。
自分のように、やっと立ち入り禁止が解除になって手伝いに来た人なんかもいるんだろうか。
抱えた白い百合の花束から強い匂いがする。百合は綺麗だと思うが、正直、匂いの強さは苦手かなと思う。
母の指示で白百合になった。さっさとどこかに供えたいが、献花台のようなものは無いんだなと思う。
伯父の家の前まで来ると、唐突に内側から玄関扉が開いた。大柄な年配男性がバケツを手に出てくる。かなり日本人離れした体格だ。和人は目を丸くした。
近所の人だろうか。家の中の泥でも掃除してくれていたのか。
復旧作業をする人々がこんなに大勢行き交ってる中で、まさか火事場泥棒をする人はいないだろうと思うが。
「なに? 花?」
大柄男性がこちらに気づき話しかけてくる。
「そこ伯父の家で。……いや正確には賃貸なんですけど。花供えに。献花台が無くて」
我ながら何だこの説明と思う。
「家ん中、供えれば?」
男性は玄関口を指差した。
「あ、ええ……」
やはり掃除をしてくれていた近所の人かと思う。
伯父の家の電気ガス水道は、まだそのままだろうか。もし大丈夫なら、お茶でもお出しするべきか。
「あの、良かったらお茶、淹れますけど」
去って行こうとする男性の背中に和人は声をかけた。
「うん?」と声を漏らし男性が振り返る。
「水道とかガスとか、まだ復旧してないんじゃないかな」
男性が言う。
ああ、そうなんだと和人は周辺を軽く見回した。
一ヵ月経つが、こんな風に地域一帯という感じでは中々かと思う。
重機もまだ入ってはいないようだ。山を背にした斜面も多い地形ではいろいろ難しいのか。
伯父の家の玄関扉を引く。鍵が掛かっていた。
さっきの大柄な男性は、鍵を掛けて出て行ったのか。そうは見えなかったがと和人は眉を寄せた。
合鍵をポケットから取り出す。カチリと音を立て解錠した。
昨日までここにいたかのように生活感の残る家の中。泥の付いたスニーカーを脱いで入る。
見たところ、何かを盗まれたという様子も無い。さっきの大柄男性は、やはり親切で掃除してくれていた人なんだなと思った。
部屋は和室が二つ。廊下から一番手前の部屋に入る。
どの辺に花を供えたらいいかなと思い見回すと、片隅にある小さな仏壇が目に入った。
「仏壇……」
誰のと思い、何となく覗き込む。
「ああ、それ俺の」
背後から声がした。
「うわ」と声を上げ振り向くと、先程の大柄な男性がいた。
いつの間に入って来たんだろうと和人は男性を凝視した。
「花瓶は無いから、洗面器でも使いなよ。風呂場にある」
男性が奥の方を指差す。
置いてあるものまでよく知ってるのか。和人はバクバクと心音の速まった胸を抑えた。
「え……えと。伯父とは親しかったんですか?」
「凄く良くしてもらったよ。毎日お供えものしてくれて」
「いえ、仏壇の話じゃなくて」
男性が布巾で卓袱台を拭き始める。和人はその様子を見詰めた。
まるで同居でもしていたかのような勝手知ったる感じに見える。
「ゴルフのコツとか教えてもらったりしたな」
「ああ、会社員の頃、接待ゴルフやってたから」
和人はそう答えた。布巾を持ち立ち上がった男性の背中に、「あの」と声をかける。
「お茶、飲みますか」
男性が目を丸くする。
電気ガス水道の復旧がまだだと言っていたか。和人は気まずさに顔を顰めた。
「いえ、コンビニで買って来るんで」
「ああ」と男性が相槌を打つ。
「水で」
そう言い、先程の小さな仏壇を指差す。
「ミネラルウォーターですか? メーカーとかは」
とりあえずは花束を活けた方がいいかと思い、和人は室内を見回した。
玄関の方から扉を開ける聞こえる。
「あれ? 開いてる」
そう呟く年配の男性の声と、廊下を歩いて来る足音。
部屋の入口から顔を出したのは、先日病院で死亡を確認したはずの伯父だった。
「は……?」
何だこれ。どういうこと。
和人は呆然と立ち竦んだ。
「あれ、お帰り」
大柄男性が陽気に声を上げる。
「なに? 信夫さんもここに住み着くの?」
「お邪魔します」
伯父の後ろから黒いスーツの青年が顔を出した。
年齢は和人と同じくらいだろうか。二十代中盤ほど。
真夏、しかも災害からまだ復旧していない地域に来ているにも関わらず、きっちりと黒いスーツを身につけている。
車も入れないのにどうやって来たんだろと和人は激しい違和感を覚えた。
「不動産屋さん、うちの甥っ子」
伯父が和人を指差す。
訳も分からないまま、和人は会釈をした。
スーツの青年が懐を探る。名刺入れを取り出すと、和人に名刺を差し出した。
「お世話になっております。この家を管理してます華沢不動産の者です」
「あ……はい」
花束を脇に挟み、両手で名刺を受け取る。
「華沢不動産、事故物件担当 華沢 空」。名刺にはそう記されていた。
「事故物件……」
和人は呟いた。
「言ってなかったかあ?」
伯父が名刺を覗き込む。
「いや、聞いてたけど。うちの母さんが、何考えてんのって言ってて」
そんな所に住むくらいなら、うちに来たらいいのにと両親ともに言っていたのだ。
「信夫さん、こんなに早くこっち来るなんてなあ」
大柄男性がそう言う。水を張った洗面器を手にしていた。
「花、活ければ」
そう言い洗面器を卓袱台の上に置く。雑だなと思いつつも和人は花束を包んだ紙を慌てて取った。
「信夫さんには、あんな立派な仏壇まで買ってもらって供養してもらって。本当、俺、有り難かったよ」
大柄男性が、豪快な仕草で伯父の背中をばんと叩く。
「んで、どうすんの? 今後は俺とここに住み着くかい?」
「いや……わたしは、さっさと成仏しようかと」
伯父が目尻に皺を寄せ笑う。
「成仏する前に、いろいろ手続きが気になってたそうで。今日はそのことで」
不動産屋が口を挟んだ。
「信夫さんらしいな」
大柄男性が豪快に笑う。
今、自分は何と一緒にいるんだ。和人は伯父と大柄男性を交互に見詰めた。
終




