椀間市尼内字新見利6-8-202 アパート1K 築20年南向きスーパー近く/自社
梅雨が明けてから一気に蒸し暑くなったな、と阿波野 果帆は思った。
近所のコンビニとスーパーで買い物をした帰りだったが、周囲に人のいない所ではさすがにマスクを外す。
日射しの強い昼間を避けて夕方に外に出たが、それでも蒸し暑い。
結った髪の間から流れる汗を指先で拭う。
お盆はもう少し涼しい地元に戻りたかったが、このご時世に田舎に行ったら顰蹙を買うんだろう。
実家とも相談の上、今年は独り暮らしのアパートでお盆休みを過ごすことにした。
いつもは帰省していた時期なので、この季節ならではの初めて見る光景もある。
古くからの住宅街では、お盆の茄子やら胡瓜やらを置いたり、蓮の花の造花を飾ったりしてる家が案外多いのだと初めて知った。
デニムに似せた布地の買い物袋は、二リットル入りのペットボトルの重みで歪んでいる。
途中で重みに耐えられなくて破れたらどうしよ、と考えながらアパートの安っぽい階段を昇る。
階段の段板の間から隣の一戸建ての家の窓が見えた。
掃き出し窓なので部屋の様子が丸々見える。
八畳ほどの和室だった。
男女の高齢者が数人、卓袱台を囲んで座り、こちらを見ている。
近所の俳句好きの会か何かかなと果帆は思った。
ゆっくりと階段を登って行くと、高齢者たちは少しずつ目線を動かす。
何となく動きを目で追われているような気がした。
気のせいだよね、と自身に確認する。
この階段を昇り降りする人なんてしょっちゅう見ている筈。そんなに珍しい訳ないでしょと思う。
不意に、高齢者のうちの一人と目が合った。
果帆の顔の辺りをじっと見ている。
ちょっと気味悪いなと思い、果帆は顔を顰めた。
そちらをチラチラと気にしながら、玄関の鍵を開ける。
玄関に入り、上がり框にやや乱暴に買い物袋を置いた。
ああ、暑かった、そう口にしようとする。
しかし自分が声を発するより先に、自分ではない女性の声がした。
「ああー、懐かしい。久しぶりだなあ」
背後から衣擦れのような音がした。
自分の背中から滑り落ちるようにして誰かが前に進み出る。
そのまま勝手知ったる足取りで六畳の和室の窓の方に向かった。
オフホワイトのチュニックに、デニムのズボンを履いた女性だった。
同年代だろうか。
顔を強張らせて見ていると、不意に女性はこちらを振り向いた。
目の大きめな快活そうな人だ。人懐こそうに笑っている。
「今年は帰省しなかったんですね」
そう女性は言った。
すっと足元から血の気が引くのを果帆は感じた。
ここが事故物件だというのは知っていた。
ネットで、夜中だけ事故物件を扱っている不動産があると知って問い合わせたのだ。
幽霊は特に信じていなかった。あえて否定する程でもないけど。
昼間は普通に営業している不動産ということだった。
事故物件を夜中にしか扱わないのは、演出なのだろう、客の興味の引き方が上手いな、なんて思っていた。
若い女性が突然死した部屋なのだと説明された。
部屋は綺麗に使っていた人のようだし、遺体も身内が様子を見に来たお陰で発見は早かったと聞いた。特に傷みもないまま引き取られたと。
特に気にする要素は無いと思った。
家賃がかなり割引きされているのだ。神経質なことさえ言わなければ、お得な部屋ではないかと思った。
「びっくりしたあ……」
午後十時。
様子を見に来た不動産屋に、果帆はそう話した。
事故物件は夜中に突然解約したがる人もいるとかで、こうして夜に一回だけ担当の人が様子を見に来る。
いつも黒いスーツをきちんと着た、童顔気味の二十五、六歳の男性だ。
以前くれた名刺には「事故物件担当、華沢 空」とあった。
扉越しの確認でもいいと言ってくれていたが、何となくいつも扉を開けて話していた。
独り暮らしだとたまの話し相手が嬉しくて、ある程度の顔見知りであれば、つい面と向かって話し込もうとしてしまったりする。
昼間の女性の幽霊の話を聞いた不動産屋は、特にどう思った様子も無く、書類を眺めていた。
「お会いしたの、初めてでしたか」
手元の書類がカサリと音を立てる。
「今頃の時期だけ来る方ですからね。お盆で戻って来ると、どうしても一度ここに来たくなるとか」
「戻って来るって……この世、とか?」
そうですね、と不動産屋が答える。
へええ、と果帆は適当な相槌を打った。
事故物件なんて担当していると、仏教とかの方面も勉強したりするのかなと思った。
「意外と普通な感じなんですね。出方がもうちょっと普通だったら、生きてる人だと思って喋っちゃってたかも」
あははと果帆は笑った。
「まあ、相手が幽霊と気付かず喋っている人は、結構いますよ」
書類をカサカサ捲りながら不動産屋は言った。
「お隣りの年寄りの人達、あの人が見えてたのかな」
果帆は言った。
「隣り」
「そっちの階段と窓が面した家。お年寄りがみんな揃って、あたしのこと見てたんですよね」
隣りの家の方向を果帆は指差した。
「女の人をおぶって階段昇る人がいたら、そりゃびっくりしますよねえ」
果帆はけらけらと笑った。
ああ、と不動産屋が呟く。
「近所の俳句好きのお年寄りが集まって、句会というかお茶会というか」
不動産屋は言った。大きめの茶封筒の中からポールペンを取り出し、書類に何かを書いている。
「やっぱりそういう集まりなんだ」
「今は空き家ですけどね」
不動産屋は言った。
「え」
「集まっていた方々も、十年前くらいまでに相次いで亡くなりましたし、持ち主のご夫婦が亡くなってからは誰もいません」
淡々と不動産屋はそう言った。
もう一度、え、と言って、果帆は顔を引きつらせる。
玄関の縦枠から身を乗り出し、隣の家を見た。
どの窓にも明かりは無い。
「普段、お見掛けしたこと無かったでしょう?」
不動産屋は言った。
「お盆ですからね」
そうと続けると、書類を大きめの茶封筒に入れた。
終




