椀間市八橋保字拝天2-3 高内ビル3F ㈲拝天クリア・サービス
繁華街の外れの方にある高内ビル。その手前の保字神社の石段前で拝天クリア・サービスの社用ワンボックスカーは停まった。
「じゃ、このまま石有珠市の方に行くから」
自ら社用車の運転をする社長が運転席からそう告げる。
「はいっ」と返事をして、簾 香南子は清掃道具を手に社用車から降りた。
三つほど持ったバケツがお互いにぶつかり合い、ガコン、ガコンと音がする。
「お気をつけて」
片手にモップを数本抱え、去って行く社用車に会釈した。
「よいしょっと」
モップの毛先を地面に付けないよう、少し身体を反らして持ち直す。小柄な香南子には少々難儀だ。
保字神社の石段の上の鳥居を何気に眺めながら、清掃会社の入る古いビルに向かう。
蝉の声が非常にうるさい。神社を囲むように繁っている林からだろうなと思う。
薄暗くがらんとした搬入口から入り、バケツの音をガコンガコンと響かせながら古いエレベーターの前に立った。
屋内駐車場と繋がっている場所なので、奥の方は昼間でも暗く、特有の冷たい空気を感じる。
ツナギのポケットに入れたスマホが鳴った。
「え、待って待って待って待って」
香南子はきょろきょろと辺りを見回した。ものを置けそうな場所は無い。
仕方なくコンクリートの床にバケツを置き、モップをその上に横に乗せた。
「㈲拝天クリア・サービス」のロゴの入った胸ポケットの蓋を開け、スマホを取り出す。
「はいはいはいはい」
返事をしながらスマホの画面を見る。
登録されていない番号であることに気づいた。
「誰?」
悪戯か、それとも悪質な業者か。
よく見ると固定電話の番号のようだ。
今どき珍しい。
市外局番からすると、つい先ほど廃病院の清掃に行っていた臼越市のようだが。
何か不備でもあったかなと思いつつ、とりあえず出る。
「はい?」
『あのう……病院のもの持って行きませんでした……?』
若い女性の声だ。酷く掠れている。
「病院のもの……と言いますと」
やっぱり廃病院の清掃の話かと香南子は思った。
長いこと放置されていたが、建物自体は頑丈な鉄筋コンクリートだ。自治体が買い取り避難所として整備するとのことだった。
塵捨てと掃き掃除くらいでいいと言われていたのだが。
「医療器具とか? そういうのは持って来てませんよ。専門の業者さんが処分するみたいなんで纏めておきましたけど」
香南子は答えた。
『……カルテです。持って行ったでしょう……』
目線を宙に泳がせ、香南子は記憶を辿った。
確かに診察室に古いカルテが大量に散乱していた。
『カルテ返してください……』
非常に掠れた声で女性がそう言う。
暫くしてから香南子は「ああ」と声を上げた。
「医療廃棄物の処理業者の方?」
なんだ、そういうことかと思う。
危ないものを処理していなかったか確認してくれてるのか。
「大丈夫ですよお。注射の針とかメスとか廃液とか? 医療廃棄物に当たるもの事前にレクチャーして貰いましたから」
『カルテ返してください……』
「カルテは特に危ないって言われてませんでしたよ? それにゴム手つけてましたし」
『カルテ返してください……』
香南子は首を傾げた。電波状況が悪くて聞こえてないのかなと思う。
今どき固定電話なんか使ってるから。
固定電話の仕組みは知らないけど。
『カルテ返してください……』
「ええと。裏手にある焼却炉の横に運んで積んでおきましたけど。後で収集車が来てくれるって」
『カルテ返してください……』
伝わってないなと思う。
何て説明したらいいんだろ。香南子は広い搬入口をぐるりと見回した。
『これからそちらに取りに行きます……』
不意に女性の声が低くなる。
処分しちゃいけないカルテまで運んじゃったかなと香南子は少々不安になった。
「取りに来るんですか? 焼却炉の横を探した方が早くないですか? 収集車、うちの社員が手配したばかりみたいだから、まだ間に合うと思いますけど」
ペタ、ペタ、ペタ、と奇妙な靴音が聞こえる。
フラットシューズかなと香南子は思った。こんな外と直接繋がった場所で履く人は珍しい。
テナントの事務所から直接来ちゃった人だろうかと思った。
暗い駐車場の奥の方から、白っぽいワンピースを着た人物が近づくのが見える。
ある程度の距離まで近づくと、ナース服であることが分かった。
体型が比較的はっきりと出る縫製、スカート部分は膝までのタイト。白いストッキング。頭部には大きな扇状の帽子。
今時コスプレでしか見かけない、いかにもなナース姿だ。
ビル内にコスプレバーとかあったっけ。香南子は眉を寄せた。
ペタ、ペタ、ペタ、と靴音を立て近づくと、ナース服の人物は香南子をギッと睨んだ。
「カルテ返してください……」
「え? え?」
香南子はナース服の人物と自身のスマホとを交互に見た。
「どっ、どこから掛けてたの?!」
「カルテ返してください!」
ナース服の人物は長い髪を振り乱し香南子に掴みかかった。
首に手を掛ける。
「えええ! ちょ、ちょっと、なになになに?!」
香南子は女性の腕を掴み、抵抗した。
掴んだ腕から、どろりと血が流れてナース服の白い袖に染み込む。
「やややややだ! 怪我させちゃった?!」
慌てて手を離すと、女性のあんぐりと開いた口からドロッと大量の血が流れた。
「なにそれ?! コロナ重症?! サル痘?! ニパウイルス? ブニヤウイルス? とにかくマスクして!」
「カルテが無いと患者さんの手術の準備が……」
「手術必要なの、あなたでしょ━━━!」
「香南子さん」
不意にテノールの声が挟まれた。
ナース服の人物が消える。
「んっ?」
コンクリートの壁に背中を貼り付かせ、香南子は目を丸くした。
「えっ、どこに行ったの?」
狐に摘ままれた気分で辺りを見回す。
エレベーターの扉の前に黒いスーツの男性が立ち、こちらを振り向いていた。
華沢不動産の事故物件担当者、華沢 空。
「華沢さん……」
「拝天さんにお仕事頼みに来たところだったんですが……」
不動産屋は搬入口から外を見た。
真夏の昼間にきっちりと着こんだ黒いスーツで汗ひとつかいていない。
いつもながら格好いいなと香南子は思う。
「病院って、カルテの保管義務があって罰則もあるらしいですから、焦っちゃったんですかね」
「大丈夫ですか」と言って、不動産屋が香南子の様子を伺うように見る。
香南子は貼り付いていた壁から離れると、いそいそとスマホを仕舞った。
「華沢さん、今のコスプレの人知ってるんですか?」
「多分、うちでお掃除をお願いしてた廃病院にいた方じゃないかと」
不動産屋がそう答える。
先程まで清掃で出向いていた廃病院の様子を香南子は思い浮かべた。
建物中に埃が溜まり、破損していた窓ガラスもあったが。
「今でも働いてる人いるんですか、あそこ」
意外に思い香南子はそう尋ねた。酷い劣悪な職場環境だなと同情する。
「いえ。平成の初期に閉鎖してしまった所なので」
不動産屋はそう答えた。
「建物管理してた人とか?」
「そういう人はいません」
軽く眉を寄せ、香南子は周囲に目線を這わせた。
「幽霊です」
不動産屋がにっこりと笑う。
いつもこの答えなんだよなあと香南子は思った。よほど怪談が好きなんだなと思う。
搬入口から、強い日差しに炙られた街が見える。
こういう日に起こるのは何だっけ。陽炎とか蜃気楼とか。
それかと香南子は結論づけた。
神社の蝉のうるさい声が、ここまで聞こえていた。
終




