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玄関の呼び鈴が鳴る。
「不動産屋さんじゃないの?」
そう男性は言った。
「あ……はい」
明日香は促されゆっくりと立ち上がった。
玄関口に移動し扉を開ける。
黒いスーツをきちんと着こなした、二十五、六歳ほどの青年がいた。
このアパートを管理している華沢不動産の事故物件担当。
確か名前は、華沢 空と名刺にあった。
「お変わりありませんか」
大きめの茶封筒から書類を取り出し、不動産屋がそう問う。
事故物件は夜中に突然解約を申し出る人もいるとのことで、こうして夜に一回だけ様子を伺いに来る。
「あの……変わりというか」
ここの幽霊ととうとう遭遇してしまったと報告すべきなのだろうかと明日香は迷った。
遭遇した上、なぜか人生相談のような様相になっていたのだと。
「不動産屋さん」
明日香の後ろから男性が顔を出す。
やや大きめの目を軽く見開き、不動産屋は男性を凝視した。
「珍しいですね。今まで住人の前にはあまり出なかったのに」
「そりゃ、ぎゃあぎゃあ悲鳴上げられたりすると面倒臭いから」
男性は頭を掻いた。
「んだけど、このお姉ちゃんが死ぬだの呪い殺してくれだの言うからさあ」
男性は言った。
「マジで死んだら、俺と心中したみたいじゃない?」
そう言い男性はニカッと笑う。え、と明日香は声を詰まらせた。
「し、死んだ時期が全然違うじゃないですか」
「人なんて、面白おかしく解釈しようとするものでしょお?」
男性は声を上げ笑った。
「ああ、そうですね」
書類を眺めながら、不動産屋が打たなくていいような相槌を打つ。
「お姉ちゃん、何なら不動産屋さんに相談したら?」
男性が不動産屋を指差す。
明日香は不動産屋の童顔気味の顔を見た。
不動産屋は、複雑な表情で眉を寄せる。
「完全に業務の範囲外なんですが」
「いいじゃない。清掃会社の彼女いるでしょ」
男性は言った。
「そう見てる住人の方もいるみたいですけど、あちらに失礼では」
不動産屋は書類に目を落とした。
「あの」
明日香はおずおずと話を切り出した。
「彼の電話に他の女の人が出て、「彼はあたしのものだ」って言うの、男の人的にどう思います?」
不動産屋は暫くじっと明日香の顔を見ていた。
「彼氏さんは?」
「電話口には全然出なくて。女の人の後ろから何か喚いてる声は聞こえるんですけど」
「彼氏の電話なんでしょ?」
男性が言う。
「彼の携帯です」
明日香は鼻を啜った。
何か、また涙が出てきた。
「最近引っ越すって言って来て。あの」
鼻の音がすんすんと鳴る。
「郊外だけど、二部屋あって広いからって。それで」
また涙がぽろぽろと出て来た。
「い、一緒に住まないかって言ってくれてたんですけど。なのに」
「引っ越した途端に別の女が電話に出たの?」
男性が言う。
明日香は頷いた。
「変な話」
男性は宙を眺め頭を掻いた。
不動産屋は暫く横を向いて何か考えていた。ややしてから、おもむろに口を開く。
「あまり他のお客様のことを言うのもあれなんですが」
ボールペンで自身の顎をつつきつつ不動産屋は言った。
「最近、該当しそうな契約が一件だけ」
「あったの?」
男性が声を上げる。
「その物件のことかどうか分かりませんが、試しに彼氏さんに電話していただけるなら」
「お姉ちゃん、かけてみろ!」
男性は明日香を携帯を置いた和室の方に促した。
「え、え? って、どういうことなんですか?」
明日香は、おろおろと不動産屋の顔と和室を交互に見た。
「彼氏も事故物件に引っ越してたってことでしょ」
男性は言った。
「その女って、そこの幽霊?」
「僕が思い浮かべてる契約に該当する方なら」
不動産屋は言った。
「何そんな所紹介してんの、あんた!」
明日香を和室に促しながら、男性は声を上げた。
「そんなに害は無い所だったんですけどね……」
不動産屋は緩く腕を組み、宙を見上げた。
男性に急かされ、明日香は別れた彼、巧海に電話をかけた。
四、五回ほどの呼び出し音。
「はい?」と刺々しい口調の女が出た。
「あっ、あのっ!」
明日香は声を上げたものの、何を言っていいか分からず男性の顔を見た。
「幽霊かって聞いてやれ」
男性が横から言う。
「ゆ……幽霊ですか」
明日香は言った。
電話口から、何か争うような音と声が聞こえる。
「明日香!」
巧海の声がした。
「た……巧海」
再び争っているようだった。畳を擦る音や、柔らかい物で電話口を叩く音がした。
「煩い、消えろ」と何度か聞こえる。
「明日香!」
巧海が電話口で叫んだ。
「不動産屋さんの言ってんのに該当するっぽくないか……」
携帯を覗き込むようにして男性が言う。
「ぽいですか?」
玄関の扉の傍で不動産屋が言った。
「巧海、わたし分かったから。今から不動産屋さんと、親切な幽霊の方に相談するから」
「いや、俺に解決できるかどうかは……」
男性が苦笑する。
「明日香!」
やっと電話口を奪い取った様子で巧海は言った。
「結婚しよう!」
かなり焦った叫びのようだった。
明日香はその場で固まった。
いきなりで何を言われたのか分からない。
嬉しいことを言われたと思うのだが、事態が特殊すぎて脳が追い付かない。
「え……?」
「何ていうか……おめでとうございます?」
やはり複雑な表情で男性が言った。
「電話口奪って、とりあえず言っときたいこと言った感じか? 彼氏」
あ、そうか、と明日香はゆるゆると納得した。
他の女の人じゃなかったんだ。
幽霊が邪魔してたんだと、やっと明日香ははっきりと理解した。
「勘違いだったんですね……」
明日香は呟いた。
「まあ……この場合は勘違いするのが普通って気もするけど」
男性は顎の辺りを掻いた。
「ホッとしました……」
「この状況で?」
男性は眉を寄せ、複雑な表情をした。
明日香は、ひとりかくれんぼのために用意した道具を見た。
早まって馬鹿なことをやったと思った。
巧海の名前を付けたテディベアは、ちゃんと中の綿を直してあげようと思う。
電話口の向こうで、巧海が大きく息を吐いた。
ややしてから「あ、くそっ」という声が聞こえ、通話は切れた。
終




