石有珠市西祢津30 築46年/戸建て2K6・6 南向きトイレキッチン窓ありJA直売所徒歩10分先にあり/自社
ピアノの音が煩い。
会社から帰って来て、ゆっくり晩酌でもしようかと思っていたところにまた始まった。
流れるような上手い演奏ならまだともかく、つっかえつっかえのモロに初心者の演奏なんで、気になって仕方ない。
藤沢 新太は、畳の上で脚を投げ出して座り、チッと舌打ちした。
今年で五十歳になる。嫁には数年前に死なれたが、娘は結婚し、婿と同居したいと言ってきた。
正直言うと、この辺で独りでのんびり暮らしてみたいと思っていたのだが、孤独死したらどうするのと言われ押し切られた。
あまり気の進まない同居なので、細かいストレスはある。
そこにきて最近のこのピアノの音だ。
近くの小学生のいる家らしいが、窓から何回「煩い」と怒鳴り付けても、暫くするとまた弾き始める。
馬鹿にしてんのかと思う。
初心者向けの教材はバイエルとかいうんだとこの前ネットをググッたら書いてあった。
そのあと上達するごとにツェルニー三十番、ブルクミュラー、ハノン。歌も一緒にやる教室もあって、その場合で使われる楽譜はソルフェージュ。
無駄知識が増えちまったなと思いながら缶ビールを開ける。
プシュッと泡が出た。
まあ、これでもグビグビやれば、少しはストレスも吹っ飛ぶか。
口を付けようとする。
襖の開け放たれた部屋の出入口に、娘の芽依が立ち塞がった。
「お父さん! またそんなの飲んで!」
こちらに走り寄ると、引ったくるようにビールを取り上げる。
「何すんだこら!」
「こんなの飲むもんじゃないって言ってるでしょ!」
「煩い」
新太は娘の手からビールを取り返そうと両手で掴んだ。
余程ぎっちりと掴んでいるのか、中々娘の手は離れない。それとも自分の筋力が衰えたのか。
二十代相手とはいえ腕力で女に負けるとは悔しい。
新太は荒い鼻息を吐くと、娘を睨みつつ別のビールに手を伸ばした。
そちらを婿の克樹が両手で回収する。
「お前! 返せふざけんな!」
新太は座ったままの姿勢でそちらを蹴るように脚を曲げ伸ばしした。
「お義父さん、落ち着いて」
婿がジャニーズみたいな顔を歪ませ苦笑いする。
「お前にお父さんとか呼ばれる筋合いはねえ!」
「そんなド定番な台詞……」
婿は、ますます困惑したような表情になった。
「結婚式も結納もやらねえで何が結婚だ!」
新太は声を上げた。
途端に娘と婿はしゅんとなる。
「しょうがないでしょう、お義父さん」
婿がそう言った。
「お父さんだって事情は分かってるでしょ」
畳の上で正座した娘が顔を顰める。
暫く収まっていたピアノの音がまた聞こえ出した。
今度はアップテンポで鍵盤を叩くように弾き始める。所々おかしな和音になっていて苛々する。
「だああ! 煩え! お前ら文句言って来い!」
娘と婿が顔を見合わせる。
「お前らが言わねえなら俺が言う」
新太は立ち上がった。
窓に向かおうとしたが、婿がへらへらと笑いながら窓に立ち塞がる。
「僕が言って来ます。でもあの」
娘が立て膝になりズボンのベルトの辺りにしがみつく。
「言っても止むとは限らないですよ、お義父さん」
「いいよ、言って来なくて!」
娘が声を上げた。
「周りに当たりたいだけなんだよ! 家族みんなに死なれて俺だけ不幸って!」
玄関の呼び鈴が鳴った。
「不動産屋さんじゃない?」
婿が玄関口の方を見た。はぁいと返事をして娘が玄関口へと向かう。
「今晩は」
娘が玄関扉を開けると、黒いスーツの若造が会釈をするのが見えた。
確か名前は華沢 空。
今住んでるこの賃貸住宅の管理をしている華沢不動産の奴だ。
事故物件担当者だと以前自己紹介し、名刺を寄越した。
事故物件は夜中に急に退去したいと言い出す借り手もいるからと、夜に一度だけ様子を見に来る。
「お父さん、今晩は」
少し声を大きくし、不動産屋はこちらに向けて言う。
「お前にお父さんとか呼ばれる筋合いはねえ!」
「何言ってんの、お父さん」
娘が呆れた顔でこちらを振り向き、顔を顰める。
「だいたい、あんた。不動産屋!」
新太は声を上げた。
「あのピアノの音、何とか言って来い! 住環境悪くて堪んねえ!」
「ピアノの音ですか……」
不動産屋が茶封筒を持った手を緩く組み、明後日の方向を眺める。
「そっちじゃねえ! あっち!」
新太は逆方向を指差した。
「お父さん! いい加減にして!」
娘が声を上げる。
「お父さんしか聞こえてないの!」
新太は目を見開き、指差したまま固まった。眉を寄せる。何言ってんだ、こいつと思う。
「お母さんとあたしに事故死されて、辛いの分かるけどさ! もういい加減にして!」
「芽依さん、ちょっと……」
不動産屋が軽く右手を上げ、娘の発言を止める。
「上がっても宜しいですか?」
どうぞ、と娘が言うと、不動産屋は「お邪魔します」と返した。靴を脱いで上がり框に踏み出す。
新太の前に歩み寄ると、不動産屋は畳の上に正座した。
「以前はピアノの音なんてお話はされていませんでしたよね? 藤沢さん」
不動産屋がそう言う。
「最近、聞こえるようになった」
口を尖らせ新太はそう答えた。
「お父さん、ピアノの音なんて……!」
娘がそう言いかけたが、不動産屋が止める。
「小学生の子でもいるのか? すぐそこの家だろ」
「藤沢さん」
不動産屋は、特に表情も変えずそう呼び掛けた。
「周辺に住宅はありません」
新太は目を見開いた。
途端にピアノの音は止み、煩いくらいの蛙の鳴き声が耳に入る。騒音かと思うくらいの大合唱。
田植えしたばかりの田んぼの泥の匂いを新太は鼻腔に感じた。
「静かな所で暮らしたいって、田んぼの中の一軒家選んで引っ越したの、お父さんでしょ!」
娘が詰め寄る。
「事故物件でも構わないって。お義父さん、それで僕がいる家に来たんでしょう」
婿が横から静かにそう言った。
「ここは農家をやってた僕の祖父が住んでいた家で、僕は病気で会社を退職したあと、ここに居候してたんです」
「そのままここで病死しました」と婿は続けた。
「あたしが事故死した後、お父さんが心配でこっちに来てみたら、克樹さんと出会って」
娘が話を引き継ぐ。
「こういうの冥界婚っていうんだってって言ったら、それでもいいって喜んでくれたじゃない!」
新太は呆然と窓を見詰め、蛙の声を聞いていた。
心を落ち着かせようと先程のビールを目で探す。部屋の一角のカラーボックスの前にあるのを見付け、手を伸ばした。
「お父さん! だからそれは飲むものじゃないの! 台所に置いた詰め替え用のハンドソープ!」
新太は手に取ったプラスチックの瓶を見詰めた。缶ではない。
娘がコロナ禍を心配して買えと言ったものだ。
混乱して新太は頭を掻いた。
「もういい、寝る。明日仕事あるし」
「お父さん……」
娘が眉を寄せた。
「会社も早期退職したでしょ? 退職金と加害者からの慰謝料で、自分一人の残りの人生くらいなら大丈夫だろって」
ハンドソープを持った手を、新太は膝の上に落とし俯いた。
古いがきちんと手入れされた畳が目に入る。
「藤沢さん」
不動産屋が呼び掛ける。
「近くに心療内科の先生がいますが。ホームページに地図もあると思います」
新太の代わりに、娘がぺこりと頭を下げた。
終




