臼越市前根連1-6 築38年/2K6・6 波越線臼越駅徒歩5分 南向き/自社
ぬいぐるみは、よく分からんから百円ショップの熊っぽいやつ。
ぬいぐるみに詰める米は、近くのスーパーで買ったノーブランドの一番安いやつ。
縫い針は、やはり百円ショップの裁縫道具コーナーにあった数本セットのやつ。
赤い糸は、やはり百円ショップの木綿糸。
刃物は、近くの大型スーパーの食器コーナーにあったのを適当に選んだ、片刃菜切包丁とかパッケージに書いてあったやつ。
同じく大型スーパーの値下げコーナーにあったコップに、水道水。
そこに、彼女が以前のアパートの台所に置いていた食塩をほんの少々入れ、塩水を作る。
普段から爪は短く切っているので、更に切るのは少々難儀だが、指先に爪切りを無理やり押し付け白くなっている部分をほんの少し切った。
時間はもうすぐ午後十時。
六畳二間のアパート、東側の和室。
蓮川 巧海は、ぱちんと爪を切る音を立てた。
これでいいのか。
唾液も出ていないのに唾液を飲むように喉が動く。
三年間付き合った彼女と、一緒に住もうと引っ越した部屋だった。
彼女も含羞みながら承知してくれた。
暫く一緒に住んだら折りをみてプロポーズしようと思っていたのだ。
だが、引っ越し作業を始めた辺りから、様子がおかしくなった。
彼女に電話しても、「何で」「誰ですか」とおろおろと言われ泣かれるようになった。
何を言っているのかと話しても、彼女とは話が通じず、啜り泣きながら電話を切られるようになった。
嫌われたのかと思ったが、それにしては様子がおかしい。
だいぶ経ってから、引っ越し先に選んだこの物件が事故物件だということに思い至った。
幽霊はあまり信じていなかった。
郊外なのもあって元々家賃は高くはない地域なのだが、その上で割引されるなら、まあいいだろうと思った。
通勤にさほど不便ではないのも選んだ理由の一つだ。
ここに居る幽霊が何かしているんだろうかと思うと背筋が寒くなったが、こんなことで別れることになるのは絶対に納得がいかない。
ネットで見た降霊術とやらをいろいろと試した。
よく分からんが、まず霊を呼び出して話し合い、説得すべきかと考えた。
こちらもそこそこの企業の営業部に所属して八年だ。
経験を活かして、何としても説得してみせるつもりでいた。
しかし幽霊は現れなかった。
ついに絶対にやるなとネットに書かれていた、ひとりかくれんぼに挑戦してみた。
冷静になると何をやっているんだと自分が怖くなったが、解決しない訳にもいかない。
これも何も起こらないかもしれないし、その時はまたネットで調べればいい。そう思う。
まず、ぬいぐるみに名前を付けるんだっけ、と調べたことを確認する。
百円ショップのぬいぐるみを手にしてじっと見る。
幽霊の名前を付けるのがベストなのかなと思ったが、名前は分からない。
彼女の名前を付ける訳にはいかないし、何にしようと思った。
「……ららちゃん」
そう口にしてみる。
「みおんちゃん」
宙を見上げ、顔を顰めた。
「きららちゃん」
大人のビデオの女優名ばかりだった。
なぜ咄嗟にこんなものばかり浮かぶんだと軽い自己嫌悪に陥る。
せめてアイドルか何かにしようと思った。
「……ゆあちゃん」
もうどうでもいいかと思った。
そういえば、このアパートを管理してる不動産は華沢不動産といったかと不意に思い出す。
事故物件の担当だという二十五、六歳の男性がくれた名刺には、「華沢 空」という氏名が表記されていた。
「空ちゃん」
まあ、いいだろうと思う。
事故物件担当ということは、仮にこれで呪われたの何のあったとしても、慣れてるだろうと勝手に思った。
畳の上に放置していたスマホに手を伸ばす。
ネットで次の手順を確認した。
水を張った浴槽にぬいぐるみを沈めるとある。
「水……」
巧海は暫く押し黙った。
それを早く言え。今から張ったら時間がかかるじゃないかと眉を寄せる。
「昨日の残り湯でいいだろ」
ぬいぐるみを片手で掴み、誰に言うともなくそう言いながら浴槽に移動した。
浴槽に沈める。そう考えると、ぬいぐるみの中に詰めた米が気になった。
ノーブランド米とはいえ、勿体なくないか。
濡らさなきゃ、終わった後に炊いて食べることも出来るんだと考える。
ぬいぐるみを浴槽の蓋の上にポンと置いた。
再びスマホを取り出し、ネットで確認する。
「……空ちゃん見付けた。次は空ちゃんが鬼ね」
棒読みの台詞のように言い、くるりと方向転換して和室に戻る。
「空ちゃん、えらい不利なかくれんぼだな……」
そう呟いて、塩水入りのコップを持ち押し入れに入ろうとする。
スマホの着信音が鳴った。
発信者名を確認する。明日香とあった。
ここに一緒に住むつもりだった彼女だ。
「明日香!」
そう声を上げ、巧海は慌てて通話の状態にした。
わたわたと慌てて耳に当てる。
ともかく向こうには何が聞こえていたのか詳細を聞こうとしたが、なぜか電話口に刺々しい感じの女の声が割って入った。
「だっ……」
誰だお前と言おうとしたが、そう言うとそのまま明日香に伝わるのだろうか。
明日香に言っているように誤解されたら、またややこしくなる。巧海は口を噤んだ。
「ゆ……幽霊ですか」
通話口の向こうで明日香が言った。
何か知らないが、会わないうちに事情を把握したのだろうか。
有難い奴だなあ。こんなところが好きなんだとしみじみ思う。
「明日香!」
巧海は呼び掛けた。
途端に、目の端に何か動くものが映る。
風呂場の方からこちらの部屋へ、凄い勢いでぬいぐるみが走って来た。
何が起こっているのかと理解する前に、ぬいぐるみは巧海のスマホにドロップキックを食わせた。
何すんだこら、と声を上げそうになり慌てて口を抑える。
もはや現実の出来事なのかも混乱して分からなくなって来たが、下手なことを口にすれば、明日香との仲が余計に拗れる可能性があるのは理解した。
巧海は畳の上に蹴り飛ばされたスマホを拾った。
ぬいぐるみがスマホにがっちりと抱き付き、通話口を塞ぐ。
巧海は、力尽くで引き剥がそうとした。
「彼はあたしのものなの」
通話口を鼻先でツンツンとつつくようにして、ぬいぐるみは言った。
「煩い、消えろ!」
巧海はそう言い、ぬいぐるみの背を掴んでスマホから引き剥がそうとした。
漸く通話口とぬいぐるみとの間に少し隙間が出来る。そこに顔を割り込ませるようにして巧海は叫んだ。
「明日香!」
「巧海、わたし分かったから。今から不動産屋さんと、親切な幽霊の方に相談するから」
通話口の向こうで明日香が言う。
不動産屋はともかく、親切な幽霊の方って何だと思ったが、それよりも完全に通話できないようにされる前に、一番重要なことを簡潔に言っておくべきだ。
通話口とぬいぐるみとの間をググッと広げ、巧海は叫んだ。
「結婚しよう!」
いや違う、と畳に手を付き俯く。
言うつもりではあったが、こういう場面で言いたかったんじゃない。まず何が聞こえていたのか確認だろう。
つい自分を咎めて隙が出来てしまった。
ぬいぐるみがスマホを持ち、通話を切ろうとしていた。
「あっ、くそっ」
手を伸ばし止めようとしたが、間に合わなかった。
玄関の呼び鈴が鳴る。
「蓮川さん」
玄関扉の向こうからテノールの男性の声がした。
聞き覚えのある声だ。
ここを管理している不動産の事故物件担当の人か。
「出られますか? 無理なら、勝手に入らせていただきますが」
ぬいぐるみが仁王立ちになり玄関扉の方を見据えていた。
睨み付けるような表情に見えたが、錯覚だろうとは思う。
扉を開けには行けそうだったが、その間にぬいぐるみが何をやり出すか分からない。
「どうぞ。入っていいですよ」
巧海は、やや疲れた口調で言った。
合鍵で鍵を開け、「失礼します」と言って入って来た不動産屋は、仁王立ちして睨み付けるぬいぐるみを見て状況を察したようだった。
普通であれば完全に戸惑いそうな状況で、この落ち着きぶりはさすがだと思う。
事故物件担当ともなると、少々の除霊の経験くらいあったりするんだろうか。
思わず巧海は期待した。
「彼はあたしのものなの」
ぬいぐるみは言った。
和室に入って来た不動産屋は、巧海の方に目配せした。座っていいかと尋ねているようだ。
「どうぞ」
巧海がそう言うと、不動産屋は畳の上に正座し、大きく息を吐いた。
「……非常に申し上げにくいのですが」
ぬいぐるみに向かって、不動産屋は静かに言う。
おおっ、と巧海は唾を飲んだ。
幽霊はあまり信じていなかったが、ここで生の除霊が見られるのか。これはこれで貴重な体験だ。
「恋人の明日香さんからいろいろとお聞きしたところ、彼は大人のビデオをこっそり視聴するのがお好きだというお話で」
不動産屋は言った。
巧海の方を手で指し示しているのに気付き、巧海は座ったまま後退った。
「いきなり何の話?!」
顔が引きつる。
不動産屋は、落ち着き払ってぬいぐるみを真っ直ぐに見ていた。
「お、男なら観るでしょ」
「そうですね」
特に何の感情も込めず、不動産屋は淡々と答える。
「不動産屋さんも観るでしょ?」
「それはちょっと申し上げにくいんですが」
不動産屋は言った。
「特にお好きなのが、やや幼顔の美人で、バストが豊かなタイプの女優さんだということで」
「ななな何で明日香がそんなの知ってんの!」
巧海は畳を臀部で擦り後退った。
「知らないふりをしてくださってたんじゃないですか?」
「いやあああ! そんなのあたしの彼じゃないいい!」
唐突にぬいぐるみが金切り声を上げる。
両の頬にモフモフした手を当て、激しく首を振った。
「仰る通りです。この方はあなたの彼ではありません」
会釈するような仕草でやや顔を伏せ、不動産屋は言った。
「あたしの彼は、もっと爽やかで潔癖で純粋で、王子様みたいな人なのおお!」
ぬいぐるみは叫んで身を捩らせた。
「悪かったな……」
巧海は顔を顰めた。
「こんな汚らわしくてイヤらしい男、彼じゃないいいっ!」
ややしてから、ポテ、という風にぬいぐるみは倒れた。
暫く見ていたが、再び動く様子は無い。
幽霊が抜けたという解釈でいいのだろうかと巧海は思った。
「……何なの、こいつ。ここにいた幽霊?」
ぬいぐるみを凝視したまま巧海は呟いた。
「ここで亡くなったのは、ホストのお仕事をなさってた男性で、成仏したらしく一度も現れてません」
「んじゃ、これに今入ってた幽霊は?」
「隣の市に在住していたOLさんで、事故で亡くなっているらしいんですが」
不動産屋は言った。
「多分ですが、こっそり通っていた店のホストさんと、あなたとを勘違いしたのではないかと」
巧海は暫く固まっていた。
ややしてから、おもむろに自身を指差す。
「……似てんの?」
「そこまでは知りませんが」
そう言い、不動産屋はゆっくりと立ち上がった。
「もう来ないとは思いますが、ご心配なら魔除け代わりにビデオのパッケージを並べておくという手も」
「無理でしょ。彼女と住むつもりなんですが」
ああ、そうでしたと不動産屋は言った。
「プロポーズのご成功、おめでとうございます」
不動産屋は深々とお辞儀をした。
「あ、いえ」
「では」
そう言い、不動産屋は玄関口に向かった。
終




