椀間市布濡住12-3 築27年/アパート1K・6/バス停上濡住近く南向き 自社
窓から見える神社の銀杏の葉は、色づくまではもう少しかかりそうだ。
小さな神社なので賑やかなお祭りがある訳ではないが、古くから住む近所の人が掃除をしているのを栗生 千秋は窓からよく見ていた。
特に宗教心がある訳ではないが、ここのところは窓から神社の様子を眺めていることが多い。
あの銀杏が色づくのを、もう一度くらい見てからでも良かったかもしれないが。
千秋は、何気なく自身の爪を見た。
そういえば、以前はピンク系やベージュ系のマニキュアを綺麗に塗っていたなと思う。
長いこと爪の手入れはしていない。
髪の手入れや服の糊付けも最後にしたのはいつだったか。
テーブルには、ラーメンを食べ終えたばかりの丼が置かれたままだ。
丼の内側には、先程まで盛られていた糵いっぱいの味噌ラーメンの汁がこびりついている。
丼の上に雑に置かれた箸が、カランと音を立ててテーブルに落ちた。
脱ぎっ放しの靴下が畳の上に放置されているのを、千秋はぼんやりと眺める。せめて洗濯籠に入れて置けばいいと思うのだが。
ここに越して来たのは、大学に進学したときだった。
友達を泊めて恋愛の話をしたり、お酒とお菓子で盛り上がったりして楽しく過ごしていた。
その後就職し友達を泊めることは少なくなったが、ここは他の住人も女性ばかりで居心地のいいアパートだった。
だがもう、だらだらとここに住み続ける訳にもいかないかと思う。
実家の父が、先立って亡くなった。
小さな雑貨屋を一人で切り盛りしていた父だった。
いい区切りだと思う。
充実して働いていた新卒入社の会社も、とうに退職扱いになっているはずだ。
ほんの少し開いた窓から秋口の爽やかな風が入り、レースのカーテンを揺らす。
「では、退去ということで」
玄関の三和土に立った黒いスーツの男性が言った。
このアパートを管理する華沢不動産の事故物件担当の人だ。
以前見せられた名刺には、華沢 空と氏名があった。
スーツよりも学生服の方が似合いそうな童顔だと千秋は思っていた。
実際の年齢は二十五、六歳ほどらしいが、はっきりと聞いたことはない。
「この場合、特に手続きは要りませんので」
茶封筒から出した書類をペラペラと捲りながら、不動産屋が言う。
「お世話になりました、不動産屋さん」
千秋はもう一度テーブルを見た。
不動産屋が来る前に淹れたインスタント珈琲の湯気が、まだ立っている。
部屋の隅には、体育座りの若い女性がいた。
肩で切り揃えた栗色の髪、Tシャツにカーディガン、ジャージという出で立ちだ。
山里 実穂子。
今のこの部屋の住人だ。
ここに住んで七年目、千秋は自転車との接触事故が元で死亡した。
もう十年近く前になる。
夜道で自転車とぶつかって転び、軽症だと思い込んで帰宅したところ布団の中で意識が失くなった。
霊になっても居心地が良いので何となく居続けてしまったが、実家の父が先日亡くなったことを知った。
良い機会だと思った。父に付いていってあげて一緒に成仏しようと思う。
「元気でね、千秋ちゃん」
実穂子が膝の横で手を振る。
「……死んでるんだけど」
千秋は眉を寄せた。
ここが事故物件であるのを承知で住んだ人とはいえ、始めは姿を見せる気は無かった。
しかし実穂子のあまりのだらしなさに、ある日とうとう我慢が出来なくなった。
一回だけと思いつつ、姿を現して説教してしまった。
「実穂子ちゃん、何回も言ってるけど」
眉をきつく寄せて千秋は言った。
「何で脱いだ靴下を置きっ放しにするの? 食事のあとは食器はさっさと片付けたら? 出来ればすぐ洗って。実穂子ちゃん、いったん洗い物ためると何日も置くんだもん」
「ああやだ、うるさい……」
実穂子は顔を俯かせた。
「うるさくない。それから、畳にビール溢したら放置して寝ない。生ゴミを何日も溜め込まない。浴槽のお掃除しないで、ぬるぬるのままお湯を溜めない」
千秋は顔を歪ませた。
「もう。さっきから、あの丼と靴下が気になって」
「千秋ちゃん、お墓参り行くね。お父さんによろしく」
実穂子はヒラヒラと手を振った。
「何か、実穂子ちゃんのだらしなさが凄い心残りなんだけど……」
「こちらは構いませんので、ご自分のタイミングでどうぞ」
封筒に書類を戻しながら不動産屋が言う。
「えっ。不動産屋さんて、住み着いてる幽霊の成仏奨励してんじゃないんですか?」
実穂子が脚を崩して声を上げる。
「特に奨励はしてませんが……」
緩く腕を組み不動産屋は言った。
「ホームページのコメント欄で見ましたよ。事故物件の霊を格好良く調伏したって」
「ガセです。後で削除しておきます」
不動産屋は淡々と言った。
「もう少しだけ居ようかな……」
窓の外の銀杏の葉を眺め千秋は呟いた。
美穂子が膝で畳を擦るようにして移動し、靴下を拾う。
「大丈夫! 安心して成仏して、千秋ちゃん」
心なし顔がひきつっている。
「では」
全く空気を読んではいない感じで、不動産屋は真顔で会釈すると立ち去った。
終




