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「ちょっと待ったあああああ!」
甲高い、若い女性の声がした。
隣の部屋のベランダから、作業着姿の女の子が身を乗り出した。
隣のベランダとの仕切りに足を掛け、小柄な身体で乗り越えた。
ポニーテールの髪を大きく揺らして、女の子は朝子の足をがっちり掴んだ。
「ちょ、ちょっと、何があったか知らないけど!」
女の子は言った。
朝子の部屋の方から、慌てて駆け寄った人物がいた。
焦った表情で掃き出し窓から顔を出したのは、いつも真夜中に来る不動産の華沢だった。
「ナイスです、香南子さん!」
「燻煙剤、片付けに来て良かったあ」
女の子は言った。
よく見ると女の子の作業着には、清掃会社のものらしきロゴが入っていた。
不動産屋はベランダの端の方を見ると、困ったように眉を寄せた。
「航太郎さん、これだけは止めてくださいって言ったでしょう」
「いえ、ですが」
航太郎は俯いた。
「うちの両親が、私が独身のまま死んだのを、どうにも嘆いているらしくて」
「そのご両親も、だいぶ以前に亡くなっていますが」
「そうなんですが、使命感だけが残ってしまいまして……」
「あの、どういうこと」
植木の台から降り朝子は右手を挙げた。
何だろ、首のこのロープと思い摘まみ上げる。
首吊りのロープみたい、縁起わると思い顔を顰めた。
「勝手にお部屋に入って申し訳ありませんでした」
こちらを向き不動産屋が言った。
「いえ……ええと」
朝子は困惑し顔を歪めた。
航太郎が不動産屋の背後で深々と礼をする。
「改めて言います。朝子さん、結婚してください」
「うん、そのつもりだけど」
朝子は言った。
「冥界婚という形になりますが」
「……なにそれ」
朝子は目を丸くした。
「あの世で結婚するということです」
不動産屋が言った。
「やだ萌える」
作業着の女の子が口を挟んだ。
「こちらとしては、出来ればお断りしていただきたいんですが」
不動産屋は言った。
「夫婦の霊が住んでいる事故物件なんて、単身の霊が出る事故物件より需要なさそうなので」
不動産屋は眉を寄せポールペンで頭を掻いた。
何だろ、その基準。
事故物件なんて担当してるとこうなるんだろうかと朝子は思った。
「もちろん、受けるかどうかはご本人の自由なんですが」
不動産屋はそう言った。
「いや……そう聞いちゃうと……どうだろ」
朝子は茶色がかった癖毛を掻いた。
よく考えると、結婚を考えるほど好きだったのかどうかが急に分からなくなってきた。
そもそも航太郎とはどこで出逢ったのか。
取引先の人と思い込んでいたが、どこの会社だったか。
住んでいる近くのアパートというのは。
どこだっけ。
何かうっすらと催眠術にでも掛かってたみたいだと朝子は感じた。
朝子の様子を見て、航太郎は溜め息を吐いた。
「いずれにしろ、今後はこの物件は、やはり男性限定でお貸しすることにしますので」
そう不動産屋は言った。
えええ、と航太郎が声を上げる。
「そんな。男性を結婚相手に選ぶ訳にはいきません」
「誰もそんなことは勧めていません」
不動産屋はそう言い、持って来た書類の備考欄にその旨書き加えた。
「あの」
何が何やらという感じで、朝子は不動産屋に声をかけた。
「はい」
「女性とは関わらないようにと言いませんでしたか?」
不動産屋は朝子の顔を凝視し、記憶を探っているような表情をした。
「ああ……」
「ここに出る霊は女性では?」
「あれは航太郎さんに言ったんです」
朝子はぽかんと呆けた。
不動産屋がスーツの袖をずらして腕時計を見た。
二時を指していたのが見えた。
終